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スーパー戦隊シリーズが長続きしている理由は『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)を骨董品にしなかったからではないか?という話

ここ最近、改めて小林靖子を中心にスーパー戦隊シリーズの角度を変えた批評を行っているのだが、今回は少し脇道に逸れた話をしよう。
ふと思うのだが、スーパー戦隊シリーズが長続きしている最大の理由は『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)を骨董品扱いしなかったからではないか?
何せスーパー戦隊自体『超力戦隊オーレンジャー』(1995)の辺りまで20年にも渡ってシリーズ第1作が「ゴレンジャー」ではなく「バトルフィーバー」だった程だ。
実際私の皮膚感覚としても、「ゴレンジャー」が第1作扱いされているのは何か違うという違和感があるが、かといって「バトルフィーバー」が第1作というのも何か違う。

私に限らず、スーパー戦隊シリーズのファンは「シリーズの第1作が何か?」に関する解釈違いがいまだにハッキリしないところがある、どんなに公式側が「ゴレンジャー」を1作目と定義していても。

例えば、「女には向かない職業(仮)」の管理人・えの氏は70・80年代戦隊の原体験世代として、真正面から「シリーズ1作目は何か?」ということに真正面から取り組んでいる。
しかし一方で「スーパー戦隊の秘密基地」の管理人・鷹羽飛鳥氏はえの氏と近いと思しき世代にありながらあくまでも「バトルフィーバー」をシリーズ1作目と解釈していた。
では私はどうなのか?というと、いうまでもなく「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975)がシリーズの原点であり、「偉大なる大先輩」という呼称と共に敬意を寄せている。
しかしながら、一方で社会的な目から見た「ゴレンジャー」という作品が東映特撮史においてどれだけの画期性があったかに関してはほとんど語られていない

なぜなのかを考えたが、これは恐らく『ウルトラマン』(1966)と『仮面ライダー』(1972)が「原点にして頂点」という古典的名作扱いを未だに世間から受けているからだ。
一方で同じシリーズものの原点である「ゴレンジャー」に関しては「キレンジャーの錯誤」という言葉が出てきたり、未だに「5対1は卑怯」という下らない茶化しが横行している。
これに関しては以前の記事で石岡良治が語っていた「様式美の中で実は変化を繰り返してきたことが世間的にあまり認知されていない」ということも語っていた。
確かに客観的事実としてはその通りで、未だにスーパー戦隊シリーズに関しては良くも悪くも「見られていない」という世間の認識は変わっていないと思われる。

その残酷な事実を示すかのように、例えば2000年の特撮雑誌は専ら『仮面ライダークウガ』にばかり注目が行き、お隣の『未来戦隊タイムレンジャー』は然程注目が行かなかったそうだ。
文芸的な面白さや作品の完成度といった点では「タイムレンジャー」の方が高いにもかかわらず、世間はほとんど「クウガ」にばかり関心を寄せている。
しかし、私が「クウガ」のそうしたムーブメントをリアタイで経験していないため視聴したのはその熱が冷めてからになるが、私の評価は宇野氏や世間のそれとは全く違った。
宇野や切通は「クウガ」〜「555」までの作品群の「設定」「ドラマ性」「テーマ」といったところに終始しているが、私が見ていたのは「特撮」「アクション」である

私自身の「クウガ」の評価はぶっちゃけそこまで高くない、少なくともドラマパートに関しては退屈で見ていられない部分が多く、「タイムレンジャー」に比べるとお粗末だ。
しかし特撮作品で一番肝心な「アクション」としての「クウガ」は間違いなく歴代屈指のかっこよさであり、あれはスーツアクター・富永研司にしか出すことのできないクオリティのアクションだった。
「アギト」以降は長らく「Mr.平成ライダー」こと高岩成二がスーツアクターを担当することになるため、平成ライダーのアクションという文脈に当てはまらないのは実はクウガだけである。
かといって、初代の藤岡弘や中屋敷、またBLACKの岡元次郎のそれとも違う唯一無二の個性溢れるアクションをこそ私は「クウガ」という作品で随一高く評価しているのだ、決して好きではないけれど!(おい)

話を戻すが、要するに平成ライダーにしろ昭和ライダーにしろ、昭和ウルトラにしろ平成ウルトラにしろ、メディアや批評家は余りにも骨董品として扱いすぎなのではないか?
ウルトラシリーズやライダーシリーズにとって不幸なのは世間から骨董品扱いを受け続けた結果「初代こそが原点にして頂点」というバイアス・神話性の呪縛から解放されていないということだ。
しかもそれが受け手や批評家だけならともかく作り手までもがそうであり、白倉Pなんて未だに「仮面ライダー1号」なんか作ってしまうほど初代の呪縛から結局のところ逃れられていない
そしてそれは「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」を作り上げた庵野監督もそうであり、この人も結局初代を骨董品扱いしているのである。

90年代後半〜00年代初頭に流行った昭和ウルトラ派と平成ウルトラ派の論争、そして昭和ライダー派と平成ライダー派の論争もそれぞれのファンが作品を神格化し骨董品扱いしていたが故のことかもしれない。
言うなれば過去に作られた陶芸品と現在に作られた陶芸品のどちらが素晴らしいかなんて本来はナンセンスであり、どっちも陶器なのだからそれでお茶・酒を飲むなりご飯を食べるなりすればいいのだ。
翻ってスーパー戦隊シリーズは確かに世間的な認知度や知名度は低くあまり取り沙汰されない分、ライダーシリーズやウルトラシリーズと異なり骨董品扱いとそれ故の派閥扱いも生じることがない。
それは作り手自身がそもそもそういうブランディング化に興味がなく、1年経ったら使い捨てという感覚でやってきたことが良くも悪くも影響しているからではないだろうか?

例えば「ウルトラマン」「仮面ライダー」はしょっちゅう「原点回帰」とかいって初代に寄せた設定の作品が出るが、スーパー戦隊シリーズはそのような作品は1つもない。
まあ正確にはエッセンスの部分のみ「原点回帰」はちょくちょくしているのだが、それでも「秘密戦隊ゴレンジャー」にそのまま原点回帰するようなことはないのである。
それがシリーズにとって幸運か不幸かは別としても、「初代だから」というバイアスや色眼鏡で作品を評価してしまうような傾向は然程ないであろう。
そしてそれが昭和・平成・令和という3つの年号を1度も途切れることなくグラデーションのようにして時流と共に変わり続けてこられた理由であるともいえる。

むしろ私は神格化され続け神棚に上げられて評価が固定されてしまっている「ウルトラマン」「仮面ライダー」の評価のされ方こそ気の毒に思える。
「ウルトラマン」「仮面ライダー」の双方とも今見ても通ずる普遍性を備えた作品であることに違いはないが、それは決して古典的名作扱いされているからではない。
画面がもたらす運動が未だに私の感性を揺さぶり刺激し続けるからこそ、「今の作品」として生きられているのだと思う。
古谷敏があのヘンテコなスーツであれだけの動きを見せること、そして藤岡弘があの革のスーツで規格外の動きを見せることの刺激を言語化した人が果たしてどれだけいるだろうか?

そして「秘密戦隊ゴレンジャー」のゴレンジャーストームのアクションや名乗りの外連味もネタ扱いではなく、現在もなお見る側を刺激し続けるチームヒーローの動きである。
その観点から純粋に特撮作品を批評し既存の言説から作品を解放する動きが出てきてもいいのではないかという思いが最近沸々と湧き出てくる次第だ。

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