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スーパー戦隊シリーズの戦闘シーンで見た時の『五星戦隊ダイレンジャー』の革新性〜どれくらいの尺でどのくらい密度の濃いバトルを圧縮して見せられるか?〜

スーパー戦隊シリーズにおいてパイロットが如何に重要なものであるかは今更いうまでもないが、その中でいわゆる「変身後の戦闘シーン」について繰り返し見て研究・考察・批評を行ったファンは果たしてどれだけいるだろうか?
それというのも『電子戦隊デンジマン』の1話を見た時、カット割からカメラワークから技斗から「野暮ったい」と思ってしまったのである、こんなに「デンジマン」のバトルシーンはダサかったのかと。
これは決して動きやポーズがダサいとかそういうことを言っているのではなく、カットの多様や早回し、ジャンピングなどを積極的に活用した上であんなしょっぱい画面しか見せられないのかということである。
プラスして、わざわざ説明する必要のないデンジ星の科学力の性能についてナレーションで説明させるというのが物凄く鬱陶しく感じられてしまい、「デンジマン」のアクションは正直今見ると物凄く荒削りだ

スーパー戦隊シリーズの「基礎」を完成させた作品として紹介されることが多い「デンジマン」だが、こと変身後の戦闘シーンの見せ方についてはとてもじゃないが「基礎」「お手本」と言えるほどクオリティーは高くない
どちらかといえばドラマなどの作劇やスーツデザイン、名乗りの様式美といった諸要素において、という意味での「基礎」なのであって、戦闘シーンはスピード感も動きも今見ると凄く遅いし貧相に見えてしまう
ではスーパー戦隊シリーズの戦闘シーンはどこで変化したのかと言われると、それが『科学戦隊ダイナマン』と言われていて、実際に「ダイナマン」のパイロットのアクションシーンを褒める人は多い。
しかし、実際に見てみるとわかることだが、実は「ダイナマン」のパイロットの戦闘シーンは変身前も変身後も尺を割いて描いている割には、実はアクションの質そのものはそんなに高くもないしスピード感もそんなに速くないのである。

実はこの辺り「ダイナマン」は「騙し」のテクニックが非常に上手にできていて、例えば冒頭5分の変身前の5人が戦うところではカーチェイスでたまたま通りかかった者たちが出てきて、最後に真打として高いところから星川竜(春田純一)が登場するのだ。
更に5人のアクションをOPのコンテで描かれているように、弾→剣道、星川→忍術、島→サーフィン、南郷→狙撃、立花→フェンシングという風に色分けし、更にナパームを爆発させたり戦闘員の尻尾が出たりする演出を入れて多様に「見せている」
これは変身後のアクションにもそのように活かされているわけだが、「ダイナマン」は決して「ゴーグルV」までと比べてバトルスピードそのものが速くなったわけでなければ、アクションの質そのものの密度が濃くなったわけでもない。
しかし、東條監督の編集の技術と画面の中に詰め込む物量を増やすことで、あたかも5人の変身前・変身後のアクションが際立って凄くなったように見えるという「騙し」の技術で巧妙にそれっぽく取り繕っているだけだ。

「ダイナマン」のアクションシーンで革新的だったのは「サンバルカン」の後半で確立された戦隊レッド=剣術使いという実験的要素を1つの「文体」に押し上げたこと、そしてスーパーダイナマイトという「5人一体の体当たり技」を編み出したことである。
逆にいえばそれ以外でアクションシーンの演出手法は既存の戦隊とそんなに大きな差があるわけではないのだが、なぜだかバトルスピードが上がっているかのように「錯覚してしまう」というのが「ダイナマン」の見せ方の妙ではなかろうか。
とはいえこんな騙しのテクニックは何度も使えるものでもなければ文法として理論化出来るような代物ではないからか、これ1作限りの使い捨てであり、『超電子バイオマン』以後ではこのスタイルのアクションは基本的に用いられていない。
昭和戦隊最高傑作と評される『電撃戦隊チェンジマン』では変身前も変身後も基本的には銃・剣・盾が一体となった簡素なチェンジソードにトドメとして全員のズーカパーツを合体させたパワーバズーカによってトドメを刺す形が主流となる。

特にトドメの合体技として「バズーカ」というのは視覚的にもわかりやすい派手さがあって演出として使いやすいのか、『超新星フラッシュマン』以後の戦隊シリーズのアクションの文法・文体と言えるレベルのものとなった。
とはいえ、それでもやはり戦闘シーンそのもののスピード感と個性化・差別化の根本的な問題は解消されたわけではなく、長い間シリーズ全体の課題としていかにアクションに変化をつけて行くか?で苦しむこととなる。
その大きな変化としてあったのはやはり90年代、具体的には15作目の『鳥人戦隊ジェットマン』と17作目の『五星戦隊ダイレンジャー』であり、この2作を転換点として戦隊シリーズの戦闘シーンは大きく変わっていく。
これは90年代の戦隊シリーズを原体験として味わっている人だけの意見ではなく、シリーズ全体のパイロットをザッピングで見た時の相対的な比較としても言えることではなかろうか。

