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なぜ、人は「正しさ」のために争うのか 〜「自己愛」で自分を苦しめないために〜

人は長い歴史の中で、「正しさ」のためにずっと争ってきました。しかし、なぜ「正しさ」のために人は、自分の生活や命までかけて争ってしまうのでしょうか。

職場のパワーハラスメントの解決に当たったことがある方はよく御存知ですが、パワーハラスメントの加害者と被害者の話し合い(言い争い)は、はたから見ていると、ひどく無意味に思えます。双方が本気で「わたしの方が正しい(だから、あなたが間違っている、おかしい)」と主張していることはよくわかるのですが、双方の主張する「正しさ」がまったく噛み合う(交わる)ことがないからです。結果として、加害者と被害者が、いくら「自分の方が正しい」と言い合っても、ただお互いの怒りと憎しみを増すばかりなのです。

笑えないコント

昔こんなコント(笑い話)を聞いたことがあります。

A:「なぜ、犬はしっぽを振るんだろう?」
B:「しっぽは犬を振れないからさ。」

笑えないコントです。もし、このコントにおかしみがあるとすれば、Aの問いかけにBが、「うれしいからだろ。」とか、「興奮して、体のどこかを動かしたいのさ。」のように答えず、完全に見方をひっくり返して答えたところにあるでしょう。意表をつく答えではありますが、あまりおもしろみはありません。

人権にかかわる人の争いの姿

ただ、わたしが今、「笑えないコントです」と書いたのは、そういう「おもしろみがない」という意味ではありません。このコントの中に、人権にかかわる人の争いの姿を見ることができるのではないかと感じたからです。

「犬」は、その集団や社会における「強い立場」の人たちを表すと考えてみましょう。すると、「しっぽ」は、「弱い立場」の人たちということになります。そうすると、このコントは次のように読み替える(変奏する)ことができます。

A:「『強い立場』の人たちは、なぜ『弱い立場』の人たちに人権侵害や差別をするのだろう。」
B:「『弱い立場』の人たちは、しようと思ってもできないからさ。」

こうなるとこれはもうコント(笑い話)ではありません。これはわれわれが、どうしても認めたくない「事実」です。そして、この「事実」から、わたしが今までnoteに何度か書いてきた「人権侵害や差別の解決は、『強い立場』の人にしかできない」という結論が出てきます。

「自己愛」は「生きる苦しみ」の源にもなる

人権侵害や差別をするのは、常にその集団や社会における「強い立場」の人たちです。そして、人権侵害や差別が起きるのは、「強い立場」の人たちが、「弱い立場」の人たちが自分たちの思いどおりにならず、自分たちの「自己愛(自分への満足欲求)」が傷つきそうになった時です

「自己愛」は人の「生きる力」の根源ですから、「生きる」ことに当然つきまとうものであり、その意味では「よい」ものでも「わるい」ものでもありません。ただ、「生きる」ことが「よい」ことだという前提に立つなら、どちらかといえば「よい」ものになります。ここで「どちらかといえば」とあえて書くのは、「自己愛」は、それが満たされた時は、その人の「生きる喜び」の源となるのですが、傷つき、満たされなかった時には、「生きる苦しみ」の源となってしまうからです。

人権侵害や差別における加害者の「自己愛」

人権侵害や差別は、「強い立場」の人が、自分の思いどおりにならない「弱い立場」の人を目の前にして、「強い立場」の人の「自己愛(人を思いどおりに動かせる自分への満足欲求)」が傷つき、「生きる苦しみ」の源となりそうになった時に起きます。つまり、「強い立場」の人が、自分の「自己愛」を守るために、自分の力を使って「弱い立場」の人を思いどおりにしようとした時に、人権侵害や差別が起きるのです。(詳しくは、「人権問題は『自己愛』のぶつかりあい」などをご覧いただければ幸いです。)

人権侵害や差別における被害者の「自己愛」

もちろん、「自己愛(自分への満足欲求)」は、「生きる力」の根源ですから、だれの中にもあります。当然、その集団や社会における「弱い立場」の人たちにも「自己愛」はあります。「強い立場」の人たちが、「弱い立場」の人たちを思いどおりに動かそうとする時、「強制や脅しや嫌がらせや排除(これが人権侵害や差別の具体的行動です)」をしてきます。当然、「弱い立場」の人たちはそのような強制や嫌がらせをやめさせようと思います。しかし、それをやめさせるような現実的な「力」は「弱い立場」の人たちにはありません。(それが「弱い」ということです。)そこで、「弱い立場」の人たちは「強い立場」人たちからの強制などに嫌々従うか、「強い立場」の人たちと争うために、「強い立場」の人たちとは違った別の「力」を身につけようとするしかなくなります。

嫌々ながら強制に従うことは、当然、その人の「自己愛」を傷つけます。そして、傷ついた「自己愛」は、その人の中にひたすら「生きる苦しみ」を生み出します。傷ついた「自己愛」は、「わたしはなんのために生きているんだろう」という思いを生み、それは自分自身への責めとなってその人を苦しめるのです。「自己愛」は人の「生きる力」の根源ですから、「自己愛」を傷つけられることは、「生きる意味」、「生きる力」を奪われることです。ここに人権侵害や差別をしてはならない根本的な理由があります。(詳しくは、「高校生のための人権入門(18) なぜ、人権は尊重されなければならないか」などをご覧ください。)

