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『みんな〜やってるか!』(1994)感想〜着想もカット割も落語の独特さがあって面白いが、「オチ」が弱い〜

ビートたけしの『みんな〜やってるか!』(1994)を視聴したので感想・批評をば。

評価:C(佳作)100点中65点


概論

本作はいわゆる「北野武」としてではなく、「ビートたけし」として初めて撮ったという意味で、後にも先にも例がないB級映画のたけし流パロディとしてのニュアンスが強い作品ではなかろうか。
「ソナチネ」までの作品が「語らない」「歩く」「暴力」といった既存の映画でも散々使われてきた題材を如何に独創的に崩して北野イズムに染め上げるか?という挑戦の要素が強かった。
対して本作は逆に「語る」「走る」「エロ」「特撮」という、それまでの北野映画では意図的にか無意識にか用いられてこなかった要素が豊かな細部としてラストまで埋め尽くしている。
では「映画」ではないのかというとそうではなく、むしろ古典に遡るとかつて初期のサイレント映画などにこの映画の系譜を求めることが出来ると淀川長治は本作について解説していた。

昔々、サイレント時代に、サイレントの頃に、連続活劇それと一緒にニコニコ大会があったんですね。ニコニコ大会、それはね短編のお笑いのずーっと並ぶような映画があったんですね。それがこの映画には出てくるんですね、この映画の中で。おかしい場面おかしいものおかしいことがずーっと順番に流れてくるんですね。

そう、実はキートン・チャップリン・ロイドの三大喜劇王が活躍していた時代のサイレントにこのような種類の短編映画のオムニバスがあって、それをたけしなりのアイディアで90年代風に再構築したものではないかという。
また、これは北野映画のシンポジウムで蓮實重彦も指摘していたことだが、本作の構造や映像・お笑いのリズムが「漫才」というよりも「落語」に近い構造である

武さんの映画はですね、武さんなんてごめんなさい、北野武監督のはですね、「漫才」というよりは「落語」に近いんですね、何か感じとして。比較的漫才のノリがあるかなと思っていた『みんな〜やってるか!』もその前半はずっと落語のトーンであるような気がするんですね

そう、本作は一見何の脈絡もなく次々と「女とHしたい」という男の妄想が現実の行動として暴走していく様を繋ぐスラップスティックに近い形式を取りながら、根底には浅草の「落語」の語りというかリズムがある
だから無軌道にやっているように見えて実はカット割りやシークエンスの繋ぎ方が自然で違和感がないし、むしろ本作はビートたけしがどこまで映画を茶化すことが出来るか?のギリギリ限界に挑んだ一作といえるだろう。

実際、キャスティングもそうなのだが本作は「これは「映画」なのか?」という衝撃を与えると同時に、映画の歴史とお笑いの歴史を知っている人には間違いなく「映画だ!」といえる画面の説得力がある。
ただし、本作は他の北野監督の映画とは異なり「映像そのもの」で楽しむというよりも、「落語」「お笑い」の文脈もまた別に理解する必要があり、その両者の葛藤・鬩ぎ合いを楽しめるか否かが試される作品だ
だからこそ良くも悪くも人を選ぶし、笑いのツボが本作の提示するものと合わない人にはとことん合わない「駄作」になってしまうために賛否両論・玉石混交の評価となる映画ではなかろうか。
少なくとも私は本作を見て全体の笑いの構造は客観的に理解こそできるし「ここでそれが来るのか!?」という驚きはあるが、それでもやはり100点満点の傑作とは必ずしも言いがたいところがあった。

本作を「落語」の構成(マクラ・本題・オチ)に準えて見ると、マクラと本題はアイディア満載で笑えるのだが、どうしても後半〜終盤の「オチ」のインパクトが弱いという印象が否めない
映画でも落語でもやはり「オチ」に向かってどこまでテンポよくカットを繋げることが出来るかが重要なのだが、本作はどうもそのまとめの段階で失速してしまった気がしてならないのだ。
他作品との比較を抜きにしても、映像が持ちうる説得力や題材との相性も含めて本作は「失敗作」との烙印を押されても仕方ない一作ではなかろうか。
「北野武」ではなく「ビートたけし」のテイストが強い本作がどう面白く、どうまとめの段階で失敗してしまったのかを論じてみたい。

