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何故『仮面ライダー』(1971)は「原点回帰」が何度も発生するのか?

こちらの本の告知も兼ねて、脚本家の會川昇先生が「なぜライダーだけが『原点回帰』というリセットを繰り返しがちなのか?」という話題が上がったらしい。
それに対して親友が引用リツイートで反応していたわけだが、今回はスーパー戦隊シリーズやウルトラシリーズについて絡めながらの話になるだろう。

結論からいえば、「原点回帰」という名のリセット、悪く言えば擦り倒しが発生してしまう理由は端的に言って2つあるだろう。
1つは原点たる『仮面ライダー』(1971)の不本意な路線変更、そして2つ目が作り手が紋切型の大量生産という袋小路に陥ったせいだ。
このうち前者は周知の事実であるが、後者に関しては昭和世代の方々はともかく今の若い人たちはおそらく認識していないであろう。
私が見るに『仮面ライダー』(1971)は東映という映画会社の負の側面が露骨に出た作品であり、今回はこの2つに絞って話をする。

『仮面ライダー』(1971)の不本意な路線変更


路線変更した結果の産物である旧二号

原点回帰が発生してしまう最大の理由は『仮面ライダー』(1971)の望まぬ路線変更のせいであった。
石ノ森章太郎先生が描いた漫画版を読めばわかると思うが、初期の旧1号編はほぼ原作漫画のストーリーと合致している。
本郷猛という青年科学者志望が緑川博士の手引きでショッカーに拉致され、改造人間の苦悩と悲哀を抱えながら戦う。
「大自然が遣わした正義の使者」なんて如何にも石ノ森先生らしいクサイ台詞回しにその思想性が反映されている。

一方でテレビ版は市川森一先生が初期の企画に携わっていたこともあり、「正義」ではなく「人間の自由のため」という言い回しにしていた。
同時期の「帰ってきたウルトラマン」や唯一メインを担当した「ウルトラマンA」を見ればわかるが、市川先生はこの段階で既に石ノ森先生の何歩先もの発想をしている。
つまり石ノ森先生と同じくらい抽象度の高い形而上学的な思想性を持って「仮面ライダー」という作品に携わっていたのは市川先生くらいであろう。
少なくとも平山亨や伊上勝はそのような抽象度の高い思想を持って作っていたわけではないことは後に息子の井上敏樹が伊上勝の評伝などで述懐している。

実際、石ノ森先生が描く漫画版のアングラな世界観をテレビ版が忠実に再現できていたわけではないし、またそのような作劇が可能なスタッフではなかった。
そのせいもあってか、初期の旧一号編は子供受けがあまり良くなくピンと来ない子供が多くいて、何とか出来はしないかと苦戦する。
そんな折に奇しくも起こってしまったのがまさかの藤岡弘のバイク事故という前代未聞の不祥事であり、これにより番組はあわや打ち切りまで行きかけた。
10〜13話までは納谷六朗氏の吹き替え以外ほぼ過去の映像の流用と変身後のスーツアクターで乗り切るという異常事態が発生する。

そこで作り手としては急遽代理を立てることになり、それが藤岡弘の同期・佐々木剛演じる旧二号の登場とそれに伴う大幅な路線変更であった。
一文字隼人自体は石ノ森先生の漫画でも出てきているが、劇中での扱いや物語の内容はここから漫画版とテレビ版で完全に異なるものとなる。
アングラ路線を突き詰めていった漫画版に対して、実写版は真逆の東映時代劇調の勧善懲悪路線へと舵を切り、これが瞬く間に大ヒットを起こす。
そして藤岡弘が復帰してからはダブルライダー路線も加わり、全98話という「マジンガーZ」を上回る話数を記録したのだが、これはあくまで結果論である。

特撮番組に限らないが、路線変更した結果大当たりした例なんてほとんどなく、『仮面ライダー』(1971)のバズり方は異例中の異例だ。
実際スーパー戦隊シリーズでも『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)を筆頭に路線変更した作品は何本かあるが、ほとんどが失敗に終わっている
特に「ジャッカー」「オーレンジャー」は作品を根幹から台無しにしてしまっていたし、今配信中の「カクレンジャー」もやはり無理のある路線変更だ。
だが、人間という生き物はそういう極稀に起こり得る奇跡に夢を見たがるものであり、ここから「仮面ライダー」は長きに渡り呪縛に苦しめられることとなる。

紋切型の大量生産(縮小再生産)という落とし穴

そこからの昭和ライダーの歴史は決して喜ばしいものではなく、東映という会社の悪しき風習である「紋切型の大量生産(縮小再生産)」という落とし穴へ陥ってしまう。
紛れ当たりによって大ヒットしてしまった『仮面ライダー』(1971)の大ヒットによって、平山亨と伊上勝をはじめ作り手は「生存バイアス」に取り憑かれる
要するに初代の成功体験に縋りn番煎じを大量生産する方向へ舵を切ってしまった、元々石ノ森先生はそんな意図で「仮面ライダー」を作ったわけではないのに。
だが、東映はこの時点で既に時代劇の時と全く同じ失敗を繰り返すことになることなど識者であれば誰しもがわかっていたことである。

