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映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』感想〜男と女と乗り物があれば映画は撮れる〜

押井守の映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』をかれこれ5度目の視聴となりますが感想・批評をば。

評価:A(名作) 100点中80点

監督自身の集大成にして「パト2」をある意味では超えてみせた『イノセンス』を経た後での軽やかさが何とも言えない味わい深さになっている不思議な作品だ。
押井守の中で代表作を挙げろといわれると、大体挙がるのは『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』だろう。
しかしそれらの作品はある程度消費し尽くされ批評も出ている気はするが、この『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』はまだ十分に語り尽くされていないと思われる。
興行収入が同年の『崖の上のポニョ』と比してあまり伸びなかったこともあり、批評家をはじめ世間ではいわゆる「押井マニア」の間で話題になった程度だ。

確かにそれまでにやってきた作品と比べれば本作は決して派手さには欠けるし脚本・演出・ドラマなど際立って目立つような特徴もなさそうに思われる。
台詞回しも他の作品に比べると幾分平板なようだが、それでも本作は間違いなく「映画」であり、ある意味とても懐かしい古典的ヨーロッパ映画を敢えて2008年にもう一度やり直した感じがあった。
それまでの押井守の作品があくまでも原作が先にあって、最初にOVAやテレビで下積みを経験してから映画の上でやりたいことを表現させてもらうといういった意味合いが強い。
それに対して本作はそういう「背負っている」感や「制約と誓約」のような縛られている感じはなく、とても伸び伸びとした軽さがとても心地よくさくっと見られる一本である。

位置付けとしてはスタンリー・キューブリックの『アイズワイドシャット』に近いであろうか、力作を放ち続けた猛者が晩年に見せる軽さというか、拍子抜けするほどシンプルだ。
批評家・宇野常寛は本作をポストモダンの観点から破綻している駄作だと貶しているが、確かに思想やメッセージ・ドラマ性といったところを本作に求めるならそういう評価であろう。
しかし、私が本作を高く評価している理由は敢えて今の時代に誰も求めていないであろう「映画」を提示することで「画面の運動」としての映画とはこうだというのを示したからである。
だから本作を高く評価するか低く評価するかでその人の映画人としてのセンスがはっきり区別されるという踏み絵のような作品である。

本作の何が素晴らしいのか、見ているものの感性が具体的にどこでどう揺さぶられるのか、コロナ禍が落ち着いて人心もゆったりしている今こそ語ってみたい。

意図的に行われている『反復とズレ』


まず黄金期の邦画、特に小津映画を語る時に吉田喜重が用いていた『反復とズレ』なるものが画面の運動として饒舌に語られていることを指摘せずにはいられない。
日常的な景色、特に湯田川と合原が新聞を読み終えた後丁寧に折り畳むシーンは優一も指摘していたように同じカットの反復になっていて、ビジュアルも寄せている。
また、ティーチャーがパイロット達を撃墜していくシーン、戦いが終わった後のバーでくつろぐシーンなどなど何度か見たことある風景が反復されていることがわかるだろう。
しかしながら、そんな同じシーンの反復をしつつもそこには人間関係や時間の経過に伴う状況の変化といった「ズレ」がそこに見られるが、これがたまらず嬉しいのである。

なぜかというと、過去の映画、特にナラティブフィルム(物語映画)に対する反運動として用いられていた「同じショットを何度か反復することで敢えて違和感を与える」ことが行われていたからだ。
特に小津安二郎はこの点において過激なことをやっている映画作家であり、『東京物語』(1953)などでも同じ構図のカットにしつつ関係性の変化を示すために違う人物に置換することをよくやっていた。
あれだけ小津に批判的であった押井守が本作にてそういう手法を用いているのはとても意識的であるに他ならず、このテンポとリズムに慣れてしまうと非常に心地よく感じられる
物語は基本的に一貫して函南優一視点で語られるが、その優一を中心とした人間関係や日常で描かれる行為が反復されることによって「時間の経過」が確認されることだろう。

実はこの手法は押井守がそれ以前の作品では敢えて使わなかった手法であり、『ビューティフルドリーマー』から『イノセンス』までは1つの世界観や物語の中の一部分を切り取って作った物語という印象がある。
だから、同じように反復の構図を用いているのだが、冒頭とラストまでを経て実は時間が経過したという印象はなく、アクションや事件などの劇的なものを描くことで変化を表現していた。
本作はその点において、飛行機での戦闘シーンも日常シーンも強弱をつけず一定のペースとトーンで「日常の形式」として表現することで逆説的に「時間の経過」を感じさせる流れとなっている。
だから表向き緩やかに流れているようでいて、実はとんでもない省略によってシーンが切断され2時間があっという間に過ぎるという仕組みになっているのだ。

