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人権に関わる「ぶつかり合い」をどう解決するか(その1)

前回述べた「あなたがおかしい」と双方が言い合うような、人権に関わる「ぶつかり合い」を解決するためには、どうすればいいのでしょうか。今回はそれを少し考えてみたいと思います。

人権問題に関わる対立やトラブルは、「正しさ」では解決できない

人権問題に関わる対立やトラブルは、ふつう「どちらが正しいか」という観点でとらえられがちです。しかし、「どちらが正しいか」という観点で、このような対立やトラブルを解決することは(たぶん)不可能です。対立しているどちらの側も、自分の「正しさ」を持っていて、それを主張しますが、それぞれの「正しさ」は対立し、まったく噛み合わず、交わることがないからです。では、人権問題に関わる対立やトラブルを「解決」することは不可能なのでしょうか。わたしは、そうは思いません。

トラブルを 【思考実験】で考えてみる

ここで、前々回前回で使った【思考実験1】を使って、もう一度考えてみたいと思います。車いす利用者のAさんが自分が入りたい店の前に10cmくらいの段差があるので、その店に電話して、「わたし(の車いす)を持ち上げて、わたしが店に入れるようにしなさい」とその店の店員(Cさん)に言ったとします。その時、Cさんはひとりで店をきりもりしていたので、心の中では、こっちの事情も考えないで、この人はなんて勝手なことを言っているんだと思いながらも、一応、「今、わたしひとりでお客さんの対応をしていますので、もうしばらくお待ちください」と答えたとします。

どちらの言うことも「もっとも」です

純粋な第三者として考えれば、わたしとしては、この場合、Aさんも店員のCさんも、どちらの言うことも「もっとも」だと思います。(そう思わない方もいらっしゃるでしょうが、そういう方は、純粋な第三者としてこのケースを考えてはいないような気がします。(この点については、前回の「『あなたはおかしい』のぶつかり合い」の終わりの方をご覧ください)

Aさんは、納得できません

しかし、Cさんの対応に納得のいかなかったAさんは、すぐに区役所の障害者支援課(など)に電話して、「この店とこの区はおかしい。『合理的配慮』がまったくなされていない。すぐここに来て、この店を指導しなさい」と言ったらどうでしょうか。

区役所の職員は、たぶんすぐには行くと言わないかもしれません。しかし、Aさんがその対応に納得しないで、さらに強く要求すれば、不承不承でも、そのうちやってくることになるでしょう。(また、仮に障害者支援課の職員が、Aさんに対して、このような場合、自分が行く必要はないというようなことを言い続ければ、Aさんは今度は区役所の総務課などに、そのような職員の発言について抗議の電話をするかもしれません。)そんなふうにして区の職員がやって来た時には、もしかすると、店員のCさんが、ようやくお客さんの対応が終わって店から出て来て、さっきから様子を見ていた周りの人も手伝って、なんとかすでにAさんを店に入れているかもしれません。

最初に生まれたのは「いら立ち」で、「正しさ」の主張ではない

店にやって来た区の職員が、AさんとCさんに事情を聞けば、Aさんは、「行きたい所に行く権利」や「合理的配慮の義務」を主張し、店員のCさんは、「自分の働く者としての責任や困難(ひとりで店の仕事をしていたのだから、すぐに店の外に駆けつけて車いすを持ち上げることはできないこと)」を主張するでしょう。実は、ここで初めて、Aさんの「正しさ(わたしが正しい)」とCさんの「正しさ(わたしが正しい)」が提示され、対立することになります。

よく考えてみると、実際に「ぶつかり合い」が起きた時に、AさんとCさんが感じていたことは、このように第三者への説明の時に主張される、それぞれの「正しさ」とは、微妙に違うものです。問題が起きた時に双方がまず感じたのは、「あの人はおかしい」という「いら立ち(怒り)」なのです。この双方の「いら立ち」は、自分のしたいこと(していること)が、相手の言うこと(すること)によって、一方的に(理不尽に)否定され、妨げられ(ようとし)たところから、それぞれにおいて生じたものです

