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百姓一揆の話し足りない「空洞がなくなる」〜高校最後の読書感想文〜

 この文を読もうとしている諸氏には、はじめに謝っておかねばならない。なぜなら、この本(岡倉覚三著 茶の本)との出会いが至極まっとうなものではなく、惰民の坩堝「Twitter」から発された一滴だからだ。待った、待ってほしい。ここから先は私の12年間の学生生活において、煮魚の脂のような滋味深いものであること間違いなしの内容だ。ぜひともアミノ酸を感じ取っていただきたい。



 突如発生した新型のウイルスにより、文化的活動、もしくは発表する場が失われたことは、体験している現在である。生きるのに必要のない行為として芸術はカテゴライズされてしまった。街からはムードが消えた。パワーが失われた。
おかしい。私達は、無駄で、空虚で、生活に必要のないものに生かされてきたのではなかったのか。もちろん、今何かことを起こすことは、あってはならない。感染者を増やす手助けをしたとして、罵声と投石の雨あられであろう。坂本慎太郎の詩を引用するならば

”僕の心をあなたは奪い去った 俺は空洞”

そのまま、この数カ月のうちに私達は何かを奪われた。心にポッカリと空いた穴。不謹慎だが私はその穴をフフフフ…と笑った。



 そこに取り出したるはこの「茶の本」である。茶道は全くもって門外漢だったのだが、読んでみるとこれが面白い。
なんと、「空洞」が本質だと書いてあるのだ。

”室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見出すことができるのであって、屋根や壁そのものにはない”

”おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう”

無い状態がなければ、有は生まれない。何かをしたいと思わない。災によって自然と、心が空洞になれていたからこの本に出会えたのだと思う。



 はて、自分に「有」たるものなどあったかしらん、表現ボキャブラリーをガサゴソとやると、私の場合一番に出てくるのは「DJ」としての活動である。DJとは、既存の曲を切れ目のないように繋ぐことで、情報を編集していく表現である。
他の表現と比べて、DJは0から1を生みだすものではなく、
1をいかに自分の解釈、お客さんの解釈によって倍々にしていくか、できるかが醍醐味なのである。

これは茶道にも共通している。
お茶を出すだけでなく、掛物や花、彫刻などで(す)空き家を編集し、その全配合の中に風流を表すのだ。
その全配合があったとしても、客が何を想うかは全て客に委ねられている。つまり、自分と空き家を「空洞」として、相手を招き入れる、この共通性をみとめたとき、私はもっと無邪気にDJをしてもよいかなと考えた。



 プレイリスト、自分の数寄屋を構築する際にいつもモヤモヤと蔓延るのは、「お客さんにウケたい」「自分のかけたい曲をかける」この2つだ。
お客さんにウケることも、自己表現も、DJにとって大事なことだ。他者からのウケを「ハウスの精神」、自己表現を「テクノの精神」とするとこの塩梅は非常に難しく、やりすぎてしまえば、梅干しに酢或いは唐辛子という聴くに堪えない代物となってしまう。
先程までの「空洞」論そのままとするならば、ハウスの精神をフィーチャーすればよかろうと思うが、はて、自分は何者だ。全配合抽出のため注力した、この数寄屋のホストたる者が、空間中に一番いらない存在の無駄カスになっている。
茶道精神の存するところは、無作為がある。無邪気がある。カサカサと音をたてる落ち葉がある。
ウケようとすること即ち作為なのではないだろうか?
リストの曲たちが、互いに作用しあえるよう、ただ手助けするだけで、DJが構築する空間は茶室足り得るのだ。



 人間、切迫した状況になると「ムード」がなくなる。
生き延びるための体制になる。余裕がなくなる、といったほうが直接的だろうか。今私たちは、空っぽになる時間もない。不安や欲求を満たすことの作業で今月も予定がいっぱいだ。しかし、それは「豊か」な時間なのだろうか?
コロナ禍で失われたそれではないのだろうか?
豊かさを注ぎ込むジョウロの本質は空洞にあるのではないだろうか?

もう、わからない。

この時間は、もうどうしようもないものだ。
受け入れてしまえばいい。
そうすれば、佐藤伸治の言葉がとてもしっくりとくるはずだ。

目的は何もしないでいること 
そっと背泳ぎ決めて 浮かんでいたいの 
行動はいつもそのためにおこす 
そっと運命に出会い 運命に笑う 
そっと運命に出会い 運命に笑う

ー著者近影ー

最近の活動:ショウナイユースプロジェクト

12/2追記、学校の賞には引っかかりませんでした、残念!






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