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『百獣戦隊ガオレンジャー』に見る「身体性」の喪失とスピリチュアル依存の罠

本当の意味での00年代戦隊は『百獣戦隊ガオレンジャー』で始まったと以前ブログの批評で書いたが、最近改めて「設定」の面から見直してその真の理由がわかった気がする。
この「ガオレンジャー」の奥底に込められているのは「精神性」の台頭と引き換えの「身体性」の喪失、そしてその先にあるスピリチュアル依存の罠だ。
作り手に自覚があったかどうかは別として、今この世界が悪い意味で「ガオレンジャー」のようになりつつあることに私は戦慄を禁じ得ない。
単なる商業的成功というだけではなく、作品としての失敗という側面も含めて見る本作はあまりにも現実的すぎて逆に説得力がある気がしてきた。

「ガオレンジャー」が放送されたのは2001年、ちょうどIT革命勃興期に当たり人々の生活に徐々にパソコンやインターネットのようなテクノロジーが導入されようとしていた時代である。
それから早22年、今人々の暮らしはどうなったかというと子供達のみならず大人までもがスマホ依存症、もっと言えば「デジタル依存症」へと陥ってしまった。
周りに人がいるにも関わらず体を動かすことを忘れ、ネットの仮想世界に囚われてしまい、「身体の成長」が未発達のまま頭脳ばかりが膨れ上がっていく。
そうしてその先に待ち受けているのはAIの台頭とそれによる支配の未来というディストピアであり、下手すれば『超獣戦隊ライブマン』の頭脳軍ボルトになりかねない。

今の子供達は共感性や間がなく大人の話をきちんと聞けないと言っているが、それはデジタル機器に人類が依存する仕組みを作り上げた社会全体の構造上の問題である。
子供達に幼い頃から携帯ゲームやパソコン・スマホのようなものを買い与えてそれにどっぷり浸かって、それでどんな社会を作り上げて行こうというのであろうか?
実は曽田博久先生はこの点に関して既に『大戦隊ゴーグルファイブ』の時から警鐘を鳴らしており、人類が「知の愚明」という頭でっかちなところへ将来向かうことを危惧していた。
曽田先生だけではない、学生運動に参加し国のお偉方をぶっ潰そうと思った人たちは軒並み科学信仰によるイケイケドンドンがもたらす暗黒の未来を憂いていただろう。

私は押井守監督の「GOHST IN THE SHELL」やアメリカの「マトリックス」、その大元である「ブレードランナー」を見た時、サイボーグ化した人類の未来を見て衝撃を受けた。
既に賢い人間はいずれ人類の未来がこのようになると言っている、そしてそれが極まった先に何が待ち受けているかというと「2001年宇宙の旅」が示した人類とAIの相克である。
人類は自らが文明を発展させるために作った機械によって逆に支配される未来が来る、その時にどうすれば生き残ることができるのかを昔はSFとして描いていた。
しかし、現実がSFに追いついている今、人類の未来はどんどんAIによる支配という方向に行っているのではないかと思うが、そうなると何が起きるか?

そう、『星獣戦隊ギンガマン』が示したようにファンタジー、具体的には土着の自然信仰(アニミズム)の台頭であり、あの作品は人間が自然に戻ることの尊さをヒーローを通して描いた。
星や自然を慈しみ、その為に力をつけて戦うことが人類を科学信仰から解放する手段の1つであり、だからこそリョウマたちは「戦士に必要なのは力や技だけではない」と訴える。
昔のヒーローは「身体性」をひたすらに重視しすぎた余りに「精神性」を置き去りにした為に強さのインフレというところに行き着き、力のみが膨れ上がってしまった。
それに対して「心もまた大事である」という形でバランスを取り、力をただがむしゃらに身につけたって心がそこに伴っていなければ無価値であると再定義したのである。

しかし、「ガオレンジャー」では翻って「精神性」のみに偏り過ぎて、今度は「身体性」を置き去りにした作品といえるのではないか。
ガオレンジャー5人が戦士に選ばれた理由は身体能力が高いからでも資格があるからでも正義感が強いからでもない、純度の高い「ガオソウル」を持っているからだ。
パワーアニマルという本来地球上には存在しない架空の動物に認められたものがGフォンとガオの宝珠を与えられて戦うなんて新興宗教のやり口である。
実際、放送当時から散々「カルト戦隊」と揶揄されていたし、後半で起こるわけのわからない奇跡の連発も「信じる者には奇跡が起きる」という胡散臭さ全開のものだ。