本作を見る上ではこの古典的な「反映画」、正確には「物語映画に対する反抗」として使われていた「画面で語ること」の意義としての「映画」を押井守は意識的にやっているのである。
物語やドラマを追ってしまうと何とも退屈に感じられて2時間が終わってしまうのだが、「画面の運動」という点から本作を見ると非常に心地よいリズムで見られるのだ。
ただ、2000年代でこの手法はもはやスタンダードではなくなっており、『ハリーポッター』『ロード・オブ・ザ・リング』といった物語性の強いものが主であったと思う。
実際お隣の『崖の上のポニョ』も改めて宮崎駿なりの物語映画の復刻として作られた意味合いが強く、押井守はその点において受け手の誰も求めていないものをこの時代に出したのではなかろうか。

男と女と乗り物があれば映画は撮れる


本作に限らないが押井守の映画はあくまでゴダールイズム、すなわち「男と女と車があれば映画は撮れる」の形を変えた実践であり、本作は飛行機・車・バイクといった乗り物が非常に印象的である。
まあ飛行機と銃に関してはミリタリーマニアである監督の趣味が出ているが、水素と優一、また優一とフーコの組み合わせなど本作はとにかく男と女が車に乗ることの感動を再現していた。
だだっ広い平坦な道をただ車で駆け抜けていくシーンだけでも違和感なく成立させてしまう魅力が本作にはあり、CGと手書きの融合といった技術的なこと以上に画面の持つ流れが美しい。
飛行機の戦闘シーンもいわゆる外連味溢れるものでもリアリズムの追求でもないが、それでもきちんと作り手が実際に乗って体験したということがわかる作りになっている。

また、ラブホテル(?)で映っているピンク色の壺のカットも美しく、アニメーションでまさか『晩春』(1949)の壺を想起させるようなカットが入るとは思わなかった。
よく壺は女性器のメタファーといわれるが、本作に出てくる壺はもちろんそうした意味で出てくるものではなく単に殺風景な部屋にアクセントとして壺を置くことによってショットが引き締まって見える。
あの壺があるかないかで優一とフーコの濡れ場の印象が全く違ったものになるし、今ではもはやほぼ全滅してしまった遊郭の文化を違和感なくあそこに差し込んでくるセンスもまた素晴らしい。
そのあとに出てくる水素と優一に関しても同じように、脱ぐことだったり車の中で対面で生々しくお互いの体をまさぐったりすることによってお互いの情動を表現している。

一方で女好きの土岐野尚史とクスミの濡れ場はあくまでも表面上の仲良しこよしの描写にとどめており、本格的にお互いの関係性を描くといったことはやっていない
この辺りもまた映画ならではのエレガンスであり、映画というものはあくまで見せるべきものだけを最小限のカットで見せるものであり、それ以上を語る必要はないのだ。
そこは観客の想像力に任せればいいので、基本的には優一と深い関わりがある人物以外の描写を事細かく描くというようなことは徹底して避けられている。
つまり引き算思考によって全てのシーンが作られているわけであり、水素の妹も含めて無駄な登場人物をほとんど出していないのが本作の粋なところだ。

そして何といっても、本作は酒とタバコを何度も繰り返し用いることで優一と水素の関係性や仕草による内面の変化を描写しており、そこもまた特徴的である。
今やアニメーションや実写のドラマから酒とタバコは有害扱いされておりポリコレに引っかかるものとして規制の対象となるが、だからこそ酒とタバコが出てくるのはそれだけで驚きとなるだろう。
特に水素が優一に心を開きつつある演出として何度もタバコを用いているのが印象的であり、特に不時着して運ばれた時に優一にタバコを求めるシーンはその表れである。
押井監督は本作で初めて「未成熟な若者の恋」を真正面から描いているのだが、不思議なことにこの部分をきちんと評価する人はなぜか少ない。

それは見る側がそういう感性を鈍らせてしまっているのか、それともそういう昔懐かしい演出が過去にあったことを忘れてしまっているのかはわからないが、何と無く後者である気がする。

