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『経済学・哲学草稿』をつかむ



序論 -- 『経済学・哲学草稿』をつかむ

 『経済学・哲学草稿』は、決して完成された論考ではない。そもそもこれは「草稿」であって、マルクスの生前には公表されなかったものである。『草稿』には、当時26歳の青年だったマルクスの問題意識と直観が表れているが、それが体系的な論理となるのは『資本論』を待たねばならない。

 そこで、やや邪道ではあるが、ここでは若きマルクスの問題意識と直観を概観するだけにとどめる。『草稿』の論理上の混乱や矛盾については、廣松渉『マルクス主義の地平』や平田清明『経済学と歴史認識』ですでに詳細に論じられているので、改めて論じる必要はないだろう(真木悠介『現代社会の存立構造』を参照していただいても構わない)。『草稿』は、論理的に理解できる類いの文章ではなく、感覚的に把握する類いの文章だと思われる。

 若きマルクスは、資本主義社会、ヘーゲル哲学、国民経済学、初期社会主義、それぞれに違和感を抱えながら、それを上手く表現する言葉を持ち合わせていなかった。彼が言葉にならない違和感をなんとかして表現しようとしたとき、それは「疎外〔外化〕」というヘーゲルの言葉に託された。そのため、『草稿』において「疎外」という言葉が用いられるとき、実際にそれはさまざまな文脈で用いられるが、そこでは「あるべき姿とはちょっと違うんじゃないか」という感覚が表現されていると解釈すべきだろう。その「あるべき姿」を表す言葉が「類的本質」に他ならない。

 よって、『草稿』を私なりに総括するならば、「なにかがおかしい」という感覚を言葉にしようとしたものである。ここには日本の東大全共闘とも共通するメンタリティがあり、彼らが『草稿』を感覚的に読んでいたことにも納得がいく。ただし、その後のマルクスが言葉を探し出したことは、全共闘の学生たちが言葉を放棄して暴力に傾いていったことと対照的である。そして、マルクスの探し出した言葉が現代社会でほとんど理解されていないことを残念に思う。


マルクスの人間観 -- 外化を通しての内化

 『経哲草稿』の具体的な内容を見る前に、マルクスの人間観を紹介しておこう。なお、以下は真木悠介の『現代社会の存立構造』に依拠している。

 『草稿』の時点のマルクスは、「自然」から独立した自律体としての「人間」の概念が存立していることに人間の本質を見出す。本源的な〈自然〉のうちに統一されている状態から、「自然」を対象とする「人間」と、「人間」の対象としての「自然」が析出する。人間は〈自然〉から離陸することができる。

 人間は、いかにして〈自然〉から離陸するのか。その鍵となるのが外化の過程である。動物は〈自然〉に内在し、〈自然〉の対象をそのまま内化する。それに対して人間は、〈自然〉の対象を人間的な対象へと変化させ、それを内化することができる。たとえば人間は、大地と関係を取り結ぶことによって農地を生み出し、そこで小麦を栽培することができるし、小麦と関係を取り結ぶことによってパンを作り、それを味わうことができる。

 人間は〈自然〉の対象をそのまま内化するのではなく、何らかの過程を経たうえで内化する。内化する対象を確保する過程が、外化と呼ばれる。農地を生み出すためには樹木を伐採したり土地を耕したりする必要があり、農地で小麦を栽培するためには種を植えたり肥料を与えたりする必要がある。このような外化の過程によって対象は人間的になり、「人間」は〈自然〉から超越した自律性を獲得する。

 このように、外化の能力こそが人間の人間たるゆえんであり、動物一般に対する人間の優越である。対象に働きかけて変化させる外化の過程は、一般に「労働」と呼ばれる。すなわち人間は労働する動物であって、労働によって人間的な対象を生み出し、それを享受することができる。人間が享受するのは人間的な対象であって、それによって人間はみずからが人間であることを確証する。人間は、「労働を通しての享受」という、外化を通しての内化によって、みずからの人間性〔類的本質〕を現実化する。

 しかし、外化の能力が人間の優越であるのは、人間的な対象が内化されるかぎりにおいてである。外化の過程は、たしかに〈自然〉を超越した対象を生み出し得るが、それが内化される保証はない。収穫直前の小麦が洪水でダメになってしまうこともあるし、せっかく焼いたパンが盗まれてしまうこともある。内化されざる外化が生じるとき、人間はみずからが人間であることを確証することができない。労働の歓びは苦痛へと転化し、人間は動物以下の存在となる。

