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なぜスーパー戦隊シリーズが大好きなのか?自己紹介がわりの私にとっての「スーパー戦隊」とは?

さて、今回はいつも私の偉そうで生意気な厨二病野郎と言われたる私がなぜスーパー戦隊シリーズ大好きなのか、改めて自分のルーツとスタンスをはっきりさせておこう。
もはや私にとってスーパー戦隊を「見る」こと、またそれについて「書く」ことはもはや私にとって不可避のライフワークといっても過言ではない。
小説・音楽・絵画・演劇・映画・アニメ・漫画といった様々な大衆娯楽の中でなぜ特撮の、それも日曜朝の時間帯にある「スーパー戦隊シリーズ」なのか?
私にとってのスーパー戦隊シリーズとはどんな物で、それについて見て書き批評することの意義を改めて整理してみる。

1人1人の色気=存在感と5人揃った時の立体感

先日書いた『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)の記事でも書いたが、スーパー戦隊シリーズの最大の魅力とは"1人1人の色気=存在感"と"5人揃った時の立体感"にあると思っている。
「ゴレンジャー」以前にも歌舞伎の「白波5人男」や「七人の侍」をはじめとするチームヒーローは存在していたし、何なら実写版の「ウルトラマン」「仮面ライダー」も厳密に言えばチームヒーローだ。
だが、それら先達の作品群と「ゴレンジャー」が決定的に違っていたのは1人1人が色気=存在感を持ち、各メンバーの主役回を作れることで作劇に幅が出たのである。
「ウルトラマン」「仮面ライダー」はどうしても話の中心が主役となるウルトラマン、仮面ライダーになってしまうが、スーパー戦隊の場合リーダーであるレッド以外でも主役になれるのだ。

そして何と言っても5人揃って名乗りをあげる時の外連味とチームワークで決めるフィニッシュの必殺技・武器の「一体感」は他のシリーズにはないスーパー戦隊ならではの魅力である。
まず、スーパー戦隊シリーズを語る上で絶対に外せないのはここであり、この根幹が私を、そして多くのファンを引きつけ魅了して止まないものであり、また現実には存在しにくいものだ。
私自身が基本的に集団・組織が好きではないのだが、このフィクションとして成立しうるスーパー戦隊シリーズのチームとしての魅力は「憧れ」であり続ける。
実際現実にも様々なチームがあると思うのだが、それこそスーパー戦隊シリーズに匹敵しうる現実のチームヒーローは私が知る限りSMAPと嵐だけであろう。

国民的アイドルと呼ばれる彼らの魅力はまさしくスーパー戦隊シリーズの魅力である1人1人の色気=存在感と5人揃った時の立体感を演じた存在である。
国民1人1人に名前とキャラクターが知られ個々で活躍できるポテンシャルがあり、更にそのポテンシャルが5人揃うと更に膨れ上がりとんでもない爆発力を生み出す。
YouTuberでもフィッシャーズ・東海オンエア・アバンティーズなど様々なチームヒーローはいるが、それでもやはりスーパー戦隊程の魅力あるチームかと言われると厳しい。
それだけスーパー戦隊シリーズのフォーマットのあり方は現実にありそうでほとんど存在しない架空のものであり、それを47作も切らさずに作り続けてきたのである

この「当たり前に思われるが実は相当に難度が高いこと」をずっとやり続けてきたというだけでも、スーパー戦隊シリーズは偉大なる魅力を兼ね備えたシリーズだ。

物心ついた時から私の日常にあり、私を誘ってくれた存在


これが最も大きいのだが、スーパー戦隊シリーズは私にとって物心ついた時から私の日常にあり、私をテレビへと誘ってくれた存在なのである。
私は1985年生まれのプレッシャー世代、すなわち「最後の昭和世代」であり、この世代はテレビシリーズとしての「ウルトラマン」「仮面ライダー」を原体験として持っていない人が多い。
ましてや私は自分のHNにも使っている日向(ひゅうが)=宮崎で生まれ育ち民放が二局しかなかったため、尚更スーパー戦隊シリーズしか子供の頃にテレビで見れるものはあまりなかったのである。
幼少期に「仮面ライダーBLACK」「仮面ライダーBLACK RX」はあったし、小学校高学年に入ると平成ウルトラ三部作(「ティガ」「ダイナ」「ガイア」)も毎週土曜夕方には放送されてはいた。

しかし、それらの作品はどうも私にとって向こうから見ることを誘ってくれている感じがせずにスルーしていたし、平成ライダー初期作品群(「クウガ」「アギト」「龍騎」「555」)の頃には一度東映特撮から遠ざかっている。
そういう少年時代を過ごしてきたこともあり、私のなかではっきりと日常の中に存在していて自分の血肉となり、見ることを許し誘ってくれたのはスーパー戦隊シリーズしかなかったのだ。
これは私だけの感覚なのかもしれないが、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」は知人・友人がそれを好きで、その人たちの紹介がなかったら見向きもしなかったであろう。
特に初代「ウルトラマン」は専門家である黒羽翔さんがその魅力を解説してくれなかったら、きっと一生見ることもないまま終わったであろうから、なんともありがたい話である。

そしてまた、スーパー戦隊シリーズは一度離れたとしてもふとしたきっかけで戻ってきた時でも実家に戻った「安心感」のようなものがあり、大らかで温かい。
後述することも関係しているのだが、子供向けの作品として一番気軽に頭を使わずに見られるというある種のシンプルさ・イージーさのようなものが確かにある。
だから批判をしようと褒めようと自由だし、帰ってきても戻ってきてもいいというストレスがかからないアットホームな雰囲気もまたスーパー戦隊の魅力だ。
いい意味での家族のような安心感と包容力もまた結果論ではあるが私は好きである。

