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粗忽長屋(古今亭志ん生の落語)


あけましておめでとうございます♪ 令和二年の年が明けました。

私の家では93歳になる母親が、これまでずっとシャキンとまっすぐに伸びていた誇らしい背骨を痛めてからというもの――昨初冬、4段ある小階段から落ちたのでした――骨折はなかったものの、以来めっきり背中が丸くなり、足もともどことなく覚束なくなって来て、昨今は夜寝るまえになり、よちよち床に就くころには、自分でもすっかり気後れするらしく、「あーもうおいらだめだナ…」なぞと弱音を吐くようになりました。

そこで今朝の元旦から、庭のなかだけでいいから――坂のない道といえばそれくらいしかありません笑)――「手を引いてあげるから15分くらいは一緒にぐるぐる散歩しよう」ということになり、兄も手伝ってくれて引っ張りだし笑)、実行してはみたのですが、いやあー寒い寒い!すぐに玄関まで戻ってきてしまいました…。

昔に比べれば八ヶ岳おろしも生暖かく、ずいぶんとおだやかな冬にはなったものの、やはり年寄りの身にはこの寒さはこたえます。母親専用の防寒服を急遽買うことにしました。

落語と歌舞伎好きな母親。クラシック音楽も大好きなのでニューイヤーコンサートも聞けますので、それでも何やかや、お正月のうちはなにかと楽しく過ごせるのではないでしょうか。

思えば母親が最初に高血圧になり救急で運ばれ病院への入院「初体験」をしたのが2003年頃…。退院してからはしばらくふたりで、和室に寝転がり、のったくたと天国的な幸い感あふれる古今亭志ん生や、しゃきっと小粋でリズミカルな志ん朝の落語をよく聞いたものでしたが、今日はそんなお正月気分で、昔書いた落語についての記事を転記しておきます♡

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2010.12.02 Thursday | category:雑記-表現
【2004年12月11日にHPに記載したものを、志ん生の台詞回しなどをじっさいに近い形になおし、一部変更付加してblog掲載】


 死体とは<他者>の物なのだ。———サルトル『家の馬鹿息子』

不眠症、中途覚醒で夜中目覚める癖のある私には、志ん生の落語が手放せない。もちろん昼間も時おりリラクゼーションの為に聞いている。名人落語でポンポンポンと切れもよくテンポも速い落語も楽しいが、私の場合それでは余計に神経が冴えてしまうので、やはり志ん生の、のほほんと幾らかいい加減な語り口調が、無性に癒される。なにより人情の機微が細かく、滑稽な中にも昔の人の微笑ましさがにじみ出ていて愉しい。 また「まくら」も含め、落語の噺の空間自体が、現代生活の、時間がありさえすれば仕事・仕事、空き時間にも勉強、といった余裕の無さとはおよそうらはらに、「ついでに生きてる」ような人間をも社会が受け容れ、ほのぼのと支えてやっているような空気も背後に流れているのだが、それが志ん生自身の放埒で滑舌のわるい、天然無垢なしゃべりとひとつになると、もうなんとも身体の底から癒される。

CDで聞いているのだが、彼ひとりの声の展開だけで、まるで古い映画かナマの人間同士のやりとりでも見ているように情景が思い浮かぶのがいい。

夫婦ならではな、丁々発止の会話が何とも云えぬ「火焔太鼓」に「替り目」、滑稽な中にも太鼓持ちの哀愁が漂う「鰻の幇間」、一人で何役もこなす「五人廻し」「三枚起請」「文違い」、晩年の志ん生の名盤「らくだ」、等々お気に入りの噺はたくさんあるが、それはまた別の機会に記すとして、今日は噺のテーマそのものが一寸風変わりで可笑しいなぁと思うひとつに就て、記したい。

「粗忽長屋」。或る長屋のそそっかしい仲間のひとりが浅草にお参りの帰り、人混みに合う。大通りにむらがる野次馬連中のなかを割ってはいり、野タレ死んでいる見知らぬ誰かの死体の所までたどり着くと、<行き倒れ>なる言葉もろくろく知らぬその登場人物は、死体を自分の相棒のだと思い込み、長屋まで慌てて戻って、引き取りに「本人を」連れて戻ってくる、という馬鹿げた噺である。

