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近年の悪役は生温い!もっと正義の味方を苦しめる無慈悲な存在たれ!スーパー戦隊シリーズにおける「悪」の最高峰・宇宙海賊バルバンの魅力を語る

どうも、Twitterとnoteのフォロー数を一桁台まで減らして大量フォロ解・ブロ解したヒュウガ・クロサキです。

昨日の記事を書いた後、久々に無駄な繋がりを次々と減らしていったら、まあこれが実にスッキリしました
GAFAがなぜ今年に入って大量のレイオフを行ったのかわかった気がします、組織を無駄に硬直化させる要因は削るに限ります。
そして何というか、今までの私はどこかで「いい人」を演じていたというと大袈裟ですが、どこかで自分をセーブしてしまっていたことに気づいたのです。
ここ3年、いやここ10年ばかりどこかで「優しい人」であり周りに合わせることを優先し、それ故にどこかで甘くなっていた自分がいました。

もちろんそれは環境だったり余裕のなさだったり色々事情があったし、時には自分を抑えて周りに合わせることもまた大事な経験です。
しかし、それが故に自分の良さが押し殺されてしまったり、自分の言いたいことを言えなくなってしまったりするようでは本末転倒でしょう。
ニコニコ笑って好かれて無難なことしかいえない都合のいい人間になるなんざまっぴら御免です、これからは思う存分言いたいこと言います
遠慮・奇譚・忖度なんて一切しません、裏でどんだけ叩かれようが批判されようがお構いなし、打ち身擦り傷勲章だぜ!

さて、今回はその第一弾として私が思うヒーロー作品における「悪」とは何か?について語ります。
まずは声を大にして言わせていただきましょう。

最近の悪役は「悪」と呼べない半端者ばっかで生温いんじゃゴルアッ!!!

ここ数年私が見てきたヒーロー作品の悪役の中で存在感のあった悪は「ONE PIECE」のワノ国編に出てきた四皇のカイドウくらいでした。
知略系の敵やいわゆる「正義拗らせ系」の「元々そんなに極悪人じゃなかった」みたいな小物が多い中で、カイドウは久々の「巨悪」と呼ぶべき立派な悪だったと思います。
ワノ国を己の悪政で毒を流し続けて弱体化させ、新世界で強くなったルフィやゾロたちですらも一撃でねじ伏せてしまう圧倒的な力と悪としてのブレない美学!
もうね、どこぞの無惨様なんぞのような小物とはワケが違います、最後まで主人公たちを苦しめ圧倒し続けた見事な悪役でございました。

そしてそれを迎え撃つルフィたちもまたね、総力戦で持てる力全てを振り絞ってしっかり倒してくれたのではないでしょうか。
特にギア5thの太陽神ニカに覚醒した時は感動しましたし、ゾロもまたサブリーダーというか二番手としての威厳を出していましたし。
それがどうですか、近年稀に見る大ヒット作だった「鬼滅の刃」に出てくる鬼なんてもうショボいショボい……無惨様しかりね。
確かに能力は凄かったし無辜の者たちを容赦なく襲いかかる描写も悪くはなかったですよ?

でも「元々人間で同情すべき背景があるんです」みたいな雰囲気を出しているのには辟易しました、んなのは知ったこっちゃねえと。
まあ「鬼滅」くらいしかジャンプ漫画作品を知らない人、いわゆる「鬼滅キッズ」だけが言ってるんならわかります。
しかし、同じようなことを有名芸能人の鈴木愛理辺りまでが嬉々としてラジオで語ってるのには頭を抱えてしまいました。
まあ愛理氏は「鬼滅」までアニメ・漫画をろくに見たこともない初心者だから仕方ないですし、近年ジャンプ漫画・アニメを勉強している最中のようですが。

同じようなことはスーパー戦隊シリーズでも起こっていて、特に「ゴセイジャー」「リュウソウジャー」「ドンブラザーズ」辺りはそうだった気がします。
「ゴセイジャー」では主人公たちと同じ元護星天使で地球の浄化と救済を目的としていた奴みたいな正義の相対化が図られたことがありました。
次に「リュウソウジャー」では主人公たちの先祖こそが実は悪者でしたみたいな、そして「ドンブラザーズ」の脳人にも良い奴と悪い奴がいるんですみたいな。

違う違う違う違ーーーーーーーう!!!!