まず『鳥人戦隊ジェットマン』は「フラッシュマン」からずっと戦隊シリーズを陰ながら支えてきた脚本家・井上敏樹をメインライターに抜擢したことで作劇やキャラクターの個性化に大きな変化が生まれたのはいうまでもないだろう。
それが「戦うトレンディドラマ」と評される1人1人の独特な台詞回しや内面描写などであるわけだが、実はその劇作に合わせる形で戦闘シーンそのものが大きく変化したことを言語化できた人はそう多くはいない
「ジェットマン」ではおそらく歴代発と言ってもいいワイヤーを用いての空中戦が1つの新機軸として提示され、それまでは基本的に平面的であった戦隊シリーズのアクションがより立体的な空間性を帯びることとなる
しかもパイロットではレッドホーク・天堂竜以外が全員偶然に巻き込まれた素人であるという設定から『超電子バイオマン』の1話以上に「戦えない素人」が強調された演出として斬新なビジュアルショックとなった

つまり前作『地球戦隊ファイブマン』までがギリギリのところで踏みとどまった「素人であっても変身したら無敵のヒーロー」だったのを「ジェットマン」が意味内容(劇作)の観点から大きくメスを入れたのである。
「ジェットマン」は変身前の5人のキャラクターにおける「ヒーロー性」なるものを大きく低減させるという、当時としてはリスクの大きいことを行ったのだが、それに合わせて形骸化していた変身後の戦闘シーンも全く違うものとなった。
素人という設定を最初に決めて初変身補正を決して絶対的なものにせず相対化したことで、「意味内容に合わせて形式そのものを変化させる」ことをドラマだけではなくバトルシーンにも持たせたことで1つの刷新にしたのである。
しかも名乗りそのものを劇中で3回、それも5人の歩調がピタッと重なった時にしか行わないことによってスーパー戦隊シリーズの「お約束」がなぜそうであるのか?ということも含めて脱構築として行った。

とはいえ、じゃあ「ジェットマン」で試みられた脱構築によって提示されたものが果たして理論的に体系化できるものだったかというとそうではなく、弊害として変身後の5人が弱く見えてしまう上に没個性とも見えかねなかった
井上敏樹と雨宮慶太が実験的要素として行った方法論はその後髙寺成紀が継承し、「等身大の正義」として『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』の2作においてより大衆的で卑近な方法で模索している。
だから「カーレンジャー」「メガレンジャー」の2作は実は戦闘シーンも劇作も決して斬新さがあるというものではなく、『鳥人戦隊ジェットマン』が実験的要素として行った脱構築をさらに推し進めたに過ぎない。
実際、YouTube配信で後半に差し掛かっている「カーレンジャー」だが、意味内容(劇作)はともかくとして変身後のアクションはそこまで目立って個性的であるとは言い難いのは明白な客観的事実である。

それではアクションシーンの本格的な革新はどこで試みられたのかというと、それこそが正に『五星戦隊ダイレンジャー』であるが、それがなぜ革新的であったかを正確に把握している人は少ないであろう。
歴代戦隊の中で最もアクションシーンが素晴らしいと言われる「ダイレンジャー」だが、ほとんどの場合は「ジェットマン」の「戦うトレンディドラマ」と同じでほとんどが表層的なアクションと名乗りのキレ・見栄えだけが取り沙汰されがちだ
実際「怒り新党」「アメトーーク」「夜会」などのバラエティー番組でも何かと「ダイレンジャー」といえば「とにかくアクションのキレが凄まじい戦隊」ということが馬鹿の一つ覚えみたいにネタとして擦り倒されている。
あるいは伝説として尾ひれがついてしまった47話の生身名乗りだけを切り取って取り沙汰されているわけだが、「ダイレンジャー」が開拓したアクションの革新性はそんなところにはない

それでは「ダイレンジャー」の戦闘シーンの革新性がどこにあるのかというと、まずは「怪人と一対一で戦い倒す」という『ドラゴンボール』『ストリートファイター2』のような格闘・プロレスの文脈が取り入れられたことだ。
同時代でいうなら『機動武闘伝Gガンダム』然り格ゲーブーム全盛期だった影響がスーパー戦隊シリーズに及んだのは大前提として、「ダイレンジャー」の1話では例えばリュウレンジャー・天火星亮が単独で紐男爵を撃破している。
もちろん「ダイレンジャー」以前でも例えば「チェンジマン」のチェンジドラゴンVS副官ブーバ、「ジェットマン」のブラックコンドルVSグレイなどのように戦士が一対一で怪人や幹部を撃破することはあった。
その筆頭に挙がるのが『高速戦隊ターボレンジャー』のレッドターボなのだが、これらの戦隊はあくまでも全体のコンビネーションがある中での「例外=文法破り」として描かれていたものだ。

