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東映特撮は決して「大人の鑑賞に耐える高尚な文芸作品」などではない!

映画を見ている人なら誰しもが一回は通るであろうヒットコックとトリュフォーの対談集であるが、その中で興味深いヒッチコックの体験談があった。
それはヒッチコックの娘が「お父さんの映画のことをすごく難しく言っていたよ」と大学の映画の授業について報告した時に、父親自身が「自分はただ楽しませるために作っているのだから、授業で言っている映画の理論などはみんなうそだ、聞く必要はない」と言っていたことだ。
これに関しては蓮實重彦も同様に「映画のショットは決して理論化できるものではない」ということを「ショットとは何か」で語っていたし、黒澤明も北野武監督との対談で「本当は映画の撮り方に絶対の正解はない」ということも語っていた。
それにもかかわらず、いわゆるA(名作)S(傑作)といわれる映像作品を見ると不思議なのは「理論化もできないし絶対の正解はない」はずなのに「決まってこれだ!という明確なショットを持っている」のである。

ここが面白いところであり、トリュフォーにしてもヒッチコックにしても、それこそアニメだろうが漫画だろうが特撮だろうが、あらゆる「絵」のジャンルにおいて優れた物とは大体そういうものなのだ。
スーパー戦隊シリーズも仮面ライダーシリーズも、そしてウルトラシリーズも元々は映画から派生した1ジャンルであって、本来は決して「高尚な文学作品」などでは決してないはずである。
だから宇野常寛ら平成仮面ライダー初期作品の擁護派が言っているような批評はそういう意味でいうと本筋からは外れたものであると言わざるを得ないのもそういうことだ。
ただし、「映画=動画」というジャンルを一言でこうだと批評するのが難しいのは「映画」は「美術」でありながら同時に「物語」でもあるという両方の側面を含んでいることである。

これに関しては愛知県立大学外国語学部教授・野沢公子も自身のサイトでこのように述べている。

映画とは非常にハイブリッドな芸術です。音楽(メロディー)はサイレントのときからセリフに匹敵する力を持っていました。優れた映画には必ず優れた音楽が使われています。演劇は映画におけるアクションとセリフにつながります。また、絵画や写真はフレームにかかわってきますし、文学は映画では物語性やプロットにつながります。ですから、1つの映画には様々な表現方法が実現されていることになります。映画の面白さ、新しさも、また、映画を論ずるのが難しいのもこのハイブリッド性にあるといえるでしょう。

そして世に言う映画評論家・批評家と呼ばれる人たちの中で認知度・大衆性を得ている人たちはどちらかといえば「絵画」「写真」、すなわち「ショット」としてではなく「物語性」「プロット」という部分で論じている人が多いのではないだろうか。
それこそ宮台真司や町山智浩らのような作品の外側や深層まで見たがる人たちもどちらかといえばこのスタンスに近いし、今スーパー戦隊シリーズをはじめとする子供向けの特撮について論じている人たちもどちらかといえば「物語性」「プロット」で論じる人がほとんどだ。
何故ならばそちらを論じる方が「ショット」「絵」について語るよりも高尚で高級であるかのように思われるし、そちらの方が箔が付くからではないかと思われる。
実際、現在読書中の「批評理論入門」の「文化批評」の項目で正にそれを明確に言語化されていた。

「文化」というと、しばしば古典的な文学や音楽、絵画などが連想され、高度な教養のイメージが伴う。しかし、一九六〇年代ころから力を増してきた「文化研究」(cultural studies)においては、こうした知識階級向けの「ハイ・カルチャー」(high culture)だけではなく、一般大衆向けの通俗的な「ロウ・カルチャー」(low culture)も広義の文化として捉えられ、両者の間の境界が取り払われる方向が目指されてきた。文化研究では優れた作品をキャノンとして権威づけることを否定し、文化的産物であれば、写真であれ広告であれすべて同等に扱い、差別しない。要するに文化研究の目的は、価値評価による作品の位置付けではなく、文化的背景における作品の関係づけなのだ。このような考え方を土台とした批評の方法が、「文化批評」である。

廣野由美子著『批評理論入門』中公新書「文化批評」191-192p.

