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偏見やラベリングが、なぜ差別の原因と考えられるようになったか

前々回から書いているように、偏見やラベリング(レッテル張り、くくり出し)は、差別の原因ではありません。差別の原因は、人と人との間にある「力の関係」です。しかし、どのようにして本来の原因ではない偏見やラベリングが、まるで差別の原因であるかのように錯覚されたのでしょうか。

これからわたしがお話しする過程は、あくまで原理的な過程です。ですから、実際の個人の経験や歴史的な事実とは合わないところもあります。しかし、差別がどのようにして生まれるかということを本質的(理念的)に考えると、こういう過程になると言わざるをえないのです。

差別や人権侵害が起きる基本的な構造

前回、「差別や人権侵害が起きる基本的な構造」として次のようなことを書きました。

二人以上の人がいて、そこに人間の集団と呼べるものがあれば、そこには必ず「強い立場」の人と「弱い立場」の人が出てきます。「強い立場」の人は、多くの場合、「弱い立場」の人を自分の思っているとおりに「しよう」、「動かそう」とします。

「強い立場」の人の思うとおりに「弱い立場」の人がふるまっている場合は、問題は起きません。しかし、ふつう「強い立場」の人と「弱い立場」の人の間には、心の溝や気持ちのズレや断絶が生じるので、結果として「弱い立場」の人が「強い立場」の人の思うように「しない」、「動かない」ということが起きてきます。「強い立場」の人が、「まあ、これでもいいか」と思えばいいのですが、多くの場合、「強い立場」の人は、それを許しません。自分が持っている「強い立場(=力)」を使って、「弱い立場」の人を自分の思うとおりに「しよう」、「動かそう」とします。これがうまくいかなかった時に、人権侵害や差別が起きてくるのです。

自分が持っている「強い立場(=力)」をいくら使っても、「弱い立場」の人が自分の思うとおりにならないということが繰り返された時、怒りはやがて憎しみに変わっていきます。相手を自分の思いどおりにしよう(コントロールしよう)という試みが、「弱い立場」の人からの拒否によって挫折すると、コントロールしようという気持ちは次第にその性質を変え、やがて相手を自分の前から、自分の集団から排除しよう、忌避しよう(嫌い遠ざけよう)とする気持ちに変わっていきます

現在の差別は、「忌避」、「排除」という形を取る

現在の日本には、部落差別を始めとしてさまざまな差別があります。それぞれの差別は、個々に違った歴史的経緯を持って生まれ、時とともに変化していますが、現在においては、さまざまな差別は基本的に「忌避(避けて遠ざける)」や「排除」という形を取っていることが多いと思います。「忌避」や「排除」は、差別とまでは呼べないのではないかと考える方もいらっしゃるかもしれませんが、それは間違いです。学校における子どもたちの「いじめ」を考えてもすぐにわかりますが、「忌避」や「排除」は現在の日本におけるもっとも一般化した「人権侵害、差別のかたち」なのです

コントロールしようという気持ちが挫折して「いら立ちや怒り」が生まれ、そのような感情が、相手を自分の集団から「忌避」しよう、「排除」しようとする気持ちに変わっていく過程で、偏見やラベリングが差別の原因であるかのような錯覚が生まれてくるのです。

偏見やラベリングが、なぜ差別の原因と考えられるようになったか

「いら立ちや怒り」は、もともとは目の前にいる自分の思いどおりにならない具体的な人(たち)に向けられています。ところが、これが排除の気持ちに変わっていく過程で、目の前にいる具体的な個々の人(たち)が、「○○な人たち」という特徴でくくり出され、自分(たち)とは違う「おかしな人たち」、「いっしょにはいられない人たち」、「許せない人たち」に変わっていくのです。

たとえば、職場などで、「強い立場」にいる人は、「弱い立場」の人が自分の思いどおりにならなかった時、「あの人は、○○な人だ。だから、ダメなんだ」と言い出します。この場合、「あの人は、○○な人だ」というのが、ラベリングであり、「だから、ダメなんだ」というのが偏見(思い込み、先入観、バイアス)になります。この「○○」の中にはいろいろな言葉を入れることができます。また、「ダメなんだ」の内容も、いろいろなマイナスの特徴に変えることができます。「あの人は、やる気がない人だ。だから、わたしの言うことに従わないのだ」、「あの人は女性だ。だから、仕事ができないんだ」とか、「あの人は外国人だ。だから、人に迷惑をかけても平気なんだ」といった具合です。