 労働が人間的な活動であるのは、生産物が労働者によって享受されるかぎりにおいてである。そのため、もし生産物が労働者のものにならないのであれば、その労働は人間的な活動ではない。「疎外された労働」とは、内化されざる外化である。外化の活動こそ、人間がみずからの人間性を確証する過程だったはずが、現実には人間性を否定する過程として表れている。マルクスが『草稿』で問題にしたのは、まさにこのことだった。

〔『資本論』では、〈自然〉からの「人間」の離陸に加えて、〈共同体〉からの「個人」の離陸が問題にされる。離陸した「個人」は、ふたたび出会う他者と相乗的に関係することもできるが、相剋的に関係することもできる。諸個人の相剋的な関係性のうえに存立するのが資本制社会に他ならない。そこでは「譲渡を通しての領有」という、他者性の次元における外化と内化が問題となる。〕


「疎外された労働」(第一草稿より)


(1) 労働者を悲惨な状況に追い込む社会への違和感

 若きマルクスは、「この社会はこれで良いのか?」という違和感と格闘していた。ヘーゲルの哲学は、歴史の最高段階を近代の立憲君主制とするため、プロイセンの現状を追認する。しかしマルクスとしては、労働者を悲惨な状況に追い込む社会をどうしても肯定することができない。この社会で、労働者はどのような状況に置かれているのか。

労働は金持にたいしては驚異の品を生産するが、労働者にたいしては食うや食わずの生活を作り出す。宮殿を生産する一方、労働者には穴ぐらを作り出す。美を生産する一方、労働者には不具を作り出す。労働を機械に置きかえる一方、労働者の一部を粗野な労働へと突きもどし、他の一部を機械にしてしまう。精神を作り出す一方、労働者には精神薄弱やクレチン病を作り出す。

マルクス『経済学・哲学草稿』第一草稿より


(2) 労働者の状況を追認する経済学への違和感

 社会を考えるうえで、ヘーゲルの哲学は役に立たない。労働者たちが直面しているのは、理念や観念の問題ではなく、第一に経済的な問題である。だとしたら、イギリスで発展している「経済学」が役に立つだろう。

 マルクスはこのように考えて、アダム・スミスやリカードなどの経済学〔国民経済学〕を勉強していった。しかし、それはマルクスの期待を裏切るものだった。労働者の悲惨な状況は、経済学者にとっては問題ではなく、むしろ自明の事態だったのである。

わたしたちは国民経済学が前提とする事実から出発したし、国民経済学の用語と法則を受けいれてきた。〔......〕国民経済学から出発し、国民経済学の用語を使って、労働者が商品へと――悲惨この上ない商品へと――貶められることを示してきた。

同上


(3) 新たな知の方向性 -- 社会そのものを捉えるために

 経済学は社会の現状を追認するだけで、社会を批判することができない。生産資本や商品が資本家の私有財産として扱われることが問題であるにもかかわらず、経済学はそれらを私有財産と見なすところから出発する。また、労働者が商品として扱われることが問題であるにもかかわらず、経済学は労働者を商品と見なすところから出発する。

 いかにして「私有財産」というものが生み出されるのか。いかにして人間は労働者と資本家に分離するのか。いかにして労働者は悲惨な状況に追い込まれるのか。いかにして「貨幣」が誕生するのか。

 これらの「いかにして」という視点こそ、マルクスの生涯を貫く問題意識である。『草稿』ではこれらの疑問が解決されず、のちの『経済学批判』や『資本論』でようやく答えが見出されるが、問題意識そのものは『草稿』の時点から継続していた。若きマルクスが「概念的に把握する」という言葉を用いるとき、表現されているのは「いかにして」という問題意識である。

 マルクスは「この社会はこれで良いのか?」という違和感を抱えていた。そのため、マルクスの思考は、社会の内部にとどまる「知」ではなく、社会そのものをひとつの過程として捉える「知」に支えられる必要があった。ここに、見田宗介の「存立構造論」へとつながる知の系譜が始まる。〔潮流としては「構築主義」という呼称のほうが有名である。〕

だから、わたしたちはいまや、私有財産と、所有欲と、労働・資本・土地所有の分離とのあいだの必然的な関係を把握しなければならないし、交換と競争、人間の価値と価値低下、独占と競争との関係を、さらには、こうした疎外の全体と貨幣制度との関係を、概念的に把握しなければならない。