フェリーニというよりゴダールに近い前半の「マクラ」

まず前半のダンカン演じる朝男が「車に乗って女とセックスしたい」という妄想を安直に現実の行動として起こし暴走していくシーンはゴダールの「気狂いピエロ」「勝手にしやがれ」のパロディーではないかと思われる。
淀川長治はフェリーニの「8 1/2」と喩えていたが、私からするとむしろ「ゴダール的なるもの」を前半はどれだけパロディできるか?ということが1つの狙いであったのではなかろうか。
ゴダールの映画は基本的に「現実逃避」として退屈な日常からの脱却を図るために車でひたすら昔の愛人と落ち合って逃げることだけで90分の映画が成り立ってしまう。
その中で女からの裏切りに遭い、最期はほぼ男の自滅で終わってしまうのだが、本作はどちらかといえば「妄想への逃避行」ということでそれを上手くパロディしている。

朝男は自分が女とセックスしたいが為にポルノ映画やAVなどで描かれるカーセックスが現実に存在すると思い込み、車を乗り換えながら実現しようとするが、どれも失敗に終わってしまう。
まず朝男自体が女っ気ゼロの非モテであることや車のセンスが全然なくお金もないから安くてダサい中古車しか買えず、更なるお金を欲して銀行強盗や現金輸送車を付け狙うも、上手くいかない。
飛行機を見てスチュワーデス(キャビンアテンダント)が性的サービスをしてくれるのではないかと妄想するも、そのためのお金がないという問題に行き当たってしまう。
そう、何をするにも結局「お金」が必要ということであり、また90年代という時代にあってはゴダールが撮っていた60年代とは違い「イケイケドンドン」が通用する時代でもないのだ。

この辺りにゴダールとビートたけしの大きな違いがあって、ゴダールは徹底的に既存の映画を批評した上で「映画には何ができて何ができないのか?」に対して極めて意識的であった。
だからこそ敢えて「気狂いピエロ」「勝手にしやがれ」では、それまでの映画にない斬新な語り口で「映画とは何か?」の語り直しというかある種の解体を行っている。
映画とは本来「画面」で語るものであり、「男」「女」「車」さえあれば映画は撮れるというのが彼の持論であり、実際そのことを画面の運動として証明してみせた。
一方のビートたけし(北野武)もそのことに意識的かどうかはわからないが、「3-4X10月」の冒頭と同じく「男と女と車」を題材にした逃避行を延々と描いている。

しかし、たけしが徹底してゴダールと違ったのはそれを突き放すように「お笑い」として茶化していることであり、朝男はどこまで行こうと愛の逃避行すら実現できない。
女はできないし車は買えないし国外逃亡もできない、手荒な犯罪に出ようとしてもまともに取り合ってもらえず、やることなすこと全部裏目に出て頓挫してしまうのである。
本作ではどこまで行こうと、朝男の妄想と発露としての現実が決して直結することはなく、どこまで行っても結局は空回りで終わってしまうというのが極めて「不自由」なのだ。
そう、ゴダールは映画の「不自由」を知った上でそこからどうすれば「自由」になれるかに挑んだが、ビートたけしは「自由」とは本質的に「不自由」だとお笑いを通して突きつける

「北野映画」のパロディとして構成される中盤の「本題」

そんな「マクラ」が過ぎて「本題」に入るのだが、個人的にはこの「本題」と呼ぶべき中盤のシーンが一番創意工夫に満ちていて面白かったし、取っ付きやすかった。
朝男は有名になる為にまず俳優になることを決意してオーディションを受けるわけだが、ここで引用されている映画の題材はのちに自身もリメイクとして撮ることになる「座頭市」である。
ここでの白竜の存在感がこれまた強烈であり、単純に監督として黙って仏頂面でオーディションを行うだけで画になってしまうシーンを作ってしまうのが何とも素晴らしい。
しかし、この「座頭市」のパロディですらも朝男はせっかく主役に抜擢されたにも関わらず、運がないのか何なのか、これまた全てのシーンにおいて失敗してしまう