Ni avec toi, ni sans toi(一緒では苦しすぎるが、ひとりでは生きていけない)のアニメ的再現


そして本作で押井守が何を描こうとしたかも映画を見込んでいる人であれば一目瞭然であり、彼が本作で再現しようとしたのはトリュフォーの『隣の女』のテーマ的再現ではなかろうか。
Ni avec toi, ni sans toi(一緒では苦しすぎるが、ひとりでは生きていけない)をアニメ映画の中でどれだけ描けるかに挑んだのが本作であるといえる。
これが何よりも『イノセンス』までの彼の映画との最大の違いであり、押井守が『ビューティフルドリーマー』から一貫して直球の恋愛を描いたことはない。
まず『ビューティフルドリーマー』は「反復される夢」が主題であったからむしろ反高橋留美子作品として作られているので、恋愛は物語の中心ではないのだ。

以降の「パト1」「パト2」「攻殻」「イノセンス」で描かれていたのはそれなりに年齢を重ねている大人の静かな恋愛であり、決して若者のラブロマンスではない。
その点において本作において「成長しない子供」として描かれている優一と水素は今までにないくらい未成熟で内面に孤独や危うさを抱えた少年少女である。
飛行機に乗って戦争していながら、そんな日々が毎日繰り返されることに対する閉塞感とそれを何とか打破したいという思いが彼らを地獄の炎のような恋へと動かした。
最初はお互いに敬語を使って会話する上司と部下だったのが、"ENOUGH IS ENOUGH!"と水素が激昂するところから2人の関係性は対等な男女の色恋へ変質していく。

水素は女上司でありながら決して理不尽なタイプではないが、さりとて成熟した正義感と大人の思慮分別を持った人物として描かれているわけではない。
そこがフーコやメカニックの笹倉永久との大きな違いであり、妹の瑞季の幼さ丸出しの感じとも違う、まさにキルドレそのものとしてそこに表象されている。
優一の内面が露わになるのもそんな水素の感情の渦に引きずり込まれるようにする形によるもので、これは俗に言う「草食系男子と肉食系女子」「母性のディストピア」なるものでは断じてない。
単に一緒に過ごしていくうちに何となく気が合っていき一緒に飲み食いしたりキスしたりハグしたりするようになっていっただけのごく普通の男女なのだ。

だが、例えば同年にあった『花より男子ファイナル』の道明寺司と牧野つくしのような苦難を乗り越えた先に最高の祝福が待ち受けている綺麗な恋ではない。
むしろ近づけば近づくほど苦しくなり、しかしだからといってお互いがいなくても平気なくらいに損切りできるような割り切った大人の関係性でもないのである。
だから本作は現代的なポストモダンやゲーム化した戦争といった90年代に散々擦り倒された題材を再利用して語りつつ、実はそれ自体が単なるブラフでしかない。
押井守が本作で描きたかったものは実にシンプルな業火に焼かれても構わないとする少年少女から男女へ変質していく2人の恋模様の揺らぎそれ自体なのである。

だから何も目新しいものはないし、むしろ通俗的ですらあるものをどれだけ現代において再現できるかの挑戦であり、見事それには成功したのではなかろうか。

夜のシーンに見られる水素の美しさ


本作を何度も見るたびに今だに衝撃的なのはやはり草薙水素の夜のシーンの美しさであり、後半からラストに向けてどんどん色気を立ち込めてくる水素が何と言っても最大の見所である。
最初は本当に無感情で冷血な女性かと思ったが、周囲からは地雷女と噂されつつ、ラストに向けてどんどん彼女の本性が剥き出しになると、実はとても湿度が高い女性だとわかろう。
特に夜のレストランでお酒をたらふく飲んだ後ネクタイもボタンも外して優一に色仕掛けを行い、さらに髪まで崩すと「女」ではなく「雌」としての凶暴な一面が出るようになる
それは前半の"ENOUGH IS ENOUGH!"という理性的な激情とは違うもっと本能的なものであり、優一に抱かれることしかない危うさを秘めた野性味が出てくるのだ。

そしてクライマックスで描かれる本田が怒りを剥き出しにした後の一対一のシーン、「君は生きろ」と優一が掻き抱く中で水素は何故だか涙を流すのである
それまで感情が露わになることはあっても泣き崩れて男の胸の中で抱かれることが描かれなかった水素は初めてここで「ヒロイン」となった
ここは照明も構図も、そして表情も声優の演技も見事に重なった名シーンであり、個人的にはここまで女の涙が画面の運動として美しいと思えたシーンはなかなかない。
何故彼女は涙を流したのか、物語上の整合性や伏線があったわけでもなければ、優一の説得に心動かされたわけでもない、ましてや感動の涙でもないのである。