そんな糞の役にも立たぬポストモダニズムに塗れた中途半端な敵なんか出してんじゃねえぞと、それは「悪」ではなくただの「敵」「ライバル」でしかありません
ということで今回は「悪とは何か?」を私が最高傑作の1つとして高く評価している『星獣戦隊ギンガマン』の宇宙海賊バルバンを軸に語っていこうじゃありませんか。
「ギンガマン」を既に知っている人も、そして全く知らないという未見の方もどうぞ見て行ってください。
前置きがだいぶ長くなりましたが、本題に入ります。

悪とは何か?

最初に私なりの「悪」とは何かについて定義します、ここを語らないことには今回の話はできないからです。
定義を曖昧なままにスタートすると、雑な主観で「定義が狭いと思う」みたいなわけのわからないことをほざく人たちが出てくるのでね。
作品に応じていろんな「悪」の形があるわけですが、概ね共通するエッセンスを抜き出すと以下のような感じです。

一切の情や善意がない悪意の塊

これが近年の悪役に足りていない要素ですが、一切の情や善意がない純然たる悪意の塊が魅力的な悪役には絶対欠かせない条件です。
身内であろうと不要ならば容赦無く切り捨て、作戦失敗したやつは容赦無く処刑し、一般民衆などの無辜の者たちを容赦なく殺していく悪意。
その悪としての純度は高ければ高いほどよく、主人公たちをピンチへと追い詰め絶望させてくるという肉薄ぶりがたまらないのです。
私が見てきた名作・傑作群でこの要諦を満たしていない作品は1つもありません、皆何かしらの形で「悪」とは何かをしっかりと描いています。

そもそも「悪」という漢字自体が「心」という字が隠れていて、語源は「古代の墓の部屋を上から見た図」という意味なのです。
墓なんてところに用もなく立ち寄る人はいませんよね、なぜかといえば墓とは「この世とあの世の境目」になりうるところであるから。
そう、悪とは暗く陰湿で忌まわしいネガティブな心の本質であり、それを貫き通すことが「悪」としての最低条件なのです。
「実はいいやつでした」なんてそんな生温く甘っちょろい背景なんて必要ありません、非道であればあるほどいい

無辜の者を無慈悲に嬲り殺す力

1つ目でも少し触れましたが、悪役には他を圧倒とし無辜の者を容赦無くゴミクズのように嬲り殺しにする力が必要です。
上に挙げたカイドウしかり「ドラゴンボール」のフリーザ様しかり、魅力的な悪役には他を圧倒する力が欠かせません。
しかもその力というのは主人公たちとは違い「最初から持っているもの」として潜在的に描かれるからこそいいのです。
それこそ「HUNTER×HUNTER」「ゲキレンジャー」のように敵側が修行して強くなる作品もありますが、それはあくまで「敵」であって「悪」ではありません

「悪」というのはそもそも修行なんかせずとも完成していて、その完成した凄まじい力で本気を出さずとも簡単に滅ぼす力を持っているのが望ましいでしょう。
それこそ戦闘力53万で有名なフリーザ様なんて第一形態ですら指先1つで惑星ベジータを余裕で滅ぼすことができるほどの力を持っていました。
そんな圧倒的な強さを持つ悪の首領に対して主人公たちが戦闘経験を積んで修行や努力を重ねて強くなり、力をつけて倒し乗り越えるからこそカタルシスがあるのです。
近年ではすっかり「悪ぶってるけど人は殺さない実はいい奴」みたいなのが増えているので、わかりやすさという意味でも力は誇示すべきでしょう。

多士済々の荒くれ者を束ねるカリスマ性

これは悪の首領に絶対欠かせない要素ですが、多士済々の荒くれ者を束ねる圧倒的なカリスマ性もまた悪役には欠かせない要素です。
名作・傑作と呼ばれるヒーロー作品に出てくる悪には下の幹部たちとの差というかヒエラルキーを示すカリスマ性溢れる首領が必ずいます。
そしてそのカリスマ性ある首領は精一杯動きで強さを表す主人公たちとは訳が違い、動かずともその強さが滲み出るものです。
「能ある鷹は爪を隠す」という諺の通り、ボスというのは一番後ろで立って睨んでいるだけで他を圧倒できる存在感がなければいけません。

そしてそのカリスマ性は悪の組織の中だけではなく、それを迎え撃つ主人公たちにとってもまた脅威となる必須条件です。
そんな脅威となる存在を主人公たちが足掻き苦しみながらも立ち向かい乗り越えていくからこそ輝くし格好良さが際立つでしょう。
近年の悪のボスは本当にこのカリスマ性が全くなく、最初からみみっちくせこい作戦ばっか展開している卑劣なずる賢い奴ばかり。
どっかの無惨様には是非ともフリーザ様の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいですよ全く。