「弱い立場」の人たちが信じる「正しさ」

「強い立場」の人たちと争うために別の「力」を身につけるとは、どうすることでしょうか。「弱い立場」の者同士が結びつき合い、さらに「強い立場」の人たちや「中間的な立場」の人たちの中で、「これではいけない」と自らの「責任」を感じる人たちに支援者となってもらい、数の「力」で「強い立場」の人たちと争うことです。ひとりひとりの力は弱くても、たくさんの小さな力がひとつにまとまれば、それは「強い立場」の人たちにとっては脅威となります。たくさんの人たちがまとまるために用いられるのが、人権尊重とか自由とか平等などという「正しさ」です

「強い立場」の人たちが信じる「正しさ」

「弱い立場」の人たちがかかげる人権尊重などの「正しさ」に対して、「強い立場」の人たちは自分たちが属する集団や組織の暗黙の「きまり」や「伝統」や「ルール」を持ち出します。そして、「弱い立場」の人たちがかかげる人権尊重とか自由とか平等などという「正しさ」を認めたら、今あるこの集団や組織がめちゃめちゃになってしまうという主張をします。これが「強い立場」の人たちが自分たちのあり方を守るためにかかげる「正しさ」です。

「正しさ」は、自分の「自己愛」を守るため


「弱い立場」の人とその支援者が信じる「正しさ」と、「強い立場」の人が信じる「正しさ」は、このようにそれぞれが生まれてくる基盤が違うので、最初に述べたパワーハラスメントでの言い合いのように、「どちらが正しいか」言い争っても、決して噛み合う(交わる)ことがありません。「強い立場」の人が信じる「正しさ」は、今の集団や組織の中で、自分が「(強い立場で)いい思いをしている」ことから生まれてくるものです。逆に、「弱い立場」の人とその支援者が信じる「正しさ」は、今の集団や組織の中で自分や特定の人が「つらい思いをしている(させられている)」ことへの「受け入れがたさ」から、今のあり方への「批判(否定)」として生まれたものです。ここで大事なことは、どちらの側も、自分の「正しさ」がまずあって、そこから相手への批判や攻撃が始まっているのではなく、自分の「自己愛」を守るために、自分にとって役に立つ「正しさ」を「正しい」と信じ、使っているということです。(ただ、とかくわれわれはそのことはすぐに忘れ去り、まず「正しさ」があって、それが「正しい」から、自分はそれにもとづいて行動するのだと思い込んでしまいます。)

パワーハラスメントに限らず、人権トラブルにおけるこの双方の噛み合わない「正しさ」の争いは、当然なんの解決ももたらしません。むしろ、自分の信じる「正しさ」が相手に通じないことで、一層、自分の「自己愛」が傷つき、そのことがさらに相手への憎しみを生み、トラブルは解決不能になっていくのです。

持っている「力」では、相手を動かせないから「正しさ」を使う

以上のことを踏まえて、犬としっぽのコントを、さらに次のように変奏することができます。

A:「『強い立場』の人たちも『弱い立場』の人たちも、なぜ自分の信じる『正しさ』のために争うのだろう。」
B:「どちらも自分の持っている『力』では、相手を動かせないからさ。」

相手を自分の持っている「力」で動かせないから、人は「正しさ」の「力」で相手を動かそうとします。しかし、多くの場合、それは失敗します。失敗した時、「自己愛」はさらに傷つき、恨みや怒りとなって。一層深刻な形で攻撃や排除を生み出します。これが「正しさ」のための争いです。この段階になると、とにかく「間違っている」相手を苦しめることだけが目的になって、そのことのためには大切だった自分の生活や命を傷つけることさえ、自分の信じる「正しさ」の実現(つまり、相手を打ち倒すこと)のためにいとわなくなってしまいます。これが「自己愛の罠(わな)」であり、泥沼になった人権トラブルや、テロや戦争や殺戮で実際に起きていることです。(「自己愛の罠」については、「『自己愛の罠(わな)』について」などをご覧ください。)

なぜ加害者と被害者の言い争いはむなしいか

最初に書いたように、パワーハラスメントの加害者と被害者の話し合い(言い争い)は、はたから見ていると、ひどく無意味な、むなしいものに思えます。双方が本気で「わたしの方が正しい」と主張していることはよくわかるのですが、双方の主張する「正しさ」がまったく噛み合う(交わる)ことがないからです。この二つの「正しさ」が交わらない直接の理由は、もちろん双方の主張することが真逆である(加害者は、自分が信じている「今(まで)の職場のあり方」を維持しようとし、被害者は変えようとする)というところにあります。しかしたぶん、話がまったく交わらない根本的な理由は、双方が信じている「正しさ」の質の違いと共通点にあります。

