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「多様性の尊重」から「生きることへの尊重」へ(その1)

前々回前回と、「多様性の尊重」で現実に起きている人権問題を解決することは、きわめてむずかしいということを書いてきました。にも関わらず、現在、「多様性の尊重」という考え方が、これほど日本で広く重要視されているのは、なぜでしょうか。


「多様性の尊重」は受け入れやすい

「人権の尊重」と「多様性の尊重」とをくらべてみましょう。一般に日本では、たぶん「多様性の尊重」の方が、「人権の尊重」よりも受け入れやすいのだろうと思います。その理由はいくつか考えられます。

日本人は権利の主張を嫌う

「人権」とは、たとえば「(すべての)人が人として生きる権利」と言い換えることができると思いますが、日本人は一般に「権利(の主張)」ということに、抵抗感や違和感を持つ傾向があります。たとえば、ふだんから子どもは大切にしたいと思っていても、いざ「子どもの権利」として、「子どもが意見を表明する権利」とか「子どもが参加する権利」を主張する人の話を聞くと、抵抗感や違和感を持つおとなは今でも多いと思います。子どもに必要なのは権利(の保障)ではない、おとなの愛情だろうなどという思うおとなも多いかもしれません。

「違い」を認識すればそれでいいという錯覚

また、「多様性の尊重」であれば、その人と自分の「違い」を認識すればいいのであって、それ以上のことは必要ないという思い込みも可能です。つまり、自分と違う特性を持った人がいる事実を認めれば、それで終わりと思い込むことも可能です。これが「人権の尊重」であれば、自分と違う特性を持つ人にどう対応するかということが、問題になります。しかし、「多様性の尊重」であれば、「違い」を認識した(「そういう人も世の中にはいる。わたしの近くにはいないけど」と思う)ところで終わることが可能です。前々回に取り上げた、パートナーシップ制度は容認するけれど、「同性婚の法制化」には反対という日本人の態度がここから生まれてきます。

「多様性の尊重」がカバーする人権問題は限られている

さらに、「多様性の尊重」は、性的少数者の人権や外国人の人権について語る場合に持ち出されることが多く、逆に子どもの人権や高齢者の人権、犯罪被害者の人権、部落差別などについて持ち出されることはあまりありません。つまり、「多様性の尊重」がカバーする人権問題が少ない分だけ、受け入れやすいということも考えられます。

中途半端な「多様性の尊重」は、「自己欺瞞」を生む

それでも、「多様性の尊重」自体はよいことなのだから、お前のようにいろいろケチをつける必要はないじゃないかと思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、前々回書いたように、本来の意味での「多様性の尊重」、つまり「相手が自分と違う特性を持つことを認め、さらに相手を自分と同じ(同等、対等の)人として扱う」という意味で、「多様性の尊重」を重んじるのでなければ、そこまでいかない中途半端な「多様性の尊重」は、むしろ「自己欺瞞(自分で自分をだましていながら、それに気づかないこと)」を生み出す可能性があります。

「多様性の尊重」、「人権の尊重」の本来の目的

本来の意味での「多様性の尊重」、「人権の尊重」は、「相手が自分と違う特性を持つことを認め、さらに相手を自分と同じ(同等、対等の)人として扱う」ということだと、書きました。この前半部分「相手が自分と違う特性を持つことを認める」だけで話を終わらせて、それで「多様性を認めている自分は『よい』、自分は『正しい』」と思ってしまうことは、結果として「多様性の尊重」、「人権の尊重」の本来の目的である、「(どんな)相手も自分と同じ(同等、対等の)人として扱う」の実現を妨げてしまいます。ひいては、「違いを認めているんだから、それでいいじゃないいか。それ以上のことをわたし(たち)に求めるのは、あなた(たち)のわがままだ、勝手だ」という感情さえ生み出す恐れがあります。これは重大な問題です。

「多様性の尊重」、「人権の尊重」の落とし穴

たとえば、子どもに対して、「子どもはおとなと違う。それはわかっている。だから、子どもは子どもらしくするべきなんだ」とか、女性に対して、「女性は男性と違う。それはわかっている。だから女性は女性らしくするべきなんだ」とか、日本にいる外国人に対して、「外国人は日本人とマナーや習慣や信じることも、ものの感じ方も違う。それはわかっている。だから、日本に来たら外国人は(自分たちと違う)日本人に迷惑をかけないようにするのがあたり前だ」という、およそ、「多様性の尊重」「人権の尊重」の本来の目的とは真逆の方向に話が行ってしまう可能性もあるのです。

そんな真逆のことを言いながら、人は「自分は多様性を尊重している、人権を尊重している人間だ」と思い込むこともできるのです。あなたの周りにもそういう人は結構いるのではないでしょうか。また、こういうことを書いているわたしの中にもそういう要素はあります。これが、「多様性の尊重」、「人権の尊重」の落とし穴です。これは、自己欺瞞であり、わたしの言葉で言えば、自分の「責任」の放棄以外のなにものでもありません

ウソの「多様性の尊重」、ウソの「人権の尊重」と戦う

「多様性の尊重」、「人権の尊重」を進めるということは、実はこのような自分の周りや自分の中にある自己欺瞞(ウソの「多様性の尊重」、ウソの「人権の尊重」)や、自己の「責任」の放棄と戦うことではないかとこのごろ思うようになりました。最近、noteに「多様性の尊重」に関する文章を何度か書いているのも、そのためです。

最後に

実は「多様性の尊重」という考え方だけでなく、「人権の尊重」という考え方であっても、実際に起きている人権問題を解決することは、きわめてむずかしいのが現実です。ではどうすればいいのか。わたしは、「多様性の尊重」「人権の尊重」を、「生きることへの尊重」に切り替える必要があるのではないかと考えています。次回、このことについて書きたいと思っています。

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