この映画撮影の幕間の指導や現場の雰囲気はいわゆる「劇中劇」として良くできているわけだが、ここでのカメラワークや登場人物の会話の間など全てが絶妙な映像のロジックでできている。
単純に映画撮影のシーンをパロディするだけなら誰でもできるのだが、本作では更にそれすら朝男視点で戯画化し、その上で全て台無しにしてしまうことで茶化しつつも決して本家を軽んじていない。
この辺りはビートたけし(北野武)ならではの勝新太郎に対するリスペクトがあればこそなのだとは思うのだが、必要以上に持ち上げも軽蔑もしない淡々としたバランス感覚がよく画面に出ている。
特に「盲目の男」というとても演じるのが難しい設定の主人公を並の人が演じるとどうなのか?というのも含め、結局朝男は「持っていない」男のイメージがここで形成されてしまった

そんな「持っていない」朝男がその不運さ故に逆説的に妙にうまく行ってしまったのがヤクザの抗争なのだが、このシーンこそが本作で一番切れ味抜群のシーンに仕上がっていたと思う。
カメラワークもさることながら、「ガキの使いじゃねえんだ!」と言いながら前半に出てきた家庭のガキが本当に出てきたり、更には集団で歩きながら起こってしまうスパイ暗殺だったりが実に面白い。
そして「ソナチネ」の殺し屋とは正反対のお茶目な親分として出てくる南方師匠と結城哲也の倉庫でのやり取りが実に面白く、このシーンだけで思わず10回も繰り返し見てしまったほどである。
特に大親分の首を手違いで撥ねてしまい、本格的に詰められる前に逃げてしまうシーンのテンポの良さは腹がよじれるほどに大笑いしてしまい、ここだけなら間違いなく100点満点だった

この「本題」のシーンはいかにもお笑い芸人・ビートたけしと映画監督・北野武が融合したような奇妙なお笑いの構造になっていて、自身がそれまでに培ったヤクザ映画をいかに崩すかに注力している。
基本的に北野映画における暴力シーンは「突発」かつ「寡黙」であり、義理人情で殺し合いが発生するのではなく乾いた暴力であっさりと殺してしまうが故に徹底して乾いていた。
だから、本作においてこんな風にヤクザが徹底して感情を露わにして抗争へ突入するというのは例外的なほどに珍しかったし、ボーリングのピンみたいな並びも構図として非常に面白い。
「寡黙」というイメージを全て覆すような「雄弁」な中盤のシーンはまさに自身の映画すらも笑いの対象にしてしまう完璧な作りとなっており、ここまでだったら文句なしに傑作と評価できる

「特撮」のパロディとして失敗してしまった終盤の「オチ」

問題は終盤の「オチ」にあるのだが、個人的な趣味を差し引いてみても、「特撮」のパロディーとして描かれた終盤の「オチ」は完全な失敗だったのではないかと思う。
まず温泉でビートたけし演じる透明人間推進協会・博士と芦川誠演じる助手が朝男を「透明人間」の実験材料として選ぶのだが、ここの特撮のシーンが如何にも安っぽい。
ラストの方では地球防衛軍として大御所の小林昭二まで起用するなどのセンスはいいと思うのだが、パロディーにしてはあまりにもレベルが低すぎる。
まず透明人間になって女湯に侵入するところが如何にも「透明人間」が侵入したという説得力がなく、誰がどう見ても朝男たちが侵入したとわかってしまう。

最終的には「モスラ」のパロディーまで入れてドームを使って巨大なハエ男となってしまった朝男をデカい糞を集めて退治しようという凄く大掛かりなシーンになっている。
しかも前半から中盤まで朝男が全て関わっていた人たちが大集合のように集まってくるのだから「たけしオールスターズ」といっても過言ではない画となっていた。
だが、このシーンでは「いかに特撮を茶化すか?」ということにばかり傾注するあまりに映像としてのテンポが悪いし、94年基準で考えてもセットといい衣装といいショボすぎる
平成ゴジラシリーズはもちろんのこと、この時代にはすでに東映特撮のスーパー戦隊シリーズやメタルヒーローシリーズだって演出・デザイン・脚本がそれなりに洗練されていた。

