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なぜ、法律はこれほど無力なのか

現代のわれわれが人の行為や生き方などについて、明確な意味での「正しさ」を考える時、その考えるベースになるのは法(法律)です。しかし、実際に人権侵害や差別などの人権問題が起きた時、法(法律)の「正しさ」にもとづいて、人権侵害や差別をした人(加害者)を反省させたり、その言動を変えさせたりすることは、まずできません。そんな時、われわれは「人権侵害や差別をなくすこともできない法律なんて、一体、なんのための法律なんだろう」と思います。この無力な法(法律)への落胆は、どこからくるのでしょうか。

法(法律)の「正しさ」への思い込み

人権侵害や差別という問題が起きた時、われわれは、人権の尊重や人間の平等を明記した法(法律)を加害者に示し、法(法律)の「正しさ」で加害者に自分の「間違い」を自覚させて、人権問題を解決しよう(解決できるはずだ)と思います。そのように考える根底には、法(法律)には、その社会(集団)における「正しさ(正義)」が明記されていて、法(法律)の「正しさ」には、だれもが従うはずだし、従わなければならないという思いがあります。

日本には、差別や人権侵害を禁止する法律はない

ところが日本においては、憲法には基本的人権の尊重が明記されていますが、さまざまな差別や人権侵害を具体的に禁止し、違反した者を罰するような法律はありません。人権三法と呼ばれる「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」や「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取り組みの推進に関する法律(ヘイトスピーチ解消法)」や「部落差別の解消の推進に関する法律」にしても、その題名を見てもわかるとおり、三つの差別の「解消」を目指すものであって、差別の「禁止」を示したものではありません

「差別禁止法」をつくるべきだという運動に逆行する動き

このような現状に対して、差別や人権侵害を禁止する「差別禁止法」や「人権尊重法」などを、日本でも一刻も早くつくるべきだという意見があり、わたしもその意見に賛成です。しかし、実際にはそのような運動を妨げるさまざまな動きがあり、なかなか実現には至っていません。それどころか、現在の日本で起きていることは、むしろそれに逆行する動きです。

「不当でない差別」ならいいのか

たとえば「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律(LGBT理解増進法)」(2023年6月16日に国会で成立、同月23日に施行)の審議過程で、「差別は許されない」という当初案の文言が、「不当な差別はあってはならない」に変えられてしまいました。「差別」は本来「不当なもの」なのですから、そんな修飾語はつける必要はないにも関わらず、あえて「不当な」を入れることによって、「不当でなければ性的少数者への差別的対応も許される」という言い訳の余地をつくったわけです

性的少数者がまわりに「留意」するのか

さらに審議過程では、第十二条に、「全ての国民が安心して生活することができることとなるよう、留意するものとする。」という文言がつけ加えられました。これも、「全ての国民が」という言い方をすることで、自分の言動が、性的少数者に違和感を覚える人たちに「不安感」を与えないように、性的少数者やその支援者が留意しなければならないと言っていると読むこともできます。結果として、この法律は、見方によっては制定前よりも、性的少数者への人権侵害や差別を「保護し、容認する余地」を「明文化」してしまったととらえることもできます。

言葉尻には、重要な意味がある

このようなことを言うと、法律の条文の言葉尻をとらえて、どうでもいいことにこだわっていると思われる方もあるでしょう。しかし、これはどうでもいいことではありません。審議過程でこれらの変更を認めなければ法案の提出を認めない「強い勢力」があったのです。彼らが、そこまで強くこだわるのは、もちろん、こだわるだけの理由があったからです

法律もスポーツ競技のルールも、本質は同じもの

話をもとに戻しましょう。法律は社会の「正しさ(正義)」のあらわれだというような思い込みを捨ててしまえば、法律はスポーツ競技のルールと本質的にはなんら変わりません。競技のルールは「たてまえの合意」に基づいたその時の「正しさ」であって、いつ変わってもおかしくないものです。また、現に毎年変わり続けます。今、ルールが「たてまえの合意」に基づくものだと述べたのは、実際には、ルールはみんなの合意にもとづくものではなく、連盟や協会を牛耳っている少数の人たち(その時の「強い立場」の人たち)の都合によって、次々と変えられていくものだからです。

