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ある作家の死

 

 

ポケットの携帯電話が、大音量で鳴り出したのは

台所の壁にコンセント用の穴を開け終わった時だった。

 

北海道移住に向け、築50年の家のリフォームを続けているが

作業は思うように捗っていない。

引越しまでは、もう1ヶ月を切っている。

忙しいので無視しようかとも思ったが、

念の為と思って着信を確認すると、

90歳の父、黒田隆が入所している

東京の特別養護老人ホーム(特養)の

ケアマネージャーさんからだった。

 

彼からは、前の週にも電話をいただいていた。

父が高熱を出しているという報告。

コロナではない。

医師によると誤飲による肺炎の可能性が高いそうだ。

「万が一に備え、看取りの方針を事前に決めておく必要があり、

医師と面談が必要な状況」

と言われた。

僕には、どれだけ差し迫った状況なのか

クリアにはイメージできなかった。

北海道が拠点であることを理由に

オンラインでの打ち合わせを希望したが、

「担当医が直接息子さんとお話ししたがっている」とのこと。

これも息子の義務かと、施設側の意向に従い、

医師面談と、父との面会のスケジュールを決め、フライトも予約した。

 

明日には面談だというのに、前日のタイミングで、何の要件か。

嫌な予感がした。

 

 

 

電話に出る。

いつも丁寧で親身なケアマネのトーンが低い。

朝から父の呼吸がとみに弱っており、

正常値は96〜99%という血中酸素濃度が、70%台に落ちている。

彼はできるだけ正確に、数値を含めて状況を伝えてくれた後、

「もしかすると明日では間に合わないかもしれません」

と控えめに付け加えた。

 

格安チケットサイトで予約したフライトは

当日のキャンセルはできない。

会社を辞めて固定収入がなくなった一方で、

リフォームでお金がどんどん出てゆく中、資金繰りは厳しい。

どうしようか迷ったが、

背に腹は変えられないとすぐに空港に向かい、

大枚を叩き、一番早く乗れる便に飛び乗った。

これまであんなに世話になった父に対し、

一瞬でもお金のことを考え、

迷いが生じた自分を恥じる

1時間半のフライトだった。

 

 

 

施設に到着したのは16時半頃だった。

普段は1階のロビーでガラス越しに面談するが、

今回は父の意識が混濁していることもあり、

特別に居住スペースの個室に入れてもらうことができた。

全身を覆うエプロンのような防護服に手袋、

マスクの上からフェイスシールドという完全防備。

体は蒸れるしシールドは曇るが、

父に会うためには仕方ないものと割り切る。

 

ベッドに横たわる父は以前にも増して痩せ細り、

血の気の引いた顔色をしていた。

呼吸は浅い。

それでも半眼の目には微かな光がある。

「父さん、未来雄です!」

と耳元で話しかけると、目を大きく開き、

嬉しそうに「ミィイイー」と発声した。

 

良かった。

間に合ったのだ。

 

父の明確な反応には、ケアマネも看護師も驚いていた。

本来なら面会時間は30分程度なのだが、

わざわざ北海道から駆けつけたことと、

父の衰弱具合を考えてか、2時間の猶予をいただくことができた。

特別な計らいに感謝を述べると、

職員お二人は静かに退室した。

 

 

 

親子水入らずの部屋。

ベッドの隣に準備された丸椅子に座る。

骨と皮ばかりの父の首の根元が

ビクビクと脈打っている。

拍動は、僕よりも余程速い。

父の生命力が十分に残っている証なのか、

弱っているからこその足掻きなのだろうか。

「頑張って」と思わず声をかけようとしたが言葉を飲み込んだ。

半年前の思い出が蘇る。

 

 

 

 

父が腸閉塞を起こし、

カエルのようにパンパンに腹を膨らませて

病院に搬送された時のこと。

 

当時はもう面会に行っても、

あまり会話にはならない状態だったのだが、

急に明確に言葉を発した。

 

「未来雄。

 俺は死にたいんだ。

 毎朝起きて、ベッドに独り。

 死ぬのを待つだけの日々は、辛過ぎる。」

 

切々と死を希う父に、どう答えたものか。

ただ、自分が同じ状況になったことを想像すると、

父の気持ちは分かる気がした。

 

 

 

今の日本は、死ねない社会となっている。

死を忌むものと位置付け、

死の現場を見せないよう、見ないようにし、

少しでも遠ざけ、無理にでも遅くさせようと

努力をしてきた結果と言えよう。

自分で食べることもできず、

下の世話も全て人任せの日々。

人一倍、自立心が強かった父には

耐えられない時間だったに違いない。

 