かつては低予算で「ジャリ番」と蔑まれていた子供向けのテレビシリーズですら90年代には技術も進歩していることを思うと、本作のハエ男のスーツデザインや空を飛ぶシーンの操演の迫力がない。
ラストのおまけで東京タワーに突き刺さったままというカットは悪くないのだが、全体的にクオリティーがチープ過ぎて、ここのまとめの段階で本題までと大きな断絶が起きてしまっている
元々、ビートたけし(北野武)自体がチャンバラ時代劇や任侠映画はともかく怪獣映画などの特撮との相性・親和性は高い方ではないし、受け手としても特撮の造詣に深い印象はない。
実験作としてそれまでにやっていなかった特撮に挑みたいという意欲・チャレンジ精神は高く評価したいのだが、特撮を笑いでパロディーするにはそれとはまた別の技法が必要になる。

特撮そのものを笑いで茶化してパロディーするとなると浮かんでくるのはやはり本作の2年後に出てくる『激走戦隊カーレンジャー』『超光戦士シャンゼリオン』が挙げられるだろう。
どちらも作品として目指す方向性やお笑いのテイストに違いはあれど、既存の特撮作品に対する研究・批評を行った上で見事なお笑いのセンスでパロディーしている。
特に「カーレンジャー」は北野監督とほぼ同郷の浦沢義雄が脚本を担当していることもあり、戦隊ヒーローの本質を鋭く捉えた上でのギャグ・コメディーの仕方が天才的であった。
それに比べると本作のオチは「特撮を茶化すこと」だけで満足してしまい「特撮とは何か?」という本質を見極めた上での鋭いギャグ・コメディーにまでは昇華されていない

画竜点睛を欠いてしまった惜しい佳作

まとめに入るが、私にとっての『みんな〜やってるか!』の最終的な評価は「画竜点睛を欠いてしまった惜しい佳作」ということになってしまう。
監督自身も敢えて「失敗すること」を目論んで作っているといっていたから、ある意味でこのようにきちんと「失敗」とすべき部分は容赦なく貶してあげることが最大の礼儀だと思う。
しかし、単なる「失敗作」で片付けていいような作品かというとそうではなく、中盤までは既存の映画に対する風刺・皮肉も含めてよくできていたし退屈はしなかった。
また、ここまで書き終えてふと思ったことなのだが、もしかすると以前に酷評した松本人志の『大日本人』(2007)は本作の雪辱戦というかオマージュを意図したのではないか?

私自身は全く肌に合わなかったが、松本人志が何と無く本作の終盤で失敗した「特撮をお笑いで茶化す」というのを松本人志なりのお笑いの形でやろうとしたことが逆説的に伺える。
ビートたけし(北野武)にとって、東宝怪獣映画をはじめ特撮というジャンルは必ずしも得意なジャンルではないことが証明されたが、逆にいえば映画人の中ですら「特撮」が軽んじられている証であろう。
「映画におけるお笑い」と「特撮におけるお笑い」は似て非なるものであるし、バラエティー番組などを見ても特撮作品に対してきちんと愛情を持って弄ってる番組なんてほとんどない。
そういう文化的土壌の貧しさは今日においても変わることはなく、天才作家・北野武とお笑い芸人・ビートたけしの技量と感性をもってすら特撮作品のパロディーを映画に落とし込むことには失敗してしまった。

その事実に対して監督が無自覚であったとは思えず、本作を最後に以後の作品群で北野武が特撮を題材にパロディー作品を作ることはなくなった
ヤクザ映画・恋愛映画・冒険物・時代劇・青春物と幅広い題材を手がけられる彼をもってしても特撮作品だけは迂闊に手を出せない領域だったのである。
逆にいえば、「オチ」のまとめ方があのような形でなかったら、本作はもっとすごい日本屈指のB級コメディー映画としての名声を高めていたに違いない。
中盤まで繰り出される縦横無尽のパロディのアイディアとカットのつなぎが素晴らしいからこそ、なおもまとめ方で失敗してしまったことは誠に遺憾である。

逆にいえば「弘法にも筆の誤り」というのを1つの教訓として学ぶことができるのが本作であろう。


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