ここでの水素の涙はどちらかといえば「悲しみ」「苦しさ」といったネガティブな涙であり、結局優一とも結ばれないままここで関係性が終わってしまうことの悲しさに心が耐えきれないのだ。
逆にいえば、そういう思いを水素は何度も体験してきたわけであり、その度に彼女は部下や愛した男の喪失から逃げてきたことといったものまで含めてこの1カットに凝縮されている。
水素は初めてここで自分の感情に素直になることで自分が押し殺してきた感情と初めて向き合い、だからこそ優一がティーチャーに負けて戦死してももう涙は流さないのだ。
それはいわゆる「無常」「もののあはれ」ではないし、ポストモダン的な停滞と反復を繰り返す日常からの脱却といった思想的なことの表れでもないだろう。

水素は優一を殺すか自害するかというところまで心が疲弊しきっていたわけであり、死んで楽になろうとするのを優一に止められたのであり、その意味ではとても残酷だ。
だが、その喪失と真正面から向き合ったことによって彼女は1つ大人の経験を通過儀礼として受け、ED後のラストカットで入ってきた新しい部下に対し眼鏡を外して笑顔で「あなたを待っていたわ」という
ここで最初に述べた「反復とずれ」がもう一度表象されており、優一と出会った時には無感情で眼鏡を外さなかった水素が新しい部下に対しては「女」としての顔を出すほどに変化したのである。
とても紋切型で抽象性が高い演技といえるが、こういうシーンを見ることでまさに「映画」を見たという安心感とともに驚きもまた得ることができるのだ。

つまり押井守は最初から最後まで草薙水素という女をただ色気たっぷりに撮りたかっただけであり、そのために一連の設定や物語を用いたというだけなのではないか。

映画は頭で考えて見るものではなく心で感じて見るもの

まとめに入るが、本作は興行収入の結果が示すようにあまり世間一般の評価は高くはなく、批評家からも酷評気味に語られている作品のようだ。
上に挙げている宇野常寛はもちろん町山智浩もライムスター宇多丸もあまり本作について高い評価はしておらず、それまでの押井作品に比べて出来が悪いと失望気味である
しかしそれはあくまで物語の舞台として描かれているキルドレとゲームとしての戦争、それに伴う物語の表現の仕方といったところだけを見てあれこれ考えた場合の話だ。
つまり「頭で考えて」見る者にとっては本作は間違いなく駄作に映ってしまうのだが、「心で感じて」見る者にとっては本作は間違いなく「映画」と断言できる名作である。

むしろ露骨なまでにかつての映画の中にある「画面の運動」とエレガンスが表現されている作品もないのに、ここまで酷評されているのはどういうことなのか?
それは昔と今に比べて観客の映画に対する見方が変わったのかというとそういうわけでもあるまい、昔から物語中心で見る人は間違いなく小津を低く評価していた時代があったのだから。
そうではなく、今の映画が「画面で語る」こと、そして映画はあくまで動体視力を問題とし心で感じるものであるということをどこかに置き去りにしてしまったことから来るのかもしれない。
はっきりいって本作は特別に深みがある物語でも思想を語っているわけでもなく、単純に未成熟な男女の苦しい恋模様を描きたかったというごく単純なものであろう。

よく押井守作品を酷評する人たちは「肌に合わない」だの「画面がのっぺりしていて退屈」だのというが、私は以前からそんな意見に対して違和感を通り越した怒りにも似た反発心を持っていた
頭で考えて見たり、あるいは劇的な事件などを設定して盛り上げる作品にばかり慣れすぎていて、もっとシンプルな「画面で語るのが映画である」という根本を忘れてしまっているのではないか?
少なくとも押井守が作った作品はそのオマージュの元ネタも含めて何を描きたいのかが明確であり、今回に関してもトリュフォー的なるものの再現をアニメ映画でしたかっただけなのは一目瞭然である。
そこさえわかっていれば何も難しいことはないのだが、実存批評でやってしまいがちな人たちはポストモダニズムや戦争がどうしたこうしたといった瑣末な枝葉を論じることばかりに終始しがちだ。

そんな連中はむしろ押井守さんが仕掛けた罠にハマってしまっており、「そんなの意図して作ってるわけねーよバーカ」と画面の向こうでほくそ笑んでいるのではないか?
実際公開当時、当の監督自身は「何を感じるかは人それぞれの自由」と敢えて明確な答えを出していない、ということは要するに画面そのものを楽しめという意思表示だろう。
その意味で本作は確かに「パト2」「イノセンス」のような気合いの入った傑作・力作ではないが、軽やかながらも退屈せずに2時間をしっかり楽しめる作品であるのは事実だ。
決して目先ではなく10年20年と時間が経って見直しても古びないだけのものを間違いなく兼ね備えたスタンダードな「名作」である。

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