最期まで美学を貫き通す芯の強さ

そして4つ目、これがもっとも大事ですが、悪役にとって一番大事なのはその圧倒的な悪としての美学や誇りを死に際まで貫き通す芯の強さです。
1つ目に書いたこととつながりますが、近年では悪に対して「実はお前いい奴じゃないか?」みたいな妙な説得を試みる風潮があります。
しかし、話し合いで解決できてしまうような甘っちょろい戦争なんてこれまで人類の歴史であった試しは一度もありません。
20世紀最大の戦争である第二次世界大戦ですら、最後まで話し合いで解決したことなんてなく、過激な戦闘力のインフレで最後は核兵器まで使ったのですから。

いいですか、悪役とはたとえ背景にどんな事情があれ、悪になった経緯が何であれ人としての道を踏み外してしまった存在なのです。
一度人としての一線を超えて闇に手を染めてしまった悪が足を洗って善化していい思いをしようだなんてのは甘いのではないでしょうか。
ピカレスクロマンとは、悪とはどこまで行ったってその行き着く先に待ち受けているのは「破滅」の未来だけなのです。
それを貫き通して散っていくからこそ魅力的な悪役は生まれるわけであり、近年の作品群は本当にこの詰めが甘い作品が目立ってしまいます。

宇宙海賊バルバンの「悪」としての魅力

さあここからがいよいよ本題です、私がアイコンに用いるくらい大好きな「星獣戦隊ギンガマン」に出てくる悪の組織・宇宙海賊バルバン。
歴代47作品の中で私が最も魅力的で印象に残った悪の組織で完成度がとてつもなく高いのですが、彼らの魅力とは何でしょうか?

船長ゼイハブの圧倒的なカリスマ性と戦闘力

何と言っても最大の魅力というか、組織の求心力になっているのは船長ゼイハブの圧倒的な悪としてのカリスマ性と戦闘力にあります。
多士済々の個性も協調性もない幹部たちを鶴の一声で黙らせ、作戦失敗が続けば「てめえのクビを切り落とす!」と死刑宣告を躊躇なく行う姿。
しかもそれだけではなく、幹部たちがしていた隠し事や謀略・知略ですら見抜いて作戦のためなら容赦無く利用する酷薄なまでの現実主義と洞察力まであります。
組織のトップとして必要なものを全て兼ね備えており、第一章から最終章までギンガマン最大の障壁として立ち塞がり続けるのです。

しかも戦闘力もとんでもなく高く、第一章ではリョウマの兄・ヒュウガを容赦無く地底に沈め、黒騎士ブルブラックの弟・クランツすらも容赦無く真っ二つにします。
更にそのリョウマをダイタニクス決戦編で串刺しにし、ブクラテスのみならず幹部たちですら必要とあらば問答無用で切り捨てるとんでもない戦闘力の持ち主でした。
物語のネタバレになるので真相は控えますが、不死身の肉体に加えて星獣に腕をやられたという恨み節からとんでもない力を手にし、その力で容赦無く他を圧倒します。
歴代でも魅力的な悪の首領は数々いますが、知勇兼備の悪役として最初から最後までしっかり主人公たちを苦しめ続けた存在として彼以上の悪の首領はスーパー戦隊にはいないでしょう。

いつでも星を滅ぼせる魔獣の圧倒的な力

2つ目にそんなゼイハブ船長が復活を望んでいた魔獣ダイタニクスと終盤で出る地球魔獣もまた圧倒的な「力」の象徴として欠かせません。
第二章でゼイハブが語っているように、魔獣ダイタニクスおよび地球魔獣は星を喰らいその命を宝石に変えてしまうというとんでもない力を持ちます。
そして地球はバルバンが宝石にしてきた星々の中でも一番美しい宝石になるに違いない、まさに「宇宙の青いエメラルド」だと見ていたのです(このネタがわかる人いるかな?)。
しかし初代ギンガマンが施した強固な封印のせいで、魔獣ダイタニクスを復活させるのに苦節3クールもかかってしまいます。

この魔獣という存在は汚れた星から誕生する「悪の星獣」と定義されていますが、要するにゼイハブはその気になればいつでも地球を破壊できる力があるのです。
ただ、その魔獣を復活なり誕生なりさせないことにはそれが不可能だから大規模な破壊行為を行っていないだけで、彼らはその気になれば単体でいつでも星を破壊できます。
ここが他の作品と比べてもバルバンの誇れる特徴であり、地球征服なんて生温いことはいわず星そのものを破壊してしまえばいいということでしょう。
これは先達の星王バズーや銀河超獣バルガイヤーの発展型でありますが、よりソリッドかつ身近な存在としてわかりやすく設定された力の象徴が魔獣です。