同上


(4) 「類的本質〔類的存在〕」の設定 -- 批判の足場の確保

 マルクスの「この社会はこれで良いのか?」という違和感を裏返せば、「この社会よりも良い社会があるはずだ」という希望になる。その希望を、マルクスはルートヴィヒ・フォイエルバッハの主張する「感性的存在としての人間」に求めた。マルクスが『草稿』で用いる「類的本質〔類的存在〕」という言葉は、フォイエルバッハから援用されたものである。〔 "Wesen" は本質とも存在とも訳せる。〕

 人間の本質は「自由」であり、それは生産活動と生産物の享受によって初めて現実化される。動物は自然をただ〈内化〉する。しかし人間は、類的本質を自然に対して〈外化〉することで生産物を生み出し、それを改めて〈内化〉することで、生産物の形態をとった自らの類的本質をふたたび自らのものとする。そうすることで人間は、自らがまさに人間であることを確認する。生産物の〈内化〉を「生活」だとすれば、類的本質を〈外化〉する生産活動は「生活を生み出す生活」であり、それは重層的な意味を与えられた豊かな生命活動である。

非有機的自然を加工して対象的世界を産出するという実践活動は、人間が意識をもった類的存在であることを身をもって示すものであり、人間が類をおのれの本質とし、類的存在として立つことをしめすものだ。〔......〕動物は目の前の肉体的な欲求に従って生産するだけだが、人間は肉体的欲求を離れて自由に生産し、自由のなかで初めて本当に生産する。動物の生産物は動物の生身の体にぴったり寄りそっているが、人間は、その生産物と自由に向き合うことができる。

同上

 人間は生産活動によって自らが「人間」であることを証明し、生産活動によって人間的な歓びを享受する。ここでは、あまりにも「本来の生産活動」が理想化されている。しかし、このような理想を対置することによって初めて、マルクスは現実の「労働」を批判することができた。現実の「労働」を批判することこそがマルクスの意図であって、「類的本質」の設定は批判の足場を確保するための手段でしかないことには注意しておくべきだろう。

かくて、対象世界の加工という行為において、人間は初めて、現実に自分が類的存在であることを示すといえる。この生産こそが動きのある人間の類的生活だ。その活動を通じて、自然は人間の作品となり、人間の現実となる。人間は意識において自分を知的に二重化するだけでなく、生産活動において現実に自分を二重化し、自分の作り出した世界のうちに自分の姿を見てとる。だから、疎外された労働が、人間の生産活動の対象を人間から奪うのだとすれば、それは、人間の類的生活を――人間の類が現実に対象となったものを――人間から奪うことだ。

同上


(5) 「私有財産」の再定義 -- 「疎外された労働」の発見

 経済学は「労働」を自明なものとして扱う。しかしマルクスは、「類的本質」を設定したことによって、現実の「労働」を本来的ではないものとして批判することができる。それを表現する言葉こそ、「疎外された労働」に他ならない。

 マルクスは、「疎外された労働」を以下の四つの水準で把握する。この部分には論理的な矛盾が含まれているが、ここでは問題にしないので、詳しくは廣松渉の『マルクス主義の地平』を参照していただきたい。その矛盾は『経済学批判』や『資本論』で解消されるので、ここでは四つの水準を「疎外された労働」の四つの側面としてのみ捉えることにする。

① 対象〔自然および生産物〕からの疎外
② 生命活動〔生産活動〕からの疎外
③ 類的本質からの疎外
④ ほかの人間からの疎外

筆者の作成による

 ここで注目すべきは、「①対象からの疎外」が具体的な形態をとったものが「私有財産」だ、という論理である。類的本質を体現する人間は、自然に働きかけることで生産物を生み出し、それを自ら享受する。しかし、対象から疎外された人間は、資本家の私有財産である原材料に働きかけて、同じく資本家の私有財産である商品を生み出し、それを享受することはない。一つの過程を、物の側面から見れば「私有財産」があり、人間の側面から見れば「疎外された労働」がある。

 『草稿』の時点でのマルクスの論理では、①の疎外を基礎として②③④の疎外がもたらされるとされる。①の疎外が「私有財産」の存立を意味するのであれば、「私有財産」を基礎として②③④の疎外がもたらされるとも言うことができる。私有財産を基礎とした近代市民社会は、疎外された労働によって存立しているのである。

