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映画『ドラゴンボール超スーパーヒーロー』再視聴後に見るとわかる『ドラゴンボールGT』最終回の恐ろしさ

アマプラで映画『ドラゴンボール 超スーパーヒーロー』を再視聴した上で、改めて『ドラゴンボールGT』を見直してみたのだが、改めて「GT」の最終回は意味不明ではなく恐ろしいことに気づいた
まずGTに関しては以前にブログで評価・感想を書いているので載せておこう、気になる方は改めて見ておくといい。

基本的に以前書いたこの評価と今の評価でそんなに変化したわけではないのだが、原作者がデザイン以外のほぼ全てを丸投げしたことで改めてとんでもない最終回だと見受けられる。
現在「超」と「GT」の間の整合性やつながりといったものはほとんどなく、「GT」に関してはもはや当時リアタイした層以外にはもはや話題にすら上らない黒歴史になっているようだ。

それもそのはず、『ドラゴンボールGT』の最終回は「ドラゴンボールが世界から完全に消滅した未来」を作り手が勝手に決めてしまい、原作者の鳥山明先生になんの断りもなく決めたからである。
まず大まかな流れを説明すると、『ドラゴンボールGT』の終盤で悟空たちが戦ったのはドラゴンボールそのものであり、ドラゴンボールを酷使しすぎた弊害で邪悪龍が出現した。
その邪悪龍の中から一星龍が他の邪悪龍を吸収してできたのが超一星龍であり、ゴジータ4がこれを迎え撃ち、元気玉と共に消滅したのだが、地球人のほとんどもその際に消滅している。
ピッコロに至っては自らの命と引き換えに孫悟空を天井に戻して自らは地獄に落ちてしまうというという結末なのだが、最後に孫悟空は地球人たちをドラゴンボールで復活させ、神龍と共に飛び去ってしまう。

そして最終的に時間は一気に100年後へ飛び、天下一武道会で悟空Jr.とベジータJr.が戦い「悟空がいたから楽しかった」で走馬灯の様に流れておしまいなのだが、はっきり言ってリアタイした時は意味不明だった
私は基本的にドラゴンボールに綺麗な感動や共感なんて全く求めていないし、そんなものを読みたければ今だったら『鬼滅の刃』があるのだからそっちを見ればいいと思ってしまう。
しかし、原作者が改めて「神と神」から「超」を作ったこと、その中でも「ブロリー」から更に数年後の「スーパーヒーロー」が出たことによって、もはや「GT」に何の価値もなくなってしまった
まず鳥山明が描く純真なパンと「GT」の不良娘みたいな汚いパンとが大きな違いとしてあるわけだが、もっと根本的な部分で「ドラゴンボールそのもの」に着目すると、「GT」の最終回はバッドエンドにしか見えない

「GT」で終盤の脚本を担当した前川淳は同じような最終回を『デジモンアドベンチャー02』でやっているわけだが、いきなり時間が飛んでしまうこのラストへの意味解釈が上記の動画で解説されている。
ここでは確かに孫悟空は宇宙全体から元気玉を借りた影響で死んだはずなのだが、特別に神龍が自らと一体化することによって孫悟空はいわゆる「概念」となって、飛び去っていく。
確かに描写としてはそれで間違いではないのだが、私が以前に書いた『ドラゴンボール』を「絵の運動」として論じた時に「球の奪い合いによる上昇志向」が根幹にあることを述べた。
少なくともナメック星編(フリーザ編)まではその構造がきちんと根幹にあったわけだが、人造人間編以降はこの図式が壊れてしまい、単なる陳腐な英雄物語となったのである。

以前にも述べたが、明確にナメック星編までとそれ以降とで物語としての質や意味合いが根本的に異なるものだと書いたが、それは「GT」「超」というスピンオフを比較・検討する中で明瞭となる。
どちらも「ドラゴンボール争奪戦」という根幹の要素が壊れた状態で復活させようとしたのだが、その中で私は以下のように書いた。

つまり徹底的に破壊された「ドラゴンボールという球がない絶望の世界」か「強敵は次々に出てくるが、何度でも復活可能な御都合主義の世界」のどちらかにしかならないのである。

