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『Inside/Out ─映像文化とLGBTQ+』を鑑賞して浮かんだ感想と、いくつかの懸念たち

 現在、早稲田大学演劇博物館 2階 企画展示室にて開催中の『Inside/Out ─映像文化とLGBTQ+』を鑑賞してきた。一言で言うと「また宿題が増えたな」という気持ちになる展示であった。むやみに手放せない重たいバトンを渡されて、なんとなく途方に暮れている。本稿では施設の概要や展示内容も含めて、感想をざっと書き残しておく。



早稲田大学演劇博物館

 早稲田大学演劇博物館は1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達したのと、半生を捧げた「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳完成を記念し、各界有志の協賛で早稲田大学構内に設立された。日本国内のみならず世界各地の演劇・映像に関する資料を揃えた、アジアで唯一の「演劇専門総合博物館」。1987年(昭和62年)には新宿区有形文化財にも指定されている。


早稲田大学演劇博物館 2020年度秋季企画展『Inside/Out ─映像文化とLGBTQ+』

 戦後から2020年初めまでの映画やテレビドラマにおけるジェンダーやセクシュアリティの表象に着目し、さまざまな資料をもとにその歴史を振り返る展示。2020年9月28日(月)から2021年1月15日(金)まで開催しており、入場料は無料。無料だよ!

所感

 ここからは感想。館内の写真撮影はNGだったため、文章ベースで。
 展示室は2室。主な展示物はLGBTQ+を題材にした(もしくはそうした読み取りが可能である)作品の台本やポスター、スチール写真、撮影に使用された小道具など。展示室そのものはいずれもこじんまりしているが、展示がみっちりとひしめいているため、「中身がない」という印象は受けない。そしてここが大事なのだが、本展はビジュアルで魅せる展示ではなく、どちらかというと「読ませる」タイプのそれ。資料そのものと同じかそれ以上に、キャプションを読み解く作業が価値を持つ。展示品に紐づくキャプションや図録に収録されている論評から新しい視座を得るという試みが大事になるわけだ。総じて、能動的に情報をつかみ解釈を行うことを要求される。

 マイノリティの歩みは具体的な運動によって推し進められてきたため、こうして「座して学ぶ」ことが果たして正しいのかはわからない。しかし実際の運動と本展は「主体的に何かを掴み、持ち帰る」というベクトルにおいて共鳴している、と感じる。私が訪れたのは休日であったがそこまで人は多くなかったため、比較的じっくりとキャプションに目を通すことができた。嬉しい。逆に、ただ展示を眺めるだけだと「マイノリティを扱った作品って意外とあるな」という第一印象のまま会場を後にしかねない。本展はマイノリティを扱った日本映画を戦後間もないころのものから取り取っているため、こうした感覚に陥ってしまう人もいるかもしれない。そしてこの第一印象こそ、私が後に述べる懸念に繋がっていく。

 図録も販売しており、価格は税込1500円。展示物の掲載に加え、ここでしか読めない論考も充実している。学生が持つバッグへの収納のしやすさも考慮してか、B6サイズで持ち運びも容易。図録と名の付く本としては破格の安さだし、個人的には購入を勧めたい。

見たくなった作品

 展示を見ていて特に気になった作品、および本展のラインナップにはないが頭に浮かんだ作品を挙げていく。前半2作が本展に展示されているもの、後半2作が鑑賞中に脳裏をよぎった作品である。

松本俊夫『薔薇の葬列』(1969)

 プロの役者ではなく実際の「ゲイボーイ」を起用し、同性愛者の愛と憎しみを描いた作品。
 いやもうとにかく主演のピーターがかっけえ。両親からも「若い頃のピーターはマジかっけえ」と言われてきましたが、目の当たりにしてその言葉が確信に変わりました。本編映像が流れていたんですがその妖艶なこと!『オイディプス王』を下敷きにした物語構成ということで、父殺しの物語大好きマンとしてもこれは見なければ!という気持ちです。

渡辺正悟『性別が、ない! インターセックス漫画家のクィアな日々』(2014)

 漫画家・新井祥は男女どちらかで統一される性器や性線、染色体の性別が曖昧、もしくは一致しない疾患であるインターセックス。本作は新井とゲイのアシスタントとの生活や、2人が国内外で出会う性的マイノリティやアライの人々との交流を追ったドキュメンタリー。
 セクシャルマイノリティを扱ったマンガ『性別が、ない!』の作者でもある新井自身が被写体となった作品。まず、インターセックスという概念を初めて知った。「両性具有」ともまた違う性質なのだそう。単純にもっと知りたい。知らない世界が多すぎると痛感させられた出会いだった。