その「文法破り」であるはずの「怪人・幹部クラスの単独撃破」を「新しい文体・文法」として全面に押し出したことこそが「ダイレンジャー」のアクションが真に革新的だったことの1つである。
それまでは基本的に団結しチームワークで怪人を撃破することがセオリーというかルールだったスーパー戦隊シリーズのバトルシーンを大々的に打ち破ったことで戦闘シーンの「幅」を広げた
これがあることで次作『忍者戦隊カクレンジャー』以後の戦隊ではたった一人で怪人・幹部を撃破しても違和感がなく、『超力戦隊オーレンジャー』では遂にレッド単独で無双するパイロットまで誕生している
「ダイレンジャー」が先陣を切ってこれを成功させていなければスーパー戦隊シリーズのバトルシーンは先細って縮小再生産の袋小路に陥っていたことは間違いない。

そして2つ目、実はこれこそが最も大きいのだが、「ジュウレンジャー」までとの大きな差別化として「個々の戦士のアクション自体を書き分け・色分けする」ことである。
「ダイレンジャー」ではそれぞれ赤龍拳・獅子拳・天馬拳・麒麟拳・鳳凰拳という風に中華拳法を各戦士ごとに色分けする形で導入したことで、アクションの自由度が格段に上がった
それまでも例えば『太陽戦隊サンバルカン』前半で見受けられた陸海空をモチーフとしたアクションや「ダイナマン」の剣術と忍法など個々のアクションの差別化を図る試みはある。
しかし、それがシリーズそのものの文法・文体として定着しにくかったのは技術的な問題はもちろんのこと、個別武器を設けることで差別化としていたからである。

そこを大々的に「ダイレンジャー」で個々のアクション自体を1つの独立した文体として派生させることによって、変身後のキャラクターのユニークさとすることに成功した。
再現が絶対にできないとされた高度な名乗りの凄さもそういう文脈で理解されるべきものであり、単純に個性的かつ派手なアクションというだけだったらそこまで特徴的なものにはならない
見栄えが素晴らしいから名アクションになるのではなく、そのアクションの徹底した個性化と色分けを映像作品の中で芸術と呼べるレベルにまで昇華し定着させてこそ初めて名アクションになるのだ。
それは同時にスーパー戦隊シリーズの新しい形式をもたらしたことにもなるのだが、逆に言えば「ダイレンジャー」まで来てようやく本当の意味でのバトルスピードが高まり、質も高くなったと言えるだろう。

要するにカメラワークなどの早回しや編集の妙でスピーディーに見せるのではなく(それが竹本弘一・東條昭平らのやり方であった)、スーツアクターの素体の動き自体を極限まで早くし高度化させたのである。
だから「ダイレンジャー」で極限にまで研磨されたスピーディーかつハイクオリティな戦闘シーンを見ると、それ以前の戦隊のアクションが遅く感じられてしまうし、野暮ったく見えてしまう
この極北が『星獣戦隊ギンガマン』で提示されている星獣剣・アース・アニマルアクションをハイブリッドに組み合わせた独自性が高く再現性が限りなく低い変身後のアクションであることはいうまでもない。
『救急戦隊ゴーゴーファイブ』『未来戦隊タイムレンジャー』になるとアクションの質それ自体よりもドラマ性や「戦い以外のアクション」という形で何とか「ギンガマン」との差別化を図った。

現在、スーパー戦隊シリーズの戦闘シーンを『秘密戦隊ゴレンジャー』からパイロットのみ抽出して図っているが、スーパー戦隊シリーズの戦闘シーンにも実は奥深い歴史の変遷がある。
それは即ち「どれくらいの尺でどのくらい密度の濃いバトルを圧縮して劇的に見せられるか?」という「時間」と「見せ方」の戦いの歴史であり、ここに対する意識がきちんと向かない人に戦隊を語る資格はない。
じゃあ今はどうかというと、それらをほぼ全てCGとモーションキャプチャーで賄えてしまうので、役者とスーツアクターがそこまでの労力を必要としなくなっているわけであるが、それはまた別の話。

とにかく、スーパー戦隊シリーズの劇作と共に戦闘シーンがどう変化してきたのか?についてまだまだ十分な研究や批評がなされているとは言い難い。

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