仲間割れが発生しようとも崩れない残酷なヒエラルキー

1つ目の魅力とも重なりますが、何があろうと宇宙海賊バルバンは決して組織としてのヒエラルキーや脅威が最期まで崩れることはありませんでした
どうしても1年もののヒーロー作品では「悪がヒーローに負ける理由」の描写・説明が説得力を欠いてしまうこともままありますが、バルバンではそれが全くありません。
それは1クール1軍団という大きな割り切りの元に作られた構成の美しさだけではなく、組織の核に魔獣と船長ゼイハブの存在が徹底されていたからです。
悪の組織って話の都合上どうしてもヒーロー側に負け通しということが多いのですが、大きな弱体化がなかったのは常に残酷なヒエラルキーが存在していたからでした。

個々の幹部たちが捨て駒にされていく中でどうしても求心力を欠いてしまい瓦解しがちなのが悪の組織ですが、むしろ「ギンガマン」では終盤でこそ脅威が増していきます
特に魔獣ダイタニクスの破片を地中に染み込ませて地球魔獣を誕生させ、内部から猛毒で地球を汚染させギンガマンたちを深刻な被害で苦しめるというのは良くできた描写でした。
これがあるからこそ個々の魔人や戦闘員ら眷属たちが次々と死のうが組織としての求心力と脅威を失わず、物語のテンションが最後まで落ちることがなかったのです。
この船長ゼイハブ+魔獣という強力な二枚看板によるヒエラルキーこそがバルバンという組織が歴代でも屈指の一貫性と完成度の高さを誇る所以ではないでしょうか。

何も残らない自業自得な破滅の末路

これに関しては私が密かに視聴しているYurika氏の動画にて詳しく解説されていますが、バルバンの幹部たちはその何れもが自業自得な破滅の末路を辿っています。
これがギンガマンたちとは大きく対比されているバルバンの特徴ですが、ギンガマンはたとえ「死」があってもそれが何かしらの形で未来へと繋がっているのです。
しかし、バルバンの幹部たちは死んでしまえばそれまでであり、これこそが正にピカレスクロマン最大の特徴である「破滅の未来」ではないでしょうか。
特に2クール目終盤のブドーの最期は当時から今まで伝説として語り継がれており、あれこそ正に悪役の無慈悲な最期がどういうものかを端的に示しています。

悪役とは背景がどうあれ最期は何も残さず惨めに儚く散っているからこその悪なのであって、その死が美しいものとして肯定されることなどあってはなりません。
近年だとどうしても「ヒーロー側にとって印象に残る」みたいな散り方をする悪役も多いのですが、悪逆非道な道を歩んだが故の非情で無慈悲な末路も本作の見所です。
それにギンガマン側が感情移入することなど一切なく、生きるか死ぬか、死んでしまえば所詮それまでというスタンスが徹底されているからこそ悪は悪の組織たり得ます。
中途半端に馴れ合って生き延びる悪なんて必要ありません、悪には悪に相応しい生き方、ヒーローにはヒーローに相応しい生き方があるのです。

宇宙海賊バルバンにとってのギンガマンとの戦いとは?

さて、ここからはちょっと視点を変えた応用編として、ではそんな宇宙海賊バルバンにとってのギンガマンとの戦いとはどんなものだったのでしょうか?
これはなかなか普段語られないことだと思いますし、私もついついヒーロー側であるギンガマンサイドで見てしまうので見逃しがちなことだと思います。
改めて、バルバンにとっての悪としての美学がどう描かれていたのかを見ていきましょう。

積み重なる三千年の恨み節

まずギンガマンとバルバンの戦いとは単なる星の生存を賭けた戦いというだけではなく、三千年前から続く宿命の戦士同士の戦いという時間の積み重ねがあるのです。
ゼイハブが最初に「三千年の憂さ晴らし」と言っているように、昔から続いた戦いが現代にまた復活するというものであり、それが物語に異様な重厚感を与えています。
もちろん単純に「過去の因縁を引きずった戦い」というだけなら「デンジマン」を始め他にいくらでもありますが、それがきちんと脚本にまで活かされているのは本作くらいでしょう。
ギンガマンにとっては愛すべき星を守る戦いですが、バルバンにとっては三千年前から続く星の命の略奪行為の一環でしかありません。