教条主義に陥らない自由闊達な幅の広さと懐の深さ

以前の記事でも度々述べていることだが、スーパー戦隊シリーズの魅力は子供向け番組として教条主義に陥らない自由闊達な幅の広さと懐の深さがある。
これは初代「ゴレンジャー」がそうだったこともあるが、よく知らない部外者からは「様式美」なんて言葉で雑にまとめられがちな戦隊シリーズには「説教臭さ」「押し付けがましさ」がない。
宮内洋は「ヒーロー番組とは教育番組である」なんてことを言っていたが、実はこの言葉が私は大嫌いであり、ヒーロー番組は「娯楽」「活劇」であって「思想」「哲学」「教育」ではないのである。
だがこのような発言をしてしまう理由も分からなくもない、何故ならば「ウルトラマン」「仮面ライダー」はスーパー戦隊と比べてどこか思想性や教条主義の側面が強いからだ。

もっともこれに関しては多少なりやむなき側面はあり、円谷英二にしろ金城哲夫にしろ初期の円谷は思想性が強い作り手であったし、「仮面ライダー」は原作者の石ノ森先生が強い思想の持ち主であった。
どちらの作品もやはり根っこのところで作り手の思想性や正義感として意識されているところがあり、実際にフィルムとして出来上がった時に画面の運動を物語や脚本が抑制してしまう瞬間が多々ある。
特に髙寺成紀が作り上げた「クウガ」やその「クウガ」の意思を受け継いだ白倉伸一郎が作る「アギト」「龍騎」「555」辺りは一見自由なようでいて、実に物語が過剰なまでに画面の運動を束縛していた。
反昭和ライダーを名乗る彼らであるが、むしろ根っこのところで石ノ森先生が描いていた思想性なるものを正義と認識し、それに束縛されてしまうこともありうる。

ところが、スーパー戦隊シリーズに関していうならば、初代「ゴレンジャー」の時から純粋な娯楽として作られていたため、必ずしも初代からの教えや伝統を守らないといけないわけではない
もちろん中には作り手の生の思想性が画面を抑制している作品も無きにしも非ずだが、基本的に受け手がどう見てどう解釈・批評しようが構わないという懐の深さがある。
だからこそ1作たりとて切らさずに作り続けることが可能なのだと思うし、純粋に作品そのものを楽しむことを作り手が受け手に許してくれているのだ。
ヒーロー番組は決して思想でも哲学でも教育でもなく、娯楽であり活劇であるというスタンスが何だかんだ貫かれているのもまた私が好きなポイントである。

世間的な認知度が低いことが自由な解釈・批評を可能にする

こちらでも述べたことだが、スーパー戦隊シリーズは確かに「ウルトラマン」「仮面ライダー」に比べると、世間的な認知度が低いというのは事実だ。
だが、それは決して悪いことではなく、まだ十分な批評の文脈が形成されていないのを逆手に取れば、受け手次第でいくらでも自由な解釈・批評が可能ということである。
余計な思想性もないから教条主義に陥ることがないことと併せて、それが私にとって批評しがいがあるという意味で何よりの活力になっているのだ。
これがウルトラシリーズやライダーシリーズだと、どうしても作品自体の思想やメッセージが正義感として意識されうるため、批評する時の障壁がある。

それに、こと平成ライダーに関しては既に宇野・切通をはじめとする批評家連中がいるのみならず、作り手までもが「こう見ろ」と作品を通して言ってくるのだ。
だから私が特に批評なんかしなくても十分にその魅力が語られ尽くしているであろうし、そんな風に一義的な見方しか出来ない骨董品の如き作品に魅力など感じていない
彼らは要するに「ここのこういうところが良いよね」とお互いに評価されればそれでよく、言葉を選ばずにいえば身内での傷の舐め合いに終始してしまっている。
私はそうではなく「それは骨董品ではなく湯飲みなんだから、それでお茶なりお湯なり入れて飲め」という人間なので、彼らの思想や語りには興味がない。

「今までこんなことは言われていないが、この作品の魅力はここにある」ということがいえれば、実は既に完結した作品でも今現在の作品として存在させることができる。
真に良質な批評は受け手を誘ってくれるだけではなく、作品の見方そのものを変容させてくれるわけであり、より良い方向に導く批評を誰もが書けるであろう。
それもまた私自身がスーパー戦隊シリーズについて書き続ける原動力になっているし、そのためにも見続けることの活力になっているかもしれない。
まあ流石に1話1話感想を書こうとまでは思わないが、それでもまだ十分に批評のパイは広がり切っていないから今がチャンスではある。

まだまだ語られ尽くしていないスーパー戦隊シリーズの魅力


まとめに入るが、スーパー戦隊シリーズの魅力は語られ尽くしておらず、今後もシリーズ自体が続く中で色んな魅力を語るファンが増えるであろう。
しかし、シリーズ作品がこれだけ多いにもかかわらず、シリーズ全体の通史としても具体的な脚本・演出等の横軸に関してもまだ批評が十分に追いついていない
そのことへの焦りが半分、そして私を未だに画面に誘い続けてくれる心地よさが半分あり、それが私がスーパー戦隊シリーズを追求し続ける理由である。
もちろん他の娯楽も好きなのだが、今までもこれからも私にとっての思考の大半はスーパー戦隊シリーズについて書くことに費やされるであろう。

最後に、私のような生意気な者に対してさえ懐深く自由に語ることを許してくれるスーパー戦隊シリーズに感謝と敬意を申し上げて、自己紹介がわりとさせていただく。

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