古谷実『ヒメアノ〜ル』(2008〜2010)

 清掃会社で働く岡田進は、コーヒーショップで働く阿部ユカにアタックを続ける先輩社員・安藤勇次を制止していたが、ひょんなことから阿部からの告白を受け交際を始めてしまう。そんなグダグダエピソードの裏では岡田の元同級生・森田が突発的な殺人を繰り返しながら阿部に近づきつつあり……という物語。
 とにもかくにも森田の性的衝動に胸が締め付けられる。首を絞めて人を殺すことでしか性的興奮を得られない森田は苦しむ。人を傷付けることでしか気持ち良くなれない自分は、生きていてはいけないのか?と。欲望は選べない。そんな当たり前の事実がこれほど残酷だとは。

デヴィッド・クローネンバーグ『クラッシュ』(1996)

 CMのプロデューサーであるジェームズはある日、交通事故を起こす。相手方の夫妻のうち夫は死亡、妻のヘレンとジェームズは同じ病院に収容される。夫の死に平然とするヘレンはジェームズと、交通事故に性的快感を覚える「クラッシュ・マニアの会」を結びつけて……という物語らしい。
 こちらも殺人によって性的衝動を得る人物が重要なポジションに位置している。1996年の映画だが、4K無修正版が2021年1月29日(金)より公開されるとのこと。

終わりに(いくつかの懸念たち)

 私がこの展示を巡って、ひとつ気になることがあった。それは、「性的マイノリティを扱った作品って昔からあるじゃん、なんだ、今と変わらんやん」と安堵させてしまわないか、という点だ。キャプションを読めばわかるが、展示された作品の中には直接性的マイノリティをい描いたものでなく「そういう解釈が可能」というレベルのものも含まれる。しかしこうして横断的に作品を並べてしまうと、そうして作品が羅列されている事実自体に安堵し、「今も昔も同じじゃん」という感想を抱く人が出てきかねない。お世辞にも広いとはいえない空間だし事前予約制でもないため、日によっては混み合うこともあろう。そんな状態で十分に情報を読み解く時間もないまま展示だけ追ってしまうと、先に挙げたような安直な感想が出てきかねないな、という懸念を勝手に抱いてしまった。

 また、この展示を見て改めて感じたのは、自分や自分の身の回りの人が不快にならない属性・欲望だけを「マイノリティ」として受け入れる風潮にだけはなってほしくないということ。『ヒメアノ〜ル』の感想部分でも述べたが、欲望は選べない。性的嗜好もそう。不快で不快で仕方のない属性や欲望を持つ相手とも(自分や自分の身の回りに実害が及ばない限り)共に生きていけなければ、真に「多様性」ある社会とは言えないだろう。どんな人の欲望も排斥してはならない。もしそうできないのであれば「多様性」などという言葉を持ち出すべきではない。シンプルに不適切だからだ。

 性的嗜好の実現が難しい『ヒメアノ〜ル』の森田や『クラッシュ』のヘレンのような人物もきっと現実に存在しうる。少なくとも「そんな奴はいない!」なんて声高に言ったりできないことは、この展示を見にくる人なら理解できるだろう。そんな彼ら/彼女らにも何らかの合法的なコミュニティが与えられればいいな、少なくともその属性や欲望自体は許容される、受け入れられる社会になればいいな、と切に願っている。綺麗事かもしれないが、ほんとはみんな綺麗事がいいハズなのだ。とにかく、まだまだ課題は多い。それをまざまざと見せつけられ、一生かけてもこなせるかどうかわからない宿題が乗っかった気分。自分にできることから、後回しにせず取り掛からねばならない、よりよくしていかねばならないと思う。

 ここまで読んでくれて本当にありがたい。最後に単なる予想を一つ。女性の考えを理解するための「モテの道具」としてフェミニズムが重宝される時代が遅かれ早かれ来る(というかもう来てると思う)。だから私のような、ここ1~2年でいっちょまえに「LGBTQ+やフェミニズムに関心あるんです~」といった顔で展示に足を運んだり書籍を読んでそれっぽいアピールをしたり(ここ大事)するシスヘテロ男性こそ、いちばん信用ならない人種であることは強く申し上げておきたい。あまつさえこうした展示を「カルチャー」として消化する私のような人間は、おそらくまだ連帯に値しない。

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