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一億総芸能人化した社会とは詰まる所「ドラえもん」の主人公・のび太くんの大量生産という解釈でよろしいか?

2023年は「風の時代の始まり」と言われていて、実際にこの2ヶ月だけでも相当な変化が生じていて、これもその一例であろうか。

オウム真理教とほぼ同時期ぐらいに台頭してきた幸福の科学の大川隆法総裁が死去し、29歳年下の妻に取締役が継承されていくらしい。
だが、これは決して喜ばしいことではなく、幸福の科学然り統一教会然り、「地の時代」と呼ばれた権威的な存在がどんどん廃れていっている
GAFAでさえ大量のレイオフ(一時解雇)が行われており、個人が組織に依存して働く時代が終わりを告げようとしているのだ。
しかし、それではこの日本が、そして世界が理想的な方向へ変化しているのかといえばお世辞にもそうは言い難いであろう。

何度か触れたが、今や人々はスマホやPCという高度な文明の利器をその使い方もろくにわからずに手にしてしまって、何となく生きている。
心構えが未熟な状態でそれを用いることはすなわち基地外に刃物であり、その現れ方がSNSを使った飲食店やカラオケでの迷惑行為の数々という形で露呈した。
もはや「品格」と呼ぶべきものを若者が喪失してしまいどんどん衰退しているこの日本が、海外ではドンパチやっているこの世界の何が「風の時代」なのか?
「一億総芸能人時代」といわれるが、今のままを見ていると私は「一億総のび太くん社会」になってしまうのではないかと危惧している。

ここでなぜ「ドラえもん」ののび太くんが出てくるのかという話だが、奇妙にも今のデジタル社会の構図はそのまま「ドラえもん」が現実化したものだからである。
私は子供時代何となくの感覚で「ドラえもん」を読んでいたが、幼少期はともかく中学生以上になって読むとあれは単なる「子供騙し」でしかないことに誰もが気づく。
実際、作者の故・藤子・F・不二雄氏も初期の数巻は「ドラえもん」をブラックジョークというかSF社会がもたらす歪みを卑近な小学生の日常という形で皮肉っていた。
そして7巻か8巻あたりでドラえもんが未来に帰らなければならず、のび太はドラえもんに頼れなくなり自立を迫られ、ジャイアンにボコボコにされながらも根性で食い下がる。

藤子先生は間違いなく最終回のつもりであれを描いたわけだが、藤子先生は「人気稼ぎ」のために「ドラえもん」が初期に持っていた作家性をかなぐり捨てて単なる商品に成り下がった
よくのび太が「落ちこぼれ」として描かれているが、それをいうならドラえもんだって出来の悪い劣等生のロボットだし、ジャイアン・スネ夫・しずかだってみんな性格悪い奴である。
それが「国民的漫画」として人気を得るに従ってどんどん超人設定が付与されて性格も初期とは完全に別物になってしまうが、私が大人になって「ドラえもん」に対して覚えた違和感の正体はこれだった。
「成長しないのび太くん」と「のび太くんを甘やかすドラえもん」を肯定し、それを読者が受容したピーターパン症候群の物語が今ある「ドラえもん」の姿ではないだろうか?

私はだからこそ「ドラえもん」が国民的漫画として褒めそやされることが気持ち悪くなってしまうが、それは日本人の多くがのび太にいつまでも落ちこぼれ=弱者であることを求めている証拠だ。
漫画の神様の手塚治虫や少年少女の物語を描く宮崎駿が「ドラえもんという作品の特徴はのび太が成長しないことだ」と言っていたが、それはのび太が成長したら物語がそこで終わるからである。
のび太が自立を果たすことはすなわち「ドラえもんが必要ない世界」を指すわけであり、初期の8巻までは間違いなくそんな物語として描かれていたが、それ以降は物語ではなくただのスナック菓子だ。
「ドラえもん」は決して「子供たちに夢を与える作品」などではなく、「便利なものに頼って自らを成長させようとしない弱者を正す作品」として描かれていたのではなかったか?

だから、後期ののび太くんはひたすら何かあるとドラえもんに泣きついて頼るし、しかもその貸してもらった便利道具をかなり悪どいことに使ってもいる。
大体はその因果応報がのび太に跳ね返ってくる形なのだが、そんなのび太くんを見ているとまるで高度なデジタル機器を使って悪事を働く今時の若者と重なるようだ。
もちろん22世紀という未来の架空の技術と今ある現実のデジタル機器の高度差は違うが、「便利なものを粗末に扱い悪事を働くほどに心根がさもしい」という本質は同じである。
そしてその本質の根底にあるのは「誰かに自分を認めてもらいたい」という承認欲求であり、今迷惑行為をかけまくっている若者たちは私から見ればのび太くんと大差ない。

こんなことをいうと「いやのび太だって優しいところはある」「射撃やあやとりは天才」「大長編では英雄として活躍している」といった批判が来るであろう。
しかし、それらはあくまでもイメージ戦略として作られた都合のいいところしか見ておらず、現実ののび太は適度にクズいところも沢山あり、諸手あげて称賛はできない。
少なくとも初期の藤子先生はのび太を「悪人」のように描いていた側面があるし、ドラえもんもブチ切れたら何をしでかすかわからないようなおっかないところがある。
藤子先生はすなわち「子どもというものは残酷な生き物」という性悪説として描いており、さらには「絶対に超えられない手塚治虫という壁」に苛まれ続けた。

そうした負の部分を汲み取って初めて「ドラえもん」という作品の本質は見えて来るわけだが、先生はそう遠くない将来人類の未来がこうなることを予見していたのかもしれない。
人々が自分の生活を豊かなものにしようと開発した文明の利器に依存して自分を見失ってしまい、それがなければ生きていけないと錯覚してしまう未来が来るであろうことを。
巧妙にブラックボックス化されたドラえもんのひみつ道具と理系の天才たちが開発したブラックボックスの塊であるスマホやPCのデジタル機器は本質的に共通している。
どんなに優れた文明の利器があったとしても、それは決して個人の生き方を豊かにする魔法でもないし、成長させてくれる教材などにはなってくれない

ダイヤモンドはあくまでダイヤモンド同士でしか磨けないのと同じように、昔も今も人間を成長させるのはあくまで「人との出会い」「経験」しかないと思う。
「一億総芸能人時代」と言われる風の時代だが、その意味を履き違えて今のまま進めば下手すれば「一億総のび太くん時代」になってしまうのではないか?
なんとなくだが、こないだ久々に「ドラえもん」を全巻読み返して見てふとそんなことを思った。


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