その他に父には

「鉛筆と消しゴムが欲しい」と懇願した。

きちんとした言葉で交わした、最後の会話だ。

 

 

 

父は作家になるのが夢だった。

若い頃から小説を書き続け、

数々の文学賞に応募しては、ほぼ全滅。

普通なら自分の才能の無さに絶望しそうなものだ。

しかし、父の気炎は潰えることを知らなかった。

80歳を超えても一人暮らしを続けながら

常に何かを書いていた。

会う度に「次は〇〇文学賞を狙いに行くのだ」と熱く語る。

「忙しい、忙しい」が口癖だった。

 

スーパーで買い物の途中で倒れ、

救急車で運ばれてからはずっと施設暮らしだが、

そこでもブルブルと震える手で父は書き続けた。

自費で出版した数冊の本はボロボロになり、

手書きの修正が無数に加えられている。

筆跡はのたうち、僕には読めない。

本人にも読めているのかは疑問だった。

ついぞ、文壇で注目されることのない父だったが、

かのゴッホでさえ、生前に売れた絵は1️枚だけだったとも言われている。

作品を書くことが作家の定義であれば、

父は立派な作家だったと言えよう。

評価されようがされまいが、

書きたいという意欲のままに書き続ける。

迸る文学への情熱と、揺るぎない生き方は、

息子から見ても天晴れだった。

 

 

 

 

 

 

この日、僕ら親子に与えられた貴重な2時間を

どう過ごすべきか。

 

以前父が、

「人間は全て、最後には自分の人生を肯定したい生きものなんだ」

と言っていたのを思い出した僕は、

父との思い出話を語ってみることにした。

 

 

 

僕が子供の頃、父は英語の個人塾を経営し、

近所の子供達に英語を教えていた。

小学校から帰ると、父の前に正座させられ

ひたすら英語のテキストに取り組むことを強いられた。

おかげで英語は得意種目となったが、

友達とは殆ど遊ばせてもらえなかった。

どちらかと言えば、悪い思い出。

 

当時はまだ今ほど一般的でなかった海外旅行が好きだった父は、

たまたま好調だった塾での収入を海外旅行に散財し、

母と私を連れて各国を旅して回った。

これらは、楽しかった思い出。

 

運動が苦手な父だったが、

僕にスポーツを仕込むことには熱心だった。

特に水泳とスキーには力が入っていた。

但し、自分で手本を見せることはできない。

両方とも、頼りは写真入りの教本。

プールやスキー場に私を連れて行っては、

数冊の本を見比べながら、口頭での指導だった。

今僕が、水泳もスキーも楽しむことができているのは

父のおかげだ。

 

クラシックが好きだった父は、

音痴であったにも関わらず第九の合唱団に参加し、

もちろん僕も参加させられた。

当時は嫌々だったが、今は僕も第九が大好きだ。

ドイツ語の歌詞も、ある程度は記憶している。

 

試しに少し歌ってみる。

すると、父も「 アーウー」と声を出し始めたではないか。

それまでの吐息に伴うくぐもった呻きとは明らかに違う。

父は歌っていた。

さらには、徐々に右腕が上がってきた。

指先を握り、タクトを振るように動かしてあげる。

二人だけの、オーケストラ兼合唱団。

一緒に第九を歌うのは、小学生以来だ。

40年以上前の光景が鮮やかに甦ってくる。

父も同じだったのだろうか。

そうだったらいいのに、と思う。

やがて疲れたのか、声は小さくなり、

弱々しい呼吸に戻った。

 

 

 

2時間もあると、思い出話も尽きてくる。

僕が喋るのをやめると、

壁の色と同じような無機質な沈黙が空気を重くしてしまう。

当然だが、自分ばかりが喋っている。

本当は父の話が聞きたいのに。

 

一番聞きたいことは、

死に臨む時の気持ちだった。

一番身近な親だからこそ尋ねられる質問だが、

死が現実味を帯びてくると、逆に聞けなくなっていた。

 

80代前半だったろうか。

父が健康だった頃に

「父さんは死ぬのが怖くはないの?」と聞いた時には、

そうでもない、と答えていた。

身近な人がどんどん他界するので、

死についての先輩が増えてゆくからだそうだ。

僕にとっては、分かったような、分からないような回答だった。

 