ここで差別や人権侵害について、「原因」と「結果(現象(あらわれ))」の取り違え(錯覚)が起きます。その人(たち)が、わたしの思うとおりにならないから、わたしは怒っていたのですが、「あの人は、○○な人だ。だから、ダメなんだ」となった時点で、「あの人が○○な人だ」ということが、わたしの怒りの「原因」にすり替わってしまうのです。そして、本来、相手を自分の思いどおりにできない無力感(挫折感)から来ていた怒りは、相手が○○であることから来ているということに「すり替えられる」のです。これによって、本来、自分の無力感(みじめさ)から来ている怒りは、「あの人が悪いんだから、わたしが怒りを感じるのも当たり前だ。わたしは正しい。だから、あの人がおかしい」と正当化されるのです。このような状態になっても、相手が自分の思いどおりにならないことが続くと、人は「こんなおかしな人とはいっしょにいられない。みんな迷惑している」という理屈で、相手を自分たちの集団から排除し、忌避しようとします。こうして差別や人権侵害が始まります。

個々の具体的な「ラベル」には、なんの根拠もない

ここで重要なことは、「あの人は、○○な人だから、ダメなんだ」の○○には、原理的には何をいれてもいいということです。具体的な「あの人」が持っているなにかの特徴であれば、それは何でもかまいません。「近ごろの若いやつら」、「年寄り」、「女性」、「外国人」、「団塊の世代」等々、なにを入れることも可能です。しかし、「あの人は、○○な人だから、ダメなんだ」と思っている本人は、そのことの正当性(判断の正しさ)を疑いません。(疑ったら、自分が無力なダメな人間だという事実に向き合わなければなりません。)一方、それは第三者から見れば、なんの根拠もないことがほとんどです。そもそも○○には、原理的には何をいれてもいい(つまりは、「あの人は、○○な人だから、ダメなんだ」と判断する正当な根拠はそもそもない)からです。前回も書いたように、「出生地」や「肌の色」や「女性という性」という差別を生んでいるように見える「性質(ラベル)」というものは、実はそれぞれの差別や人権侵害が生まれる過程で、見せかけの「理由」(口実、指標)として選ばれたものにすぎないのです

偏見や「ラベル」を無効にしようとすることの限界

これまでの人権侵害をなくそうとする考え方は、「あの人は、○○な人だ。だから、ダメなんだ」という判断の内容が間違っている(根拠がない)ことを明らかにし、そういう判断を間違っているものとして、社会からなくそうとしました。しかし、このようなやり方は、ある程度の歴史的な成果はあげましたが、根本的な解決にはなりません。「あの人は、○○な人だ。だから、ダメなんだ」という考え方や思い自体は、人権侵害や差別の「現象」であって、人権侵害や差別の「原因(そのような現象を生んでいるもの)」ではないからです。ちょうど、熱が出たからといって、解熱剤を飲んで解決しようとするようなものです。発熱自体はたしかに問題ですが、だからといって発熱の原因を考えず、ただ発熱(「現象」)だけをなくそうと解熱剤と飲んでも、一時的に熱はさがっても、薬の効果が切れればまた発熱します。

偏見や「ラベル」を無効にしようとすることが引き起こす問題

もちろん、「現象(あらわれ)」に問題があるのですから、それをなくそうとする運動自体は間違ってはいません。しかし、「現象」を生んでいるもの(原因)を考えずに、「現象」だけをなくそうとすると、実際の生活の場面では、そういうことは「思ってはいけない」とか、「言ってはいけない」という禁止や隠ぺいの考え方につながりかねません。結果的に、差別をないことにしたり、まわりが気をつかわなければならないそういう人は、自分の近くにいてほしくないという思いにつながっていくのです。具体的には、「部落差別なんて、もうないんじゃないか」とか、「障害をもっている人は、施設や家の中にいてもらった方が本人のためにもいいのじゃないか」という考え方につながっていきます。このような考え方が、姿を変えた差別や人権侵害であることは言うまでもありません。結局のところ、ラベリングや偏見を生んでいるもの(原因)を解決しなければ、人権侵害や差別の解決は不可能です

終わりに

それでは、なぜ人は人を自分の思いどおりに「しよう」、「動かそう」とするのでしょうか。前回は、そのような差別や人権侵害を生んでいる原因と思われるものを、人間の「生きる力」と呼びました。このことについては、今後どこかでお話ししたいと思います。

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