「死骸の本人を知っている。相棒に朝会った時は風邪をひいていたが、浅草に出かけたんだ。それが最後になっちまった」と説くと、とりまきの一人に「それはお前さん違う。お前さんは、今朝、相棒にあったんだろう?このひと(死体)は夕べっからここにあるんだ」と言われても「あの慌てものめ。ここで夕べ倒れて、死んだのを忘れて(長屋へ)帰ってきた」んだなどと呆れ返ってみせ、「死体の本人を連れてくる」と、取り囲んでいる人々に向かって言う。「この人の言ってるこたぁ訳がわからねえ」と言いかえされる程、尚更ムキになって自分の正しさを証してみせようという気になる。そして長屋へ帰ると相棒を説得しにかかる。 相棒も相棒で、「自分の死体くれえ、てめえで始末しなくてどうする」という理屈に、「あそりゃそうだ!」と思い立ち、半ば首を傾げながらも結局人混みにまで連れられやって来て、死骸をしょいこむという噺である。

最初から最後まで失笑もののストーリーだが、聞いている内に、死というものの中の「在・不在」、自分(とされるもの)を見ている{自分}に気づきにくいという自己認識、自己-他者感覚の一寸した落とし穴、そうしたものがどことなく禅問答を聞いているような気もするし、やや現代哲学版と化したデカルトのコギトなどもふと思い浮かんだりして何か愉快なのである。

この、噺の端々に出てくる(死の)本人、当人という言葉には、何やら無性に惹きつけられて仕方がない。大学ノートの最終章にも記したのだが、私の大学時代の聖歌隊の親友が亡くなった時、亡くなるって何?と、葬儀中に何度も自問したのを覚えている。彼女自身のお葬式なのに、私たちと、ここに居る方々は皆、彼女のために集まっているのに、その主人公自身は、式の間ぢゅう(そしてそれ以後もなのだが)けして姿を現さないというあの何とも云えぬ、はぐらかされたような不在の感覚に、嗚咽する自分の声を聞きながらもずっと、憑かれていた。
死とは、死者とは、死を捉えるとは、何なのだろうか。群衆であふれかえる中、棺に直面させられていても、身近な者なだけに納得が行かないと、死とその本人とを一つに結びつけられぬまま、長い間が過ごされてしまうのである。

だがこの噺は、いわばその逆を突いており、見知らぬ人間の死体を、相棒「の」だ、と思い込む。それは相棒『だ』、と言うよりもむしろ相棒『の死体』だと思い込む、といった風である。こんなストーリーだ。以下、できるだけ志ん生の台詞回しを忠実に生かした形で紹介しつつ、つらつら思うことを綴ってみたい。

(放送1956年3/3、NHKラジオ? しゃべり出し【エエ、おなじみ様ばかりでございまして、落語のほうは…】CD/日本音楽教育センターOCD 43006)