現在配信中の『仮面ライダーV3』(1973)まで何とか人気と数字は持ったものの、次作『仮面ライダーX』(1974)で既にシリーズ物としての限界は見えていた。
だから作り手は4作目の『仮面ライダーアマゾン』(1974)にして大々的に「原点回帰」と銘打って、またもやアングラ路線をやり始める。
しかし、作り手はこの時点で既に初代に呪縛されていることに気づいておらず、結局初代の時と同じでゲドンを倒した後またもや路線変更を繰り返す。
そして5作目の『仮面ライダーストロンガー』(1975)では派手な外連味ある名乗りに5人ライダー、歴代初の女性の改造人間という要素を盛り込む。

だが、「ストロンガー」が新機軸という形で打ち出した要素は全てお隣の『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)がより洗練された形で開花させた
子供人気もそちらにすっかり奪われてしまい、もはや「仮面ライダー」は作品としても商品としても旨味がなくなってしまい、一度シリーズを打ち切ったのである。
その後も「仮面ライダー(新)」「仮面ライダーBLACK」と手を替え品を替え原点回帰の作品が作られるが、いずれも原点たる初代程のヒットは叩き出せていない
それにも関わらずなぜ原点回帰という形での縮小再生産・擦り倒しを何度も行うかというと、作り手の中に忸怩たる思いがあるからではなかろうか。

『仮面ライダー1号』(2016)を作った時のニコ生放送で白倉伸一郎が述懐しているが、結局『仮面ライダー』(1971)は当初の構想から大幅に違ったものになってしまった。
もし、石ノ森先生が描いた漫画版に沿った物語に藤岡弘と佐々木剛を使って出来ていたらその後のライダーの歴史はきっと大きく変わっていたであろう。
だがそれは絵に描いた餅で終わってしまった、かといってずっと過去にこだわり続けているとそれが己を蝕む劇薬ともなってしまうのである。
だからこそ『仮面ライダークウガ』(2000)で髙寺成紀は昭和ライダーと完全に決別するライダー風のポストモダン宣言を行い、白倉伸一郎がそれに続いた。

路線変更とそれに気を良くした作り手の生存バイアスにより望まぬシリーズ化とそれに伴う「原点回帰」という名の呪縛に囚われてしまったのが『仮面ライダー』(1971)である。
そしてその1人には『シン・仮面ライダー』を作り上げた庵野秀明も含まれる訳だが、初代の怪我の功名みたいな偶然のヒットを素直に喜んでいいのか甚だ疑問だ。
同じくらい思想性が強かった『ウルトラマン』(1966)が僥倖だったのは、1クールの短縮を食らっても尚当初の構想通りのテーマをきちんとやり遂げたことである。
だからシリーズ化しても初代の呪縛に囚われることはなかったのだが、ライダーシリーズは未だに初代の成功法則に取り憑かれているのを見ると憐憫の情が湧き出てこないでもない。

スーパー戦隊シリーズの幸運は初代の成功体験に囚われなかったこと

こう見るとスーパー戦隊シリーズにとって幸運だったのは『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)の成功体験にその後のシリーズが囚われなかったことである。
なぜ囚われずに今も作り続けられるかというと石ノ森先生の手を離れたからであり、「ウルトラマン」「仮面ライダー」のような思想性が然程強くないからだ。
石ノ森先生は「仮面ライダー」と違って「ゴレンジャー」に関しては途中で「ごっこ」というパロディ漫画に路線変更しているが、それが逆に良かった。
上原正三も曽田博久も吉川進も決して意固地にならずに現場のノリで制作を楽しんでいたからこそ、あれだけ自由闊達な作風となったのではなかろうか。

「ゴレンジャー」も途中でギャグ路線に変更しているが、「仮面ライダー」のような紛れ当たりではなく、自然にギャグ路線に寄っていったのである。
現在ニコニコ動画で配信中なので改めて見ているが、既に前半の段階でギャグ要素がふんだんに盛り込まれており、そこまで堅苦しいわけではない。
そしてその次の『ジャッカー電撃隊』(1977)で作り手は初代の成功体験に囚われてギャグ路線に変更したが、大失敗に終わってしまった。
そう、「ジャッカー」という歴史に残る大失敗により、スーパー戦隊シリーズは生存バイアスに囚われることを回避したのである。

スーパー戦隊シリーズにおいても実はちょくちょく「原点回帰」自体は繰り返しているが、少なくとも公式が表立ってそれを宣言したことはない。
私にとっても、教条主義的な思想性に基づく成功体験に囚われてしまったライダーシリーズではなく、自由闊達なスーパー戦隊シリーズの方が好きである。
もっともスーパー戦隊も今や完全にシリーズとしての限界値は到達していて、今や風前の灯火みたいになってきてはいるのだが。
だが、私はもう『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)まででスーパー戦隊シリーズに関しては見るべきものを見られた気はする。

詰まる所、「仮面ライダー」の「原点回帰」の本質は「故・石ノ森章太郎先生(の思想)の呪縛」ではなかろうか。

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