ただ、三千年という時間の経過はお互いのバックボーンをより強固なものとし、とんでもなく熟成されたものとして現代に反映されているのです。
バルバンが戦うのはとんでもない手強さを持っていた星獣剣の戦士たちの子孫ですが、彼らを厄介だと思っているのは何と言っても星の守り神である「星獣」にあります。
彼らを蹴散らさないことには星を喰らうことはできないわけであり、その為ならどんな卑劣な行為だって平然として行うようなならず者たちです。
「ONE PIECE」の麦わらの一味の存在で海賊が義賊みたいに描かれていますが、あちらと違ってこちらは完全な「悪党」としての海賊として描かれています。

善悪を超越した「星」を巡る聖戦

従来の悪の組織であれば、地球征服や植民地支配によって覇権を握るという程度で済むかもしれませんが、バルバンは決して覇権を握りたいわけではありません。
彼らはもっと直接的かつ物欲的な「星の命」そのものが欲しいのであり、それを宝石に変えて宇宙を荒し回る略奪行為にこそ快楽を見出す者達です。
その為なら身内も平気で切り捨てるし、ずっと乗りこなしてきた船である魔獣ダイタニクスをあっさり捨てて新しい魔獣へ乗り換えてしまうことも厭いません。
だから単純な勧善懲悪というか善悪という概念すら超越した問答無用の聖戦・デスマッチがギンガマンとバルバンの戦いの本質だといえます。

ギンガマンは一貫して「バルバン」という呼称でしか彼らのことを呼びませんが(例外はハヤテとシェリンダ)、それは相互理解不能な戦いであることの現れです。
星を守りたい者と星を喰らい宝石にしたい者というシンプルでプリミティブな、しかしだからこそ根底の部分で相容れない思想がぶつかり合う聖戦だといえます。
そしてそれは「実はギンガマンの方が悪者でした」とか「バルバン側にもそうせざるを得ない理由があったんです」といった下手なポストモダニズムに陥ることはありません
お互いどちらかが滅ぶ以外にない究極の正義と悪の相克、それこそがあの戦いに込められた本質であり、「戦う理由」をこれ以上ないほどに突き詰めた結果でしょう。

ギンガマンが戦いのプロとして選ばれる理由も伊達じゃない

このように見ていくと、なぜ伝説の戦士ギンガマンが戦いのプロとして選ばれ戦うことになるのか、その理由づけも納得できるのではないでしょうか。
将来への可能性がある正義感の強い等身大の若者たちなどというありがちな従来のヒーロー像ではこの戦いで勝ち抜くことなどできません。
星の運命を賭けた聖戦に勝ち抜く為には「星を守る」ことを単なるお題目や理念に留めず、哲学として有言実行できるヒーローが必要となります。
超常的な星から借り受けし力を己の内に取り込んで使いこなす戦闘センス、時に冷静すぎるほどの分析力と現実を直視する洞察力が必要です。

更には土壇場に追い込まれて「雄叫び」という形で爆発する圧倒的な闘争本能、そしてそれらを理性・知性で抑制し正義として昇華し使いこなす心の強さまで様々な要素が必要です。
単にカッコいいから、強いから選ばれるのでも、また純粋な正義感があるから選ばれるのでもなく、戦士として必要な要諦を全て詰め込み圧縮しています
それこそが正に「ギンガマン!それは勇気ある者のみに許された、名誉ある銀河戦士の称号である」というナレーションに込められた作り手の想いではないでしょうか。
それを「星を守る」という従来の作品がテーマとして唱えてきたものに内実のある形で徹底的に詰めた結果であり、バルバンに打ち勝つには徹底した純粋培養の戦闘民族でなければなりません。

宇宙海賊バルバンこそスーパー戦隊シリーズにおける至高の悪役!

まとめに入りますが、私が未だに『星獣戦隊ギンガマン』を歴代最高傑作と思う理由の1つが宇宙海賊バルバンの「悪」としての魅力にあるからだというのを今回改めて言語化しました。
それと同時に、昨今のスーパー戦隊シリーズをはじめ様々なヒーロー作品で魅力的な悪役が不在であることの理由も逆にわかった気がします。
たとえ時代がどうあれ、ポストモダニズムが蔓延ったとて、どんな時代も変わらず純然たる普遍的な「悪」というものは存在するものです。
しかし、「悪」とは何故に「悪」なのかを徹底的に詰めて考えていない作り手の思考力や詰めの甘さ故に、近年の悪役は到底「悪」なんていえない半端ものばかりじゃないでしょうか。

はっきりと断言します、宇宙海賊バルバンこそスーパー戦隊シリーズにおける至高の悪役です!


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