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表層批評≒テマティック批評とはただの手段であり、そこに本質はないしもはや「古い」!

年間読書人さんと滅茶苦茶口喧嘩した後というのもあるのだが、そもそもこの人はどういうスタンスで批評しているのかを知らずして批判するのは確かに不味かったと反省している。
そのため、この3日ほどじっくりこの人の書いている映画評論なるものを読んでみたのだが、この人も結局は似非インテリでしかなかったというのが私なりに感じたことだ。
どこでそう感じたかというと、特に蓮實重彦と小津安二郎に関することであり、それを読んでいると「ああ、この人も結局は画面の向こうに何かを見出したい人なのだなあ」と失望してしまった。
まあこの人に限らず日本人で映画評論家を名乗っている人なんてそういう人が大半なのだろうけど、彼もご多聞に漏れず自分の読書量から得た知識で理論武装して己の感性の貧相さを糊塗しているだけなのである。

そもそも蓮實重彦が書いた『監督 小津安二郎』と対決するとか、「説話論とは何か?」なんて意味を考えようとしている時点でこの人は何も映画批評はもちろん小津も蓮實も「わかっていない」と言わざるを得ない
蓮實重彦が最も嫌っているのはもちろんご自身のエピゴーネンであるが、それと同じくらいに嫌いであろう人種がそれこそ年間読書人のような画面の向こうに何かを見出す「骨董品化」をしてしまうタイプの評論家である。
『監督 小津安二郎』の冒頭、「欠如と否定的言辞」のところでのっけから蓮實はそういう批評・評論のあり方を真っ向から批判し、その上で自身の表層批評≒テマティック批評を展開していた。
「古き良き日本の家庭を描いたホームドラマ」「もののあはれ」「俳句のような侘び寂び」といった「日本人的な価値観を持った作家」というのがかつて小津映画について回っていたかつての批評だったのである。

その評価のあり方が肯定的にしろ否定的にしろ、1つの価値観に小津安二郎並びに彼が作り上げた作品の数々に対するレッテル貼りであり、そんな彼が評価されるのではなく黒澤明こそが日本を代表する世界的な映画作家として評価されていた。
蓮實重彦はそれが我慢ならず異議申し立てがあり、彼なりに数多くの小津映画や古典的ハリウッド映画などを見て、それこそ淀川長治と同じような映画狂いとしての生活を送っていく中で何とかして小津の再評価に貢献しようとしたのである。
そこで彼が行き着いたのがフランス文学の批評の1つであるテマティック批評、すなわち作品の中に出てくるモチーフなどから主題論を導き出し、その表情を弄ることで作品そのものと素肌で向き合う批評を展開した。
それによって、小津映画を「日本人的な価値観を持った作家」という観点から人々の視線を解放することを可能にし、小津並びに小津映画はその神話めいた評価から一気に世界的かつ例外的な作家として再評価することを可能にしたのだ。

要するに蓮實重彦の展開している『監督 小津安二郎』とはそうした批評なのであって、だからその文章に書かれている意味を細かく推察・考察・批判・対決するといったことをしても何らの意味もないのである。
彼にとって小津安二郎という映画作家並びに彼の作品群は彼がフランス文学で習得した批評を応用してでも命懸けで擁護したい作家並び作品だったからそうしただけで、彼の批評自体は単なる手段でしかないからそこに本質はない。
そもそもそういう「本質主義」こそが彼にとっては忌避されるべきものであり、それすらもわからないで無意味な対決なんてことをしている人なんて私から見ればそれこそ蓮實という藁人形を作ってごっすん釘を刺す無駄な行為である。
正にこれだ。

見えないものと戦っている人へ

大事なのはその著書を読んだ人が私を含めて小津安二郎という作家並びに彼の作品を見るようになってくれること、あるいは作品に対する見方や視線を変えて再評価してくれることだ。

それにこの人は「作家主義」として付き合う作家を選んでいるが、私は作家主義ではなく「作品主義」なので厳密にはこの人の考えの全てに心酔しているわけでもない
ただ、文章の言い回しや語彙力も含めて「作品を作品として見よ!その向こう側に思想や哲学・歴史を見出そうとするな!」というあり方はその通りだと思うし、今の私の血肉になっている。

昨年のこの記事でも触れたように、私は蓮實重彦とは違い「作家主義」ではなく「作品主義」なので、徹底して一人の作家と向き合い擁護しようというスタンスでは全くない。
だから『監督 小津安二郎』なぞ私にとっては結局のところ「小津映画が評価されてないことを悔しがった映画狂いのおっさんの必死の闘争」であり、「参考書」程度に読むのが良いであろう。
年間読書人はそんな蓮實の小津論を「小津映画のファンなら表面だけを見るのではなく、その奥側の本質まで踏み込んで全てを愛せというのがこの人の小津論だ(意訳)」ということを述べている。
しかし、実はこれこそが深読みのしすぎであり、彼の提唱する表層批評とは徹底して「画面」のみを見ることに意識を集中させ、そこに一切の解釈も思想も許さないという態度なのだ。

結局のところ、年間読書人が小津映画並びに蓮實の『監督 小津安二郎』に対して展開している「小津論なるもの」は結局のところ「日本人的な価値観を持った作家」と評する態度とさして異質のものではないのである。
彼が述べている「少年愛」や「戦争体験に基づく過去の隠蔽」にしたって、結局のところは「作品の向こうに意味を見出し、勝手に忖度して有り難がる無価値な行為」そのものに他ならない。
それこそ彼がこの部分で引用している通りである。