この日、もう少しでその時を迎えるであろう父に、

同じことを聞いてみた。

しかし当然ながら、反応は無い。

 

天井を見上げて動かない父の目に、今何が映っているのか。

知りたくてたまらいが、最早その願いが叶うことはない。

 

死とは何か。

生者の全てが知りたい、究極の真理だろう。

しかし、我々が一番知りたいことを、

まさにその瞬間を迎える人に、

それを言葉で伝える術は残されていないのだ。

 

 

 

しばらくすると、咳が始まった。

体力がなく、痰を上手に排出することができない。

喉がゴロゴロと鳴り、いかにも苦しそうだ。

 

別室にいた相談員さんを呼ぶ。

痰の吸引は大きな負担になるらしく、

今の状況ではやめた方がいいとのこと。

仰向けだった体勢を横向きにすると、

呼吸は少し改善した。

 

 

 

退室しなくてはならない時間が迫ってきた。

なぜか、父の右目からうっすらと涙が溢れてきた。

そして突然、少し力を入れ、息を吸い込んだ。

これまでの呼吸と、何かが違っているのを感じた。

次の呼吸までは、30秒ほど空いた。

父は旅立とうとしていた。

1分後、何度か細かく呼吸らしき舌の動きが見えたが、

空気が肺に送られているようには見えなかった。

僕は父の手を握り、

「ありがとう、父さん、ありがとう」と声をかけ続けた。

やがて、動きが完全に止まった。

 

涙が止まらない。

ふと、体の動きは止まっても、耳は聞こえているかもしれない

という気がした。

離れてゆく父の魂に届けと、さっき一緒に歌った第九を歌った。

すると驚いたことに、止まっていた呼吸が蘇り、

父は何度も連続して息をした。

僕が1フレーズを歌い終わる前。

微かな「 アー」という声が、本当に最後の吐息となった。

息子に見つめられ、手を繋いだまま、

父は、歓喜の歌と共に召されていった。

 

 

 

夜の間に、人知れず身罷ってしまったら嫌だな、

と思っていた僕の想いを汲んでくれたのか。

 

人間の死というものを見据えてみたいと思っていた息子への

最後の授業だったのか。

 

父は、

死もひとつの表現であることを教えてくれた。

まるで、死こそが、

最も自分の生き様が滲み出る

最も強い表現である、

と言わんばかりに。

 

父の最期は、あまりに荘厳で、完璧なまでに美しかった。

見守らせてもらった僕の心には、

悲しみよりも、圧倒的に感動と畏敬の念が強く滾っていた。

忌むべき感情は皆無で、

生を全うしたことへの祝福の讃歌が、心の中に響き渡る。

それは黒田隆という一個体の終焉とも言えるが、

それ以上に、新たな旅立ちであることは明白だった。

 

 

 

退室の時間となった。

僕は受付に、父が他界したことを告げにいった。

まずは看護師が聴診器を当て、心音が途絶えたことを確認して医師に連絡。

30分ほどで医師が到着し、死亡確認が行われた。

 

残業中の職員さんたちが

次々に父に声を掛けに来てくれた。

父が皆さんに愛されていたこと、

そして最後に感動をお土産に残していったことを感じた。

 

副所長さんがいらっしゃり、

「親族に看取られて亡くなったのは

この20年で、黒田さんが3人目です」

と教えてくれた。

父はその瞬間を僕に見せてやろうと、呼んでくれたのだろう。

 

 

 

すぐに葬儀社に連絡を取り、段取りを整える。

病院ではない特養に、霊安室は存在しない。

ありがたいことに、遅い時間にもかかわらず、

当日中に遺体は安置所に移動してもらえることが決まった。

 

僕が葬儀の手配をしている間に、

相談員と看護師によって、いわゆるエンゼルケアが行われた。

死後硬直の前に服を脱がせる。

着替えさせる、という意味もあるが、それだけではない。

腹部を押し、直腸から大便を掻き出すのだ。

葬儀の際に、肛門が緩んで便が流出し、

異臭を放ってしまっては

遺族は別れの挨拶に集中できない。

その為に、看護師がきちんと清めの行程を

人知れず行なって下さっている。

作業はカーテンの裏で行われていたが、

電話をしている私も嗅覚でそれと分かった。

手伝おうと中に入ったが、あまりに手際良く的確に行われており、

素人が手を出すものではないと感じた結果、

感謝の言葉をかけながら立ち会わせていただいた。

 