双方の「正しさ」の質の違いと共通点

人権トラブルにおいて、「強い立場」の人が信じる「正しさ」は、これまでの日々の暮らしにもとづいているために、実はその中身はあいまいで、雑然として、はっきりしない、言葉にならない「正しさ」です。「世の中は、人とはそういうものだ」というのが、その「正しさ」の根拠です。それに対して、「弱い立場」の人とその支援者が信じる「正しさ」は、抽象的で、はっきりした観念で、言葉で明確に示すことができるもの(人権、平等、自由、多様性の尊重等)です。ただそれは、「今ここにはないもの」であるために、言葉としては明確なのに、それが具体的にどういう状態を示しているのかは、実はきわめてあいまいです。(そんなことはないと思われる方は、ご自分がいる職場や学校などにおいて、たとえば「性の多様性の尊重」を実現するとは、具体的にどういう状態にすることなのかを考えてみてください。そして、それがほかの人の考える「性の多様性の尊重」の具体的な形と、どれくらい一致するか話してみてください。理念は一致していても、実際に形にする段階になると、その具体像はきわめてあいまいで、さまざまな考え方があることがわかります。このことについては、「なぜ、学校の「いじめ」が解決しなかったのか」などもご覧いただけると幸いです。)

双方が信じる「正しさ」の質は、これほど違い、対照的であるにも関わらず、どちらの「正しさ」もそれぞれ違った意味できわめて「あいまい」なので、議論が噛み合うはずはないのです。パワーハラスメントの解決に当たる人(第三者)から見れば、そもそも双方が「どちらの考えが正しいか」ということを言い争っていること自体が、むなしく思えます。第三者からすれば、どちらの言っていることも、現実にはきわめて「非現実的」なこと、つまり無意味に思えます。第三者からすれば、どっちが「正しいか」なんてもうどうでもいいから、「とにかく仲良くやってくれよ」という思いがこみ上げてきます

人権侵害や差別が、なかなかなくならない理由

ここで少し観点を変えます。人権問題を考える場合、当事者でない立場から見れば、論理的には「弱い立場」の人とその支援者が信じる「正しさ(人権の尊重等)」の方が説得力があって、より「正しい」ように思えます。それでは、そのような方向に職場や社会は変わっていくかというと、そんなことはありません。実際に当事者が所属する職場や組織で力を持っているのは、「強い立場」の人が信じる「正しさ」に近い考え方だからです。その理由はいくつかあります。ひとつには、現在ある集団や組織を牛耳っているのは、「強い立場」の人であり、実際にはその人たちの都合ですべては決められ、動いていくからです。さらには、「強い立場」ではない人たち(「中間的な立場」また「弱い立場」の人たち)の中にも、「強い立場」の人(たとえば、経営者など)が信じる「正しさ」を自分の「正しさ」としている人たちが、相当数いるからです。これらが、人権侵害や差別をなくそうとしても、実際には、なかなかなくならない理由になります。

もちろん、実際にはパワーハラスメントの加害者が主張する「この職場では、こうするのがあたり前なんだ(正しいんだ)」という主張は、多くの場合、極端になりがちで、同僚や経営者の考えとは違っていることが多いものです。しかし、加害者のやっていること(パワーハラスメント)については「あれはやりすぎだ」と思いつつ、一方で加害者の考え方自体には共感している人は、意外と多いものです。

「あのブドウは酸っぱい」というごまかし

誤解のないように申し上げておきますが、わたしがここで言いたいことは、人間はだれでも人をいじめたり差別したりする心を持っているということではありません。そのような主張は、「強い立場」の人が信じる「正しさ」を自分の「正しさ」とすることを(無意識であれ)選んでいる人たちが、社会や人を変えられない自分の「みじめさ」を隠すために使う言い訳、ごまかしです。「弱い立場」の人が苦しんでいる姿を見て、自分の中にわき起こる「責任(このままではいけない)」から逃れるためのずる賢い理屈なのです。これは、イソップの寓話の中でキツネが言う「あのブドウは酸っぱい」というセリフとまったく同じものです。

「自己愛」を括弧に入れることの大切さ

わたしがここで言いたいことは、互いの「自己愛」を傷つけるようなトラブルは避けた方がよいのではないかということです。避けることが無理であれば、できるだけ自分と相手の「自己愛」の傷が深くならないようにしようということです。そのためには、まず自分の「自己愛」を括弧に入れる(「自己愛」の動きに完全には支配されない)必要があります

その方法はいろいろあります。たとえば今回書いたような、「『自己愛』が、相手への怒りや憎しみを生んでいる」ということを知ることもその役に立ちます。「今のわたしはこれでいい」と自分に言ってみることも役に立ちます。(「今のわたしはこれでいい」「今のあなたはそれでいい」ということについては、「『よい/わるい』で、人や自分を裁かない」などをご覧いただければ幸いです。)

そうやって、自分の「自己愛」を少しずつ括弧に入れることができれば、自分の「正しさ」のために、相手と争ったり、相手を打ち倒したりしなければならないことはなくなっていきますし、「自己愛」が「生きる苦しみ」を生んでしまうことも減ります。自分の「自己愛」を括弧に入れることが人権トラブル解決への一歩だと思うのです。

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