シュレイダー氏の言葉に従って小津を定義することは、結局のところ、それを単調さと呼んで批判したかつての日本の批評家たちの視点とさして異質のものとはいえないからだ。誰もが、小津の形式の中に同じものをみていながら、あるときまで創意の涸渇ぶりと断じられていたものが、独特な世界観の表現に通じる貴重な姿勢として評価されはじめたというのであれば、こうした事態は、ただ時代の変化を証拠だてるのみである。……。
かつて批判の対象であったものが徐々に再評価され、その再評価に、異質の文化圏に属するが故に相対的に非゠歴史的な姿勢をとることが可能な外国人が深く貢献したというだけのはなしになってしまう。それは、同じ一つの「記号」に対する読み方が変ったということである。われわれは、その変った読み方にいま一つ別の読み方をつけ加えようとは思わない。そうではなく「記号」としての小津安二郎そのものを変化させなければならない。

そう、年間読書人の態度はせっかく『監督 小津安二郎』によって中立に戻され「作品」として正しく再評価されようとしている小津映画に対して「同じ一つの「記号」に対する読み方が変った」ことと何ら変わらない。
作品の向こう側に作家の心理・社会・文化・歴史といったものを見出そうとする深層批評、その代表として宮台真司や町山智浩らがやっている「実存批評」なるもの、と年間読書人の批評なるものはそれこそ本質的に同一のものである。
要は「小津とはこういう作家であり、彼の残した作品からはこういうことが読み取れる」という瑣末な解釈論争、言語学でいうところの意味論(semantics)や語用論(pragmatics)と大差はない。
そういうスタンスは確かにオタク、昔風に言えば「好事家」とでもいうべき人たちには有難がられるのであろうし凄そうだと思われるが、そうした論争が行き着く先は「議論のための議論=曲学阿世」である。

表層批評≒テマティック批評とは言語学でいうところの統語論(syntax)に近いスタンスの批評であり、具体的な文字の「意味内容」ではなく「形式」を基に「こういう主題が共通している」という法則性を導き出す態度だ。
まあ本来は映画にはそもそもそういう「文法」なるものは存在しないのだから、蓮實のやっていることは原理のないところに無理矢理統語論を持ち込むような暴挙にも等しい行為であることを理解しなければならない。
そして何より、蓮實重彦の表層批評はあくまでビデやDVDなどが存在しない「一度見逃してしまえばそれまで」という映画しか娯楽がなかった時代の一期一会の精神で書かれた批評である。
それはかつての「リアルタイム批評のすすめ」でもそう述懐している。

映画を見ることは、本質的に1回限りの体験だとごく自然に思われていたので、画面を一瞬でも見のがすことの恐怖感のようなものがたえずありました。私の『監督 小津安二郎』は、ことによると、世界的にいって、ビデオやDVDをまったく使わずに書かれた最後の書物かもしれません。映画の批評など書く以前の私は、この一瞬を見逃さずにいた、あるいはその一瞬を見てしまったという恐怖に耐えたひとだけが映画批評に進めるものだと思っていました。当時の映画批評家たちが、果たして全員そのようにして映画批評に進んだのかどうかは判断できませんが、すくなくとも、意図的に中心化されてはいないものを画面に見てしまったことの衝撃を、信頼のおける人たちと、国籍や世代を超えて、競い合うように確かめあっていたという事実はあります。

しかし、私は幸か不幸か物心ついた時には既に家庭にテレビとビデオデッキがあって、映画にしろアニメにしろテレビにしろ「ビデオで何度も繰り返し見る」ということがごく当たり前の時代であった。
サブスクによってネット配信が充実しているので、お金さえ払えばいつでも作品が見られるようになった今のZ世代から下の世代は「ビデオが擦り切れるまで見た」なんて感覚はきっとわかり得ないものであろう
思えば映像作品を観る時に「フィルム」とか「コマ」とかそういったものがピンと来るのはギリギリ我々プレッシャー〜ゆとり世代、いわゆる「ミレニアル世代」と言える世代までかもしれぬのだ。
Z世代以降になると今度はDVD・Blu-ray・ネット配信が中心になるため「ビデオ」という「最後のフィルム文化」はもはや「過去の遺産」となってしまっているであろう。

それこそ、私は映画専門の親友Fと今回のことも含めていつも言っているのは「感想でいい。どこが面白かったか、よかったかを述べてるだけでいい。作品の向こうに思想とか解釈とかは要らない」という話だ。
だから年間読書人のやっていることは私からすればそれこそ蓮實が批判しているところの「動体視力がない人が涼しい顔で書かれた映画批評」そのものであり、だから読んでいて何も刺さらないし作品を見ようという気にはならない。
ただ、今の時代は何度も繰り返し観ることが可能なためにその映画の黎明期から携わっている淀川長治のような「ショットを見逃さず頭から再現できるような動体視力の持ち主」自体がほとんどいないのであろう。
私が基本的に「感想」と書いているのはそういう理由によるものであり、蓮實重彦・淀川長治・山田宏一らかつての映画批評家が原体験としてやってきたところの「映画体験」を持っていないからである。

誤解を恐れず言えば、蓮實重彦の批評はそういう意味で「感性」を揺るがしてくれるというのと統語論に近い理論的な批評という点では共感しているが、一方で作家主義や画面に対する接し方においては「古い」批評なのだ
それは最新の『ジョン・フォード論』を読んでいても感じることであり、ましてや今は昔よりもはるかにサブスクリプションによって様々な作品を「縦の歴史」としてではなく「横並び」として見られるようになった。
だから今の私には正直無用の長物であるが、画面の向こう側に何かを見出そうとする行為こそが一番危険な態度であるというのは今も昔も変わらないと私は思う。

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