葬儀社に連絡を入れてから1時間強で車が到着し、

父は安置所に運ばれて行った。

それぞれのプロフェッショナルが

それぞれの役割をこなし、

瞬く間にことが進んだ。

 

大変お世話になった相談員さんと看護師さんに

深々と頭を下げ、僕は特養を後にした。

 

 

 

時間は22時過ぎ。

実はこの日、僕の初めての著書に興味を持ってくださった雑誌社から

取材を受けることになっていた。

状況を理解していた編集部の方は、

近くでずっと待機して下さっていた。

「お疲れでしょう?今日はやめておきましょうか?」

と言って下さったが、

「取材はきちんと受けろ」という父の声が聞こえる気がして、

待ち合わせ場所の喫茶店にタクシーで駆けつけ

これまでの狩猟や、今後の夢についてお話しさせていただいた。

 

 

 

帰宅すると、日付は変わっていた。

ようやく一息つく。

父が特養の自室に置いていた遺品を紙袋から出す。

 

最も古いものが、

父が初めて本の形にした作品集「眉片端」。

発行日は1972年12月20日、

発行所は黒田書店となっている。

つまりは当時、本人が営んでいた小さな本屋だ。

住所も電話番号も、見慣れた実家のものだった。

僕が生まれたのが同年の1月21日。

父の初めての著書と僕は、

ほぼ同時に、同じ場所で、

同じ人間によってこの世に生み出された者同士。

妙な親近感を覚えた。

 

 

 

あとがきには、以下のように記されている。

 

「ぼくはいわゆる日記というものをつけていない。

 しかしその事情には通じている。

 ながい間細々と小説を書いてきたが、

 あの甘美な誘惑(怠惰)と戦わなければならない苦しみは

 決して小さくなかった。

 日記はたまたま文学であり得ても、

 文学はそのまま日記ではあり得ないのだからなお更である。

 即ち書いて破りまた書いて破りする時の

 あのみじめな孤独感にどこまで耐え得るのだろうか。

 そしてそれは誰のための作業でもないのだ。

 しかしぼくはこれからもそれを細々と続けて行くだろう。」

 

当時39歳。

私の親になりたての頃、

作家としてやって行けるかの確信もないままに放たれた

瑞々しい決意表明であり、闘争宣言だ。

 

収められた掌編は「10代後半から書き溜めた」とあるので、

父は70余年にわたり、一貫して書き続けたことが読み取れる。

果たしてその途轍もない熱量は、

黒田隆という個体の消滅と共に本当に消え去り得るのだろうか。

 

父の生き様を見て、残された作品を読んで、

僕の腹の底で頭をもたげてくる

得体の知れないこの感情は、なんだ。

 

父は、本当に死んだのだろうか。

 

疲れ果てている筈なのに、眠れない夜を過ごした。

 

 

 

翌日。

 

僕は、

父が好んで使っていたHBの鉛筆と、

原稿用紙20枚を、文房具店で買った。

棺に入れ、遺体と共に荼毘に付すのだ。

 

 

 

 

 

 

父さん、これで旅先でも思う存分に書けるね。

 

僕がそっちに行ったとき、

今度はどんな作品が読めるのだろう。

 

父さんが歓喜の歌を歌っていた瞬間。

どんな景色を見ていたのかも

書いておいてね。

 

楽しみにしています。

 

最高にカッコいい生き様を見せてくれて

本当にありがとうございました。

僕も父さんのように、書き続けたい。

あんなに見事に貫くことができるか分からないけど、

とにかくやってみます。

 

だから、これからも見守っていてね。

 

 

では、良い旅を。

 

 

黒田 隆

1933年3月30日、長崎県佐世保市生まれ。

佐世保北高卒。

早稲田大学(政治経済学部・夜学)卒。

大学在学中、時事新聞文芸賞小説部門二席入選、連載される。

東京オリンピック時、読売新聞日曜版短編小説部門佳作入選。

平成23年度静岡市民文芸小説部門奨励賞入選。

文筆家、英語教室自営、日本語指導ボランティア養成講座講師。

2023年9月6日、90歳没。

 

著作

「眉片端」 黒田書店/1972 (ペンネーム黒田耕道)

「日本語指導ボランティアの本」 新風舎/1995

「唇一枚のくちづけ」 彩図社/2002

「乳首」 日本文芸館/2009

「夢多き「造り字」の世界」 レーヴック/2013

「三保の松原の物語」 静岡新聞社/2014

 

 

 

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