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「あいつはエンジニアじゃないよね」

あいつとは、私のこと。新卒で入った会社で、マネージャが私のことをそう言っているのを耳にしました。

確かに、私は理系でもなければ文学部卒だし、プログラミングとかシステムなどとは縁のない大学生活を送ってきました。でも、SEとしてSIerに入社して、夫の海外赴任に帯同するまで、約8年勤めました。

大学時代の初期は、何となくマスコミとか憧れていたけれど。時代は就職氷河期。大手の出版社が新卒募集を停止していた時代でした。就職活動の厳しさを知った時、転職できるような職種がいいと思い、技術職を選んだのです。

当時、SIerは新人を大量に採用していて、文系でも割と大手に入れました。私は男性社員のお嫁さん候補ぐらいにしか見られていなかったかもしれませんが。それでも何とか、官庁系のシステム開発に3年携わり、その後、外郭団体のシステム開発のプロジェクトに参画します。

そのプロジェクトに参画したことが、私の運命を変えることになりました。

プロジェクトにプロパーは、マネージャ以外に私だけ。協力会社の社員は、リーダと3歳年下の後輩以外は、韓国人と中国人。日本人で唯一のプロパーの担当社員だった私は、システム開発が終わると運用を支援するため、一人で客先に常駐させられました。

システム開発で担当したのは、データベースの構築や構成管理、自社製品の開発標準の作成でした。文系出身でプログラミングの経験がほとんどなかった私は、システム開発では使えないと思われたのでしょう。長所は日本人であることぐらい。今考えてみたら、運用しか使い道がないと思われていたんだろうと思います。
だから、開発が終わると、別のプロジェクトに移ることはなく、開発したシステムの運用に回されました。そして、開発から通算して5年弱、ベンダーとして同じシステムに携わることになります。

タイトルは、その当時のプロジェクトマネージャが、私のことを形容した言葉です。

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当時は孤独でした。客先にいつもベンダーは私一人だけ。
自社に電話しても、他のプロジェクトも抱えている協力会社社員のリーダは、トラブルも他人事で。

その頃、プロジェクト内で唯一の日本人男性である協力会社の社員の後輩には、帰社した時に、よく仕事の相談や、他愛もないお喋りをしていました。
彼は理系でプログラミングができて、開発が担当です。
頼り甲斐があり、癒しのような存在でした。

彼が新人だったプロジェクト開始当初から、ずっと一緒に仕事をしていたので、「いつでも何でも聞いてください」と言ってくれていたのに、経験年数が増えるにつれて、いつの間にか、私は自分ひとりで解決しなくてはいけないと、問題を抱え込むようになっていきました。

私は文系出身で、プログラミングもできないし、外国人の協力会社の社員よりずっと月の単価が高いし、運用しかできないんだから。
もう七年目なんだから、一人で解決しないと。
開発はみんな忙しいんだから、もっと誰の力も借りないで対応できるようにならないと。
周囲の圧力から、自然とそう刷り込まれていきました。

システムで本番障害が起こったら、再現性を確認して、発生の原因を突き止めて、エスカレーションをして、必要があれば、ログを見て、プログラムのソースを読んで。
データベースの値を直接書き換えてでも、プログラム改修を伴わない方法で一次解決しないと。
改修が入ったら、テストやリリース作業で対応が遅れる。
何とかお客様の業務を止めないように。

客先の冷えたサーバールームで一人、ストッキングにヒールを履いてサーバーの前に立ち続け、頭の中が焦りでグチャグチャになりそうなのを、いつも必死で堪えていました。

確かに、私がやっていたのはお客様へのITサービス管理で、ヘルプデスクというか、エンジニアとは少し違ったと思います。
知識や技術が伸びて、問題解決力がついてきても、お客様に運用支援の契約日数を増やしてもらうことができても、エンジニアとして業績に貢献したと評価されることはありません。

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一人で解決できることの幅が広がってきた頃。
5月の気候が良い頃。
天気の良い週末が明けた月曜日。
十数年経っても忘れられない日。
後輩が、突然、会社を無断欠勤しました。

客先にいた私にリーダから珍しく電話があって、いつになく暗い声で後輩から連絡が来ていないかと聞くのです。
会社に来ていないと。
彼は無断欠勤するような人ではありませんでした。
私にも連絡は来ていませんでした。

そのまま連絡がつかず、心配で眠れない一夜を過ごしましたが、
その翌日、彼が亡くなっていたことを知ります。


マネージャからは「旅行中の事故だった」と聞かされたけれど。
信じられなかったけど。
でも、事故だと思いたかったけれど。
半年後、彼の同郷の同期から「実は自死だった」と聞きました。


おそらく彼は心を病んでしまっていたのかなと思います。
私と同じで、孤独だったのかもしれません。
思い出してみたら、彼の様子はいつからか、おかしかったのに。

急にUFOキャッチャーで取ったぬいぐるみを大量にくれたり、会社を辞めてラーメン屋に弟子入りしたいと話してくれた時に、異変に気づいてあげる余裕が私にはありませんでした。

私も本当はもっと頼りたかったし、実際に頼って良かったのではないか。
当時、周囲の無言の圧力やマネージャの言葉に負けて、頼ってもいいと言ってくれた人に頼れなかったことを心底後悔しました。


「あいつはエンジニアじゃないよね」


そう聞いた時に、もっと頑張らなくてはいけない、ではなくて、
もっと頼らなくてはいけないと思えたら。

自分の至らなさを認めて、仲間に頼る事ができたら、
自分の弱さをさらけ出しても、仲間にありがとうと言えたら、
救われた魂があったかもしれません。


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あれから、十数年が経ちましたが、
私は今も、あのプロジェクトで開発したシステムの運用をしています。
それが私の平日の仕事です。

でも、ベンダーとしてではなくて、
当時のお客様だった会社の社員として。
夫の本帰国が決まった頃、会社の幹部の方から採用の打診を受けました。

開発したシステムは、レガシーシステムと揶揄されるほど、仕様が複雑過ぎて、開発に携わった人間でないと理解できないことが多いのです。
マネージャにとって私はエンジニアではなかったけれど、お客様は私をエンジニアとして認めてくれていたのかもしれません。

私は、またあのシステムを運用できることに何となく運命を感じています。

小さな障害が起こる度、システムのプログラムソースを覗くと、コメント欄に後輩の名前を見つけます。
データベースのマスタテーブルのレコード作成者の欄にも、詳細設計書の作成者の欄にも、彼の名前を見つけます。

彼の名前を見る度、
私は自分の弱さを素直に認めて、
誰かに感謝できる人になりたいと、
ならなくてはいけないと、
心の中で、いつもそう誓います。

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