法律が変わるのは、「力の戦い」の結果

法律が変わっていくのも、実はこのようなスポーツのルール変更と本質的には同じことで、人と人との利害をめぐる「力の戦い」の結果に過ぎません。つまり、その時の「強い立場」の人たちの都合のよいように変わっていくのです。そこには、これから述べるような「(神の)正義の顕現(あらわれ)」などと言えるものはありません。先ほど述べた「LGBT理解増進法」が、あのような形に変えられてしまったのは、そのような変更が国会のおける多数派(「強い立場」の人たち)の主張だったからです。

「法は、神の正義のあらわれだ」

ヨーロッパ世界には、「法(法律)は、(神の)正義の顕現(あらわれ)だ」という考え方が根強くあります。そのもっとも高度な形は、ヘーゲルの『法の哲学』に示された考えでしょう。しかし、このような考え方は、マルクスが批判したとおり、完全に逆立ちした考え方です。神とか正義とか自由というものがどこかにまずあって、それが歴史の進展の中で、人間の社会で法(法律)として実現されたのではありません。実際には現実の人間の社会がまずあり、その中から、神とか正義とか自由という考え(虚構)が生み出され、それが人間社会の中で宗教や法(法律)という形をとったのです

ヘーゲルの理論の落とし穴

ヘーゲルは法律が変わっていくのは、人間の精神の自由の実現に向かって、社会や法律がいわば「進化(弁証法的に発展)」していくからだと考えました。しかし、それはよくできた「フィクション(お話)」に過ぎません。人間の歴史というものは、見ようによってはそう「見える」だけのことです。ヘーゲルの思想は、おそらく観念論としてはもっとも高度なものです。しかし、そこから帰結する『法の哲学』のような考え方が抱える最大の問題点は、目の前の国家や政治(ヘーゲルの場合は、プロイセン国家)が、現時点では当然「進化(弁証法的発展)」の最高地点になるため、そこにどれほど深刻な問題があっても、現時点の目の前にある国家や政治が今まででもっともよいもの(「必然」、「現実」)だということになってしまう点です。当然、目の前の問題の解決は、今後の社会や国家の「進化(弁証的発展)」が実現するはずだということになってしまうのです。

「今までの中でこれが最高なのだから、文句を言うんじゃない」

このようなヘーゲルの考え方を象徴する言葉に、ヘーゲルが『法の哲学』の序文で書いた「ここがロドスだ。ここで跳べ。」、「ここにバラがある。ここで踊れ。」があります。この言葉の中の「ロドス」や「バラ」は、「歴史上のもっともよい環境」を表し、「ここで跳べ」や「ここで踊れ」は「この環境の中で全力で生きよ」ということを表しています。つまり、「今のここが、これまでの中で一番すばらしい環境なのだから、お前たちはあれこれ文句を言うんじゃない」ということにもなります。

このような考え方は、実は日本人の政権与党に対する高い支持率や、「差別禁止法」を制定しようとする運動への根強い反対と、どこかでしっかり結びついています。このようなヘーゲルの思想がはらむ本質的な「欺瞞性(インチキなすり替え)」を批判して、当時、青年ヘーゲル派が生まれ、その人たちの中からマルクスが登場します。

マルクス主義も、虚構の絶対的な「正しさ(正義)」に支配された

それではマルクスたちは、このような「思想がはらむ本質的な欺瞞性」から自由になれたのでしょうか。どうもそうは思えません。マルクスの思想は年とともに変化し続け、『資本論第1部』が彼の思想の結論ではないことは、斎藤幸平さんなどの研究でもあきらかになっています。とはいえ、マルクス主義が、自らを「科学的社会主義」と考えるようになってからは、ヘーゲルとは違った意味で、虚構の絶対的な「正しさ(正義)」に支配されるようになりました。その結果、「科学的社会主義」の絶対的な「正しさ(正義)」に従わない者は、最悪の場合、殺しても仕方がないという考え方が生まれ、それがテロや革命や粛正につながりました。歴史の中でいくつもの社会主義国家が生まれましたが、その多くが独裁政治と結びついた(ついている)ことは、マルクス主義者や科学的社会主義者が信じる、虚構の絶対的な「正しさ(正義)」と無関係ではありません。