本当に問題になっていることは何か

人権問題の解決を考える際に、特に大事だとわたしが考えることは、「今、何が問題なのか」「ここで、本当に問題になっていることは何か」ということです。【思考実験1】において、実際に問題になっていることは、車いすに乗っているAさんが、段差があって目的の店に入れないということです。ですから、実際には何らかの形でAさんが店に入れた瞬間に、この問題自体は「解決」しているのです。

「正しさ」の対立にしてしまうと解決はない

ところが、この問題をそれぞれの持っている「正しさ」を基準に考えてしまうと、解決はその「正しさ」の実現以外にないことになってしまいます。Aさんの「正しさ」の実現のためには、この社会に存在する「物の、心の障壁(バリアー)」を、(できる限り)なくさなければなりませんし、Cさんの「正しさ」の実現のためには、ひとりで店をきりもりすること(いわゆる「ワンオペ」など)を、(できる限り)なくさなければなりません。純粋な第三者の立場に立って考えれば、どちらの「正しさ」の実現も、「確かにそうなればいいけれど、すぐには無理なことだ」と感じる人が多いと思います。ここに「人権の尊重」は、所詮はきれいごとで、確かにそうなればいいけれど、実際には実現不可能のことだと非難されがちな理由があります。

実は問題は「解決」している

では、人権問題の「解決」は、所詮不可能なのでしょうか。わたしはそうは思いません。もう一度、この【思考実験1】の中で、「何が問題なのか」ということをきちんと考えてみましょう。このケースでは、車いす利用者のAさんが、段差があるため店に入れなかったことが問題なのです。その店やその区に、「合理的配慮」が徹底されていなかったことでもないし、Cさんの雇用者が人手不足や人件費の削減のために、ワンオペを命じていたことでもないのです。問題をそのように考えるならば、区役所の職員がやってきた時に、もしすでにAさんが、店員のCさんや見ていた人の手助けで店に入れていたならば、実は問題はすでに「解決」していたことになります

「正しさ」の実現は放棄されてはならない

もちろん、だからと言って、街の中の段差をできるだけなくす必要がなくなったわけではありませんし、またCさんのワンオペに代表されるような現在の日本の雇用や就労環境の問題が、そのまま放置されてよいというわけでもありません。当然それらは、今後、早急に解決しなければならない問題として残るのです。

【思考実験1】の場面において、Aさんの「正しさ」(合理的配慮の徹底等)とCさんの「正しさ」(雇用や就労環境の改善等)は、相容れないものです。ですから、店の前にある段差を前にして、「どちらが正しいか」を争っても、対立が深まるばかりで、車いす利用者のAさんが、段差があるため店に入れなかったという「問題」は解決しません。具体的なひとつの問題を解決するのは、具体的なひとつの方策(工夫、行為)を持ってくるしかないのです。そのような場面で、自分の「正しさ」を主張して、相手を説得したり、反省させたり、従わせたりしようとすることは、なんの解決にもならず対立(心の溝)を深めるだけです。わたしが今まで、「高校生のための人権入門」などで、自分の「正しさ」を括弧に入れる必要があるということを申し上げてきたのは、今から振り返るとそういう意味だったのだと自分でも気づきます。

それでは、AさんもCさんもそれぞれの自分の「正しさ」の実現を諦めなければならないのでしょうか。そうではありません。街の中の段差をなくすというAさんの「正しい」主張は、区や店の経営者たち、さらには国の政策等に向けられるべきものですし、Cさんのワンオペの解消という「正しい」要求は、その店の経営者や一緒に働いている従業員や国の労働行政、ひいいては国政に対して向けられるべきものです。そして、その時は、自分の主張の正しさに括弧をつける必要はないのです。

今回の仮の結論

1 今、起きている問題の解決は、具体的にその問題の中で行うしかない。
2 自分の「正しさ」を、対立している相手に向けても心の溝を深めるだけで、問題の解決からは遠ざかってしまう。「正しさ」を向けるべき相手は、対立している相手ではなく、組織の責任者や制度をつくっている人である。

次回は、前々回に取り上げた【思考実験2】に関して、その解決を考えてみたいと思います。その解決は今回取り上げた【思考実験1】とは、違ったものになると思うからです。

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