「そこに立ってる人!何があんの中に?」(押し合いへし合い立ってる人びとにも解らない)
「前に出なきゃね。」(人の股をくぐって先頭に出る。)
「おまえさん、なんでここへ入って来たの?」(問われ、見せ物かと思うが、説明をうけ、何とか<行き倒れ>があると解る)
「おまえさん行き倒れ知らないの?…おまえさんの前に、あ、あるだろうよ!」
「前に?ああ、よく寝てますね」
「寝てんじゃないの。死んでんの」(人がどかない中、むりに死人の顔を見たがり、覗いてみる)
「ずいぶん汚いねぁどぅも…おや。ちょっと待っておくんなはいよ、どっかで見たような野郎ですから」
「おお見たんならいいね。え、手がかりンなっていい。よく見ておくれ」
「よく見ます。あ。そうだ、そうだ!おぅっ。どしたどした、やぃっ。起きろ!」
「起きやしないよ。死んでんだから」
「てめぇ、、ねぇ兄弟分ですよ。ね、お前と俺ぁ生まれるときには別々だけども、死ぬときには別々だと…そういうことを言い合った仲ですよ。その兄弟分がこんなんなっちゃって、見てられませんあたしぁ。なさけねぇことになった-ことんなったなおめえは。え、どうもよわっちゃったなぁー。えぇ…今しょうがありませんから、このぉ…倒れてるやつをーですねぇ、ここへ連れて来ますからぁ。ひとつぅ、そいでぇ、当人に死骸を渡してやっつくださいな」
「……その人の、親類の人かい?」
「親類の人じゃねぇんだぇ。本人を、此処ぃ連れて来てやるから!えぇ。もぅ…変なんだよ。あぁもぅこの野郎はそそっかしい野郎で。ケツが痒いって人のケツ痒いたりする野郎なんだから。だから、今朝ね、コイツが変な顔してぃやがるから、てめぇどうしたんだ?え?ったら、風邪らしいってぇーから、風邪は気をつけないといけねえぞ。風邪てぇやつはひどくなってくると大風邪ンなっちゃうから。大風邪です。大風邪で倒れたんですよ…倒れてる野郎なんですから」
「それぁ、、お前さんちがう!」
「どしてちがうんで?」
「この人ぁ夕べ倒れたんだから…お前さんは、その、兄弟分てのに今朝、会ったんだろ?んじゃしょうがないじゃねぇか、この人は夕べ此処ぃ来て倒れたんだから」
「それぁ夕べ、浅草ぇ行ってくるぜって、威勢よく、ぅー之がこの世の、別れとなるとは、ゆめつゆ知らずに出かけたんですょこいつは。でぇ、帰りにトーンと倒れやがったんだ。倒れておいてですね、コン畜生そそっかしいから、倒れたのを忘れてかいって来ちゃった…ね。だから実に弱るんですよこの野郎には。ちょいと、本人連れて来ますから」
「おいおいおい、、おい!」…

――こうして、あわてて引き留める声をあとに、群衆を離れ、帰り道――


「やぁぁどうも驚いたこれや。俺が通りかかったからいいが、大変なことになっちゃったなぁどうも。しょうがねぇなぁ……(家でくつろいでいる相棒を見て)あんなことして煙草吸ってぃやがって…あぁいう野郎なんだからねぇ…おぅっ!おうっ!!」
「なんだぇぃ?――へへへ。また、そそっかしいー事ぉすると、承知しねぇぞ」
「何言ってやんでぇ、てめえがそそっかしいんでぇ」
「下駄履いて上がって来やがって。そそっかしいのはやめろ!」
「てめぇは。そんなそそっかしさと、…そそっかしさが違うんだ!…今おれが言うことを聞いてみろ、てめぇなんぞぁ。もぅ、ワァーーーッと、泣くことんなるから。え?人というものは覚悟が肝心だよ。いいか?明日あると思う心のカッパの屁ってこった…」
「どしたの?」
「どしたってもぅ、おらぁねぇ…(と言って顛末を話し出す)大勢人が立ってやんのよぉ…艱難辛苦いかばかりかって…前のほうに出てった、(ほぅ。)するってぇとおめえ、…行き倒れだ」
「へぇーー!…(行き倒れの意味を説明される)」
「死んじゃってやんのそいつがよぉ」
「へぇーーぇ!?で、そいつをてめぇ、眺めていたのか?」
「居たよぉー…こうやって見てたら、きたねぇツラしてたんだけども、、『面影』てぇものはしょうがないもんだ。見てるうちに…あぁ!こいつぁ、、兄弟分だぁーっ!…おめぇだ」
「へ?……おれが?」
「うん。おめぇなんだょ」
「…ほぉぉ。倒れてた?」
「倒れてた。どうだ?驚いたろ?」
「どして倒れた?」
「あーどして倒れたか知らねぇ。これぁ俺の、兄弟分だぁーって、おらそう言ってやったらね、向こうじゃホントにしやがんねぇ。そんなこと、あなた嘘でしょぅと、いうような顔してやがったから、よし!…そぃじゃ今本人連れてきてやろうって」
「…本人て?誰。だれの本人だ?」
「おめぇをよ。な?…むこうのやつもね、<本人>て言葉を聞きやがってね、もう、何にも口が効けなくなりやがった」
「ほぅ!」
「…こっちの潔白をよく向こうに解らせてやんねぇと…ざまぁ見やがれてぇんだ今本人連れて来て赤っ恥かかしてやるからって。おれぁ飛んできたんだから…おめぇこれから行って、これぁ私の死骸ですよって。おめぇが、言わなきゃダメだよ?」
「これがアタシの死骸ですよって、俺が向こう行って、い、言うのかぃ?」
「そう」
「じゃ俺がぁー…死んでるぅー…死んでるようだな?」
「死んでるようだじゃない、てめぇ死んでんだよ!」
「…だって死んでるっておめぇ何じゃねえか、ん~俺死んでるぅような心持ちンなってねぇじゃねえか」
「死んでるような心持ちって、てめぇ知ってるかよ?…死んでることなんてものはな、もぅ死んじゃってぇーたってぇも解るもんじゃねぇんだぞほんとに。てめぇが今朝寒気がするって言ってた時に、もぅてめぇは、死んでたんだ。どうだ?」
「はぁーー!んじゃぁー…そういう、おらぁ事ンなって倒れてたのか…。おめぇ、…見たんだな?」
「見たんだよ。…俺が其処を通りかかったからいいけども、通りかからなきゃてめぇは、、今頃何処へなに、行ってるかわかんねぇぞほんとに。どっか流されちゃうからもう……てめぇの死体、てめぇで始末しなきゃ、しょうがねぇじゃねーか!」
「…あー、それぁそうだい!」