「正しさ(正義)」への信仰が、問題を見えなくする

ヘーゲルの思想においても、マルクス主義においても、「正しさ(正義)」への信仰が、結果として目の前で起きているさまざまな問題(貧富の差、国王や少数の支配者による専制や独裁、思想統制や殺戮等)を、問題とは考えない態度につながっています。目の前で起きているさまざまな問題は、すべて「正しさ(正義)」の実現のために必要な一段階だと考えてしまうからです。

実は、今述べた「正しさ」を信じることによって、目の前にある問題が見えなくなってしまうことは、さまざまな人権侵害や差別の中で、同じように(ただし、加害者と被害者では、それぞれ違った形で)起きていることなのです

加害者は、「わがままな」人を非難

人権侵害や差別は、それを行っている加害者の側は、自分たちの「正しさ(社会や集団の安定など)」の実現のためには、目の前の問題(差別的扱いなど)は「仕方がないこと、むしろ社会や集団のために必要なこと」と考えます。そして、そのような扱いを受け入れようとしない「わがままな」人(被害者)への嫌がらせや非難や攻撃を続けます。

被害者は、「間違っている」人を非難

一方、被害者やそれを支援する側からすれば、加害者は自分がしている問題(人権侵害など)を問題として認めようとしない「間違った」人です。「間違っている」人が、あくまでその「間違い」を認めないのであれば、それを認めさせたり、罰したりするためならどんな非難や攻撃をしてもいいという考え方が、時として生まれてきます。その結果、人権侵害の被害者が、いつのまにか加害者になってしまうということが、時々起きるのです。

今のこの社会や集団を維持していくという「正しさ」

加害者の側は、自分たちは今のこの社会や集団の「ルール、しきたり」という「正しさ」にのっとって生きている。この社会や集団を維持していくためには、「ルール、しきたり」に従わない「わがままな」人(被害者)たちは、非難や攻撃を受けて当然だと考えます。それがさまざまな形で、人権侵害や差別を生み出し続けます。

人権尊重や多様性の尊重という「正しさ」

一方、被害者やそれを支援する側は、人権尊重や多様性の尊重という「正しさ(正義)」に従わない加害者を、「間違っている」と考え、加害者に「間違い」を自覚させて自分たちの「正しさ(正義)」に従わせようとします。ただ、たいていそれはうまくいかないので、加害者よりもさらに「強い立場」の人に加害者を指導してもらおうと考えたり、社会や集団に新たな「正しい」ルール(申し合わせや法律)をつくろうとします。しかし、実際には現行のルール、しきたりは、現在の「強い立場」の人の都合ででき上がっているために、被害者側が望むような加害者への指導も新たな法律もなかなか実現しません。

「正しさ」がまずあるという思い込みが、袋小路を生む

ほとんどの人は、「この世界には、『正しさ(神や正義)』がまずあって、個々の人がそれに従うかどうかが問題なのだ。従わない人がいるから、いろいろトラブルが起きる。だから、そういう人を罰する法律が必要なのだ。」と考えてしまいます。わたしもずっとそう考えてきましたし、今でも実際の生活の中では、そのような考えから、なかなか抜け出せません。しかし、このような「世界には、『正しさ(神や正義)』がまずあるのだから、個々の人がそれに素直に従うかどうかだけが問題なのだ。」という考え方は、問題の解決につながるどころか、抜け出しようのない問題の袋小路にわれわれを追い込んでしまうのです。

新しい法(法律)を実現するためには

冒頭に書いた「人権侵害や差別をなくすこともできない法律なんて、一体、なんのための法律なんだろう」という、無力な法(法律)への落胆は、われわれが法(法律)というものの本質を理解していないことから生じます

法(法律)は、社会に「正しさ(正義)」を実現するものではありません。むしろ、社会に実現した新しい「正しさ(正義)」を明文化したものが、法(法律)なのです。社会に実現した新しい「正しさ(正義)」とは、社会の中に生まれた新しい「力の関係」のことです。

最後は、ありきたりの結論になってしまいますが、新しい法(法律)を実現するためには、社会の中にまず新しい「力の関係」をつくることが必要なのです


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