この定義を元に上記の動画の解説で出ている「孫悟空は死んで神龍と一体化して概念となり、ドラゴンボールが世界から消えた」が真実とするなら、「GT」と「超」は全く対照的な世界だとわかるだろう。
すなわち「GT」が前者で「超」が後者であり、「GT」は初期2クールこそ「ドラゴンボール争奪戦」という初期の冒険要素を疑似的に復活させたものの、その影響でドラゴンボール自体が壊れてしまった。
便利なものを酷使しすぎてとんでもな罰が降り、地獄からの使者が蘇るという陰惨な世界観となっているが、これが実は原作でいう未来トランクスの世界に近いものとなっていることを指摘せねばなるまい。
「GT」の世界は一見平和そうでいて、その実ドラゴンボールで願い事を叶えることが許されない世界となってしまい、もうたとえ強敵が現れ人々が死んだとしても神龍で復活することができないのだ。

仮定の話になってしまうが、100年後が仮に平和な世界であったとして、この先とんでもない強敵が現れない保証などどこにもないのに、ドラゴンボールというドラマツルギーがなくてどうするのか?
七つの球があるからこそ世界のバランスが保たれているのに、それをむざむざ主人公たちに否定させて世界を壊させ、ピッコロも物語の表舞台から退場させる世界には何の希望もない。
表向き明るさと郷愁を装った感動のラストみたいに仕立てているが、私からすればこれはとんでもく恐ろしい世界であり、この世界の行く先は未来トランクスのように荒廃した世界になる可能性もある
だからこそ改めて思うのだが、「GT」は原作者が直接監修に携わっていたわけではないことを抜きにしても、ドラゴンボーそのものを否定したことで負の御都合主義へ陥ってしまったのではないか。

その点で言えば「超」は逆にむしろ上位互換の神様やドラゴンボールが次々と増えていき、力の大会では最終的にスーパードラゴンボールによって消滅した宇宙を復活させている。
茶番といえば茶番なのだが、この茶番っぽさこそがナメック星編までのドラゴンボールが持ち得ていた魅力であり、やはり鳥山明が手がけるギャグ漫画のテイストに近いのは「GT」ではなく「超」の方だ
そして最新作の「スーパーヒーロー」ではむしろブルマが若返りのためにドラゴンボールを使っていたこと、またデンデがドラゴンボールをアップデートしてピッコロをパワーアップさせている。
このように、「GT」とは真逆の「強敵は次々に出てくるが、何度でも復活可能な御都合主義の世界」であることを選び、ブウ編で確立した弛みっぱなしの世界であることを選んだ。

だから、主人公の孫悟空も「GT」とは違い緩みっぱなしのバカみたいになっているわけだが、これは「GT」が「Z」で作り上げた正統派ヒーローとしての悟空であったこととは対照的である
「超」はどちらかといえば原作初期の朗らかで抜けたところがある悟空に戻っているのだが、これもそうした弛緩した世界であることの表れであろうか。
そのように考えると実に「GT」はあれこれ余計なことをしくさったものだが、そりゃあこんな希望も未来も感じられない原作の根幹を否定するような作品が人気なわけがあるまい。
やはりその意味では鳥山明がレールを敷いて旧作のファンをしっかり取り込むことを意識している「超」の方がスピンオフとしてまだ見られた方であろう。

そう考えるとき、なぜ未来トランクス編の結末が最終的に全王によって消滅させられなければならないのかというと、そんな救いようの無い世界は都合が悪いからである。
そこで最終的に全王様に消滅させてしまうというデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)を発動したのだが、これは言うなれば「蜥蜴のしっぽ切り」だ。
要するに破壊神ビルスとザマスの間に起きた覇権争いのゴタゴタに巻き込まれてしまい、トランクスとマイは理不尽にその責任をなすり付けられたと考えた。
既に界王神も破壊神もいない未来トランクスの世界では完全に神が神として存在せずドラゴンボールもない世界であるために、これ以上秩序を保つことができない。

それに未来トランクスは原作でも描かれていたが、既に過去にタイムマシンで移動してきた時点で既に過去に干渉するという罪を犯してしまっている(『銀河パトロールジャコ』でこのあたりの設定は描かれている)。
「超」は原作42巻だけではなく「ドラゴンボールマイナス」「銀河パトロールジャコ」といった鳥山明が描くスピンオフの前日譚も含まれており、タイツやジャコといったメンバーも出ている。
それに照らし合わせて考えると、未来トランクス編はあの結末以外にはあり得なかったと納得できる、そもそもザマス自体が半分悪の悟空で出来ていたからだ。
その悪の悟空を倒させようとなるとトランクスでもベジットブルーでも無理であり、最終的に全王様に消させる以外に方法はないということだろう。

それを知り「スーパーヒーロー」で描かれた世界を見ると、かえって「GT」の最終回が私にとっては感動のベストエンドどころかむしろバッドエンドにしか見えない
そのように考えても「GT」と「超」の間につながりはないだろうし、今あの作品を見返しても何も感じるところはなく、私には無用の作品である。

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