だから俺と一緒に来い、と相棒を現場まで連れ出す。<行き倒れの当人を連れて来た>と言って、ちょいとちょいとと人混みをかき分けかき分け、行き倒れの傍に着く。


「本人連れてきたんだから。ね?で、本人に死骸渡してやっつくださいな」
「――あにさん?(さっきも話しをしたひとりが訊く)」
「あにさんじゃない本人だよ。ここに居ますよ!…ここに居ますよ見てごらんなさい本人だから」…(略)…
「へへぇ、こんちわ!」
「お前さんは何なの?」
「…あたし。あたしが、倒れたんです。えぇ倒れたのを、我を忘れて、家ぃかいって来た。そいで今、兄弟分にお前があすこに倒れてるぞって言われた時の、あたしの驚きというもなぁ、もぅ、悲しかったでしたよ。だけどもしょうがないですよ。そうなっちゃったもなぁ。へぇ。せめて死骸だけでも受けとってかなゃぁ、あっしぁ、すいませんからね、へ…自分の死骸に対して、申し訳がない。どうか死骸を渡してくださいよ?死骸は。…ね?あなたぁ、渡さないてのかい?渡さなきゃぁあたしゃぁ出るとこへ出て取るよ。自分のものぉ自分が取るの、何がわるい?なぁおい?」
「そうだともー。おめえのって、かまわねぇから、はやく、出てけ」
「出てくとも!じょうだん言っちゃいけねぇや…んとに、なぁ。おうっ!(と言って死骸を担ぎ始める)さぁ!さぁ俺と一緒に行くんだ。おいっしょ、俺と。きたねぇツラしやがってコン畜生。俺がなぁ、俺がだよ、ンー、俺が…俺がそいってぇ、これが俺なんだね。これぁ俺だね?」
「おまいだよ!」
「俺だね。。はぁ俺だ!」

それから相棒は、この死体を抱きあげながら、さいごにこう言う。

「死んでるのは俺だ、死んでるのは俺だ。死んでるのは俺だけれども、死んでいる俺を、抱いてる俺は、…何処のだれだろうなぁー?」

この失笑もののきめ台詞で、噺は締められる。

粗忽者――。かれは死体(客体=物;res)と、“ 死んだ ” 本人とを同一視しつつ、奇妙に区別してもいる。その区別の仕方が、何とも<分別知>の滑稽味を帯びていて、やや理屈ぽくいうなら認識論とその陥穽、という点からも味わい深い。こんな分かり易い話だから、慌て者の勘違いだといって済まされるが、もう少し高尚な次元では、わりと我々の多くが――教授や学者たち、私自身だって――この種のわなに填っていることがあるやなしや。

おっとりしたこれまた天然ぼけの相棒のほうも、あまり執拗に説得されるのと、死体の顔がじっさい自分に似て居ることから、これは自分(の死体)だと思い込もうと努力する。噺を聞いている間、また眺めている間は、そう思い込めるのだが、実際重い死体を引きずり負うと、その重みを感じている自分の身体に沿った、出自のほうを意識せざるを得ないのである。

昨今、コギトは意識とともにこの身体で実感する我に戻る。此処というものはおそらくそうした発見である。



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