やや難しめに論じられているが、要するに「ハイカルチャー」と「ローカルチャー」という風に区別されていた娯楽作品を「高尚」か「低俗」かで分けることをせずに同等に扱おうというのが本来の「文化批評」の目的だった。
しかし、その目的を見失ったほとんどの知識階級の人たちはそこがわからないから、結局のところ真っ当な文化批評をやっていているようでいて、実のところは無意識に「ハイカルチャー」「ローカルチャー」の区別をしてしまっている
私が散々に批判した『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』の批評座談会なるものをしていた宇野・切通らのスタンスも詰まる所は「仮面ライダー=ハイカルチャー」「スーパー戦隊=ローカルチャー」という雑な区分をしてしまっているわけだ。
そしてそれは先日述べた記事でもおそらくスーパー戦隊ファンと名乗る人たちもほとんどがそういう雑な認識をしてしまっているのであろう。

“正義感の強い5人の若者が、悪の組織が送り出す「今週の怪人」を倒して、締めに巨大ロボで戦う1話完結の物語”

スーパー戦隊シリーズについてきちんと全ての作品を見ていない者の認識は確かにその通りだが、そもそも原点である『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』の時点では巨大ロボで戦う」というフォーマット自体が存在していなかった
また、「正義感の強い5人の若者」に関しても来週から配信が始まるであろう『電子戦隊デンジマン』の2話の時点で「戦士としての使命を拒否するヒロイン」としてデンジピンク・桃井あきらのドラマが描かれている。
そんな風にスーパー戦隊は45以上ある作品の中で小刻みに複雑な変化を繰り返しながらここまで来たわけであって、それを安易な「子供向けのローカルチャー」として片付けていいわけがないだろう。
ただし、だからといって私は例えば『超獣戦隊ライブマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『未来戦隊タイムレンジャー』のような人間の内面描写を緻密に描いた作品を「大人の鑑賞に耐える高尚な文芸作品」みたく評価しろと言っているわけでもない

それをやってしまうと、途端に宇野たち平成仮面ライダー擁護派と何ら変わらなくなってしまうし、そういう「ハイカルチャーこそ至高」という下らない差別意識が行き着く先は富野由悠季・関弘美・白倉伸一郎辺りのような幼稚なスノビズムであろう

以前にも書いたことだが、『機動戦士ガンダム』にしろ『仮面ライダークウガ』〜『仮面ライダー555』にしろ、『鳥人戦隊ジェットマン』にしろ『デジモンアドベンチャー』にしろやっていることは所詮「従来のシリーズに対する反形式の形式化」である。
もっとわかりやすく言えば「パターン破りのパターン化」であり、根底にあるのは大元となる作品群に対するカウンター、アンチテーゼであって、それが即ち「大人の鑑賞に耐える高尚な文芸作品」だと見做すのはあからさまに違う。
そして共通しているのは映画における「ヌーヴェルヴァーグ」や洋楽における「ロック」がそうであるように、反形式として作られたものも所詮は定められた「形式=枠」からは本当の意味で自由にはなれないということだ。
それぞれ「ガンダム」が「マジンガーZ」の、「クウガ」が初代「仮面ライダー」の、「ジェットマン」が初代「ゴレンジャー」の、そして「デジモン」が「ポケモン」の作り上げた「形式=枠」に対する反動形成で生まれたものである。

確かにそれらの路線は「物語性」「プロット」「キャラクター」の枠を広げることには成功しただろうが、そのことと「大人の鑑賞に耐える高尚な文芸作品」であるかどうかは全くの別物である。
むしろ私から見れば「ガンダム」」「ジェットマン」「クウガ」「デジモン」のいずれも高尚でも上品でもない、それどころか作品そのものは物凄く尖っていて下品ですらあるのだ。
それに、これらの作品はよく「人間ドラマが深い」だのと言われるが、それは大元の「形式」を作った原典となる作品では「一般人=モブキャラ」として出ていたような性格の奴が「ヒーロー」になってしまっただけの話だろう。
要するにモブキャラを通して描かれていた人間の心の揺れ動きというものが善悪や良心の呵責で苛まれる主人公たちに置き換わっただけであって、別にドラマそのものが深くなったわけではないのではないか?

そもそも「ハイカルチャー」と呼ばれるような作品群にしたって、元々は「ロウカルチャー」と見做されていたものが知識階級の人たちによって歴史と共に評価されるようになったから「ハイカルチャー」になっただけだと思うのだが。
「大人の鑑賞に耐える」なんて言葉を好んで使いたがる人間は「自分の好きな作品を骨董品化=ハイカルチャーとして権威づけしたがるスノッブ」であると見てほぼ間違いないであろう。
これを私は「骨董品化」と呼んでいるわけだが、あくまでも私の中で全ての映像作品は所詮「娯楽」「フィクション」「たかが映画」くらいの認識で、しかし見て評価するからには本気で見るというスタンスは今後も変わらない。

こういうスノッブがのさばっている限り、スーパー戦隊シリーズをはじめとする東映特撮が本当の意味で「批評」されるようになる日はまだまだ遠いだろう。

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