また、敵組織の名前が「オルグ」というのも宗教を連想させるものであり、何故ならば元来の「オルグ」とは地球の邪気から生まれた鬼ではないからである。
オルグの由来はorganization、即ち「労働組合や左翼政党の中で運動を組織し、拡大・連絡・調整に当たる者」のことを指しているのだ。
何でそんな名前をつけたのかが不思議なのだが、「ガオレンジャー」におけるオルグは人類が環境破壊により疲弊した地球の闇が生み出した悪の塊とされている。
ということは、世俗に塗れて社会の中でせっせと働くサラリーマンたちこそが実はオルグを生み出す元凶であるということにならないだろうか?

こう考えれば、まるで唐突にQuest39・40でガオゴッドが急に環境破壊をネタにしてガオレンジャーたち人類を見限ろうとした理由もわかる。

「地球を護る者として、人間を選んだのは間違っていた。ガオの戦士として、人間はふさわしい存在ではない」
「皆、よくぞ悟ったな。人は過ちも犯すが、正しく導けばこの星を救う素晴らしき力を持つ。それを知ってこそ戦士としての資格を持つことができる。この度の試練、お前達にそれを知ってもらいたかったのだ」

よくもまあこんなことを神様は宣う物だと思ったが、「ガオレンジャー」の世界において実は「人類は地球を自ら汚す愚か者である」とガオゴッドらが思っていたのなら筋は通るだろう。
要するに何とかしてガオゴッドはオルグを発生させてしまう元凶たる人間を淘汰したかったのだが、それを何とか紙一重のところでレッドたちが回避したということになる。
しかもそれですら「神の試練」だというのだから、まるでどこぞの真理教や幸福の科学の指導者を彷彿させる選民思想ぶりに身の毛もよだつ。
そうして人間たちはパワーアニマルが提唱する「科学を捨てて自然に帰れ」という行きすぎたアニミズムの押し付けに丸め込まれてしまう。

00年代戦隊シリーズはダイノガッツ・冒険魂・激気・エンジンソウルと戦士たちの力の源や戦う理由が「心」「精神性」に由来するものになっている。
その一方で「身体性」を軽んじるようになってしまい、プロでもなければアマでもないなどというよく分からない屁理屈がまかり通るようになってしまった。
そう考えれば、頭が悪いとなじられた「バカレッド」と俗称される直情径行のレッドたちが00年代戦隊シリーズにおいて流行したのも自ずとわかるだろう。
唯一00年代戦隊の文脈に沿わず90年代戦隊への文脈に再び戻そうとしたのが『侍戦隊シンケンジャー』だったのではないだろうか。

「シンケンジャー」は「ガオレンジャー」以降続く00年代戦隊シリーズの中で唯一(?)強さの根拠を「心」ではなく「力」においた
あくまでもモヂカラと剣の稽古を続けてきた侍の末裔たちだけが戦いに参加することを許されており、とても窮屈に見える関係性ではある。
しかし、「心」がありさえすればバカが何をしてもいいとする「ガオレンジャー」以降のあり方に対する反証として「シンケンジャー」が作られたとすれば納得が行く。
あれは強き心や魂を持っているからではなく、殿と家臣の主従関係という強制力のある「絆」と純粋な戦闘力の高さによって勝ち負けが決まる方式だからだ。

ここまで見て行くと、「ガオレンジャー」という作品が何故00年代戦隊シリーズのスタンダードとなったのか、そして何を後続作品に残したのかがわかる。
だが、科学信仰の末の「デジタル依存」であろうと、自然信仰の末の「スピリチュアル依存」であろうと、身体性を蔑ろにして得た物にどれほどの価値があるのか?
今見直すと「ガオレンジャー」という作品は反面教師として、自然信仰も偏ってしまえば宗教と同じであると私たちに教えてくれる格好の材料であろう。


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