〔『資本論』においては、③は言及されず、④の疎外が①②の疎外をもたらすとされ、論理が逆転する。また『草稿』の時点では、商品の水準としての私有財産と、資本の水準としての私有財産が区別されていない。〕


(6) 「資本家」の再定義 -- 収奪者の発見

 『草稿』の時点のマルクスは、疎外の反対側には必ず収奪があると考えていた。『資本論』では、収奪なき疎外としての「物象化」の論理が登場するが、『草稿』では単純な疎外論の図式にとどまっている。

 労働者の疎外は、本来であれば内化〔享受〕されるべき生産物が内化されないことによって生じる。つまり、疎外された労働者の反対側には、労働という外化の過程を経ずに生産物を内化する人間がいる。それこそが「資本家」と呼ばれる存在に他ならない。ここで初めて、資本家が収奪者としての本質をあらわにする。

労働生産物が労働者のものではなく、疎遠な力として労働者に対立するのだとすれば、それは、労働者の外部に身を置く他の人間に属すると考えるほかはない。生産活動が労働者にとって苦痛だとすれば、その活動は他の人間に享受され、他の人間の生命の喜びとなっているにちがいない。人間を支配するこの疎遠な力になりうるのは、神々でも自然でもなく、人間しかない。

マルクス『経済学・哲学草稿』第一草稿より

 経済学においては、経済取引はすべて「等価交換」に基づくとされるので、収奪者は存在することがない。資本家も労働者も、等価交換に基づく対等な立場だとされる。さらには、労働者も、自らの労働力という資本を投下して賃金を獲得しているという点で、資本家と等価だという言説も生まれる。こうして、収奪者としての資本家の姿は、経済学によって徹底的に隠蔽されていたのである。

〔ただし、『草稿』の時点では、いかにして「労働者と資本家との関係は等価交換に基づく」という認識が生み出されるのかは明らかにされない。その解明は、『経済学批判』や『資本論』を待つ必要がある。等価交換という幻想の解体のためには、〈疎外/収奪〉関係に先立つ〈疎外/物象化〉関係の発見が必要だった。〕


(7) 社会変革の方向性

 以上のように、粗削りではあるが、「疎外された労働」と「私有財産」の秘密が明らかになった。疎外された労働が、資本家の私有財産を生み出し、その私有財産によってさらに労働が疎外される。

 だとするならば、労働者が類的本質を取り戻すためには、私有財産そのものを廃棄しなければならない。賃金の引き上げや平等といった発想は、たしかに労働者の状況を改善するように見えるが、それでは労働の疎外は解消されない。賃労働は、生産活動の対象からの疎外を前提としているからだ。

 また、資本家が類的本質から疎外されていることも見逃してはいけない。類的本質は、生産活動のなかで現実化され、対象と直接に関わることによって確認される。労働者の労働は疎外されているが、資本家は労働そのものから疎外されている。そのため、私有財産の廃棄は、資本家をも解放することになる。

 苦痛としての労働を廃棄し、歓びとしての労働を回復するためには、既存の社会のなかで状況を改善するのではなく、社会そのものを変革することが必要だ。社会は私有財産から解放されなければならない。人間は、内化なき外化からも、外化なき内化からも、解放されなければならない。

疎外された労働と私有財産との関係から出てくる帰結として、私有財産その他の隷属状態からの社会の解放は、労働者の解放という政治的な形で表現されることが挙げられる。労働者の解放とはいっても、労働者だけの解放が問題なのではなく、そこには人間一般の解放がふくまれる。というのも、労働者と生産活動との関係のうちに人間の隷属状態の全体がふくまれ、隷属的な関係のすべてはその関係の変形ないし帰結にほかならないからだ。

同上


「社会的存在としての人間」(第三草稿より)

 この部分では、「類的本質」や「類的生活」が展開されている。類的生活においては、人間と自然と社会が真に統一されており、人間主義かつ自然主義かつ社会主義としての共産主義が描かれる。私が説明すべきことはほとんどないが、若きマルクスの情熱を感じてもらいたいので、興味深い部分を三つ引用する。

〔粗野な共産主義とは異なる〕第三の共産主義とは、自己疎外の根本因たる私有財産を積極的に破棄する試みであり、人間の力を通じて、人間のために、人間の本質をわがものとするような試みである。それは、人類がこれまで発展させてきた富の全体のなかから意識的に生じてくる、人間の完全な回復であり、社会的な人間の、つまり人間的な人間の、完全な回復である。この共産主義は人間主義と自然主義とが完全に一体化したものである。人間と自然との抗争、および、人間と人間との抗争を真に解決するものであり、実在と本質、対象化と自己確認、自由と必然性、個人と類とのあいだの葛藤を、真に解決するものである。それは、歴史の謎を解決するものであり、解決の自覚である。

マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿より

社会そのものが人間を人間として生産するとともに、逆に、社会が人間によって生産される。活動と享受は、その内容からしても存在様式からしても、社会的だ。社会的活動であり社会的享受だ。自然の人間的本質は社会的な人間によって初めて自覚される。というのも、社会的な人間によって初めて、自然の人間的本質が人間をつなぐ絆として、自分と他人のたがいに出会う場として、また、人間の現実に生きる場として自覚されるからだし、みずからの人間的な生活の基礎として自覚されるからだ。社会的な人間にとって初めて、その自然な生活が人間的な生活となり、自然が人間化される。だとすれば、社会とは、人間と自然とをその本質において統一するものであり、自然の真の復活であり、人間の自然主義の達成であり、自然の人間主義の達成である。

同上

私有財産とは、人間が、自分を対象とすると同時に、自分にとって疎遠な、非人間的な対象となることを感覚的に表現するものである。〔......〕だとすれば、私有財産の積極的廃棄たる、人間的な存在と生活の感覚的獲得――対象としての人間、および人間の仕事を、人間のために、人間の力によって感覚的に獲得すること――は、なにかを所有し、なにかをもつという、直接的で一面的な享受としてとらえるだけでは足りない。人間はおのれの全面的存在を全面的に――つまり、全体的人間として――わがものとするのだ。世界にたいする人間的な関係の一つ一つが、つまり、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、考える、直観する、感じとる、意志する、活動する、愛する、等々が、要するに、(形の上で直接に共同性を示す器官をふくめて)人間の個性的な器官のすべてが、対象としてのあらわれかたや対象とのかかわりにおいて、対象をわがものとする働きなのだ。人間的現実をわがものとする対象とのかかわりは、人間的現実を実現する行為なのだ。

同上

 そしてマルクスは、哲学の無力を宣言する。共産主義は、哲学の抽象的な思考によってではなく、人間の実践的エネルギーによってのみ実現される。

見られるように、主観主義と客観主義、唯心論と唯物論、能動と受動は、社会的状況のなかで初めて対立するものではなくなり、対立項として存在するのをやめる。また、理論的対立は実践的にしか、人間の実践的エネルギーによってしか、解決できず、したがって、その解決は理論のみが引き受ける課題ではまったくなく、生活の場での現実的課題であって、それを理論的課題としてしかとらえない哲学によっては解決できないのは明らかだ。

同上

 しかし、当時のマルクスは、「共産主義」についての具体的なビジョンをもっていなかった。どのような社会形態によって人間の類的生活が実現されるのか、どのような過程を経て共産主義へと移行するのか、『草稿』の時点でのマルクスは何も説明できなかった。すなわち、若きマルクスにおける「共産主義」は、現実の社会に対する違和感が託された言葉でしかなく、東大全共闘の学生が放った「大学解体」のスローガンと大差ないのである。

共産主義は否定の否定という形を取る肯定であり、それゆえに、次なる歴史的発展にとって不可欠の、人間の解放と回復の現実的な要素ではある。共産主義は次なる未来の必然的な形態であり、エネルギーに満ちた原理ではあるが、それ自体が人間の発展の目標ではないし、人間社会の形態ではないのだ。

同上


「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」(第三草稿より)

 最後に、若きマルクスによるヘーゲル批判を紹介しよう。マルクスはヘーゲルを、現実ではなく「精神」という抽象しか見ていないと批判する一方、人間や社会を実体ではなく過程〔運動〕としてとらえた点で評価する。以下に、批判と評価をそれぞれ引用する。

ヘーゲルの『エンチクロペディ』が論理学に始まり、純粋な理論的思考ないし絶対知――自己意識をもち、自分自身を把握した哲学的・絶対的・超人間的な抽象精神――でもって終わるとすれば、『エンチクロペディ』の全体は哲学的精神の本質を展開し、対象化したものにほかならない。ここに哲学的精神とは、自己疎外に陥った状態のままで思考し、抽象的に自己をとらえる疎外された世界精神にほかならない。論理学とは、精神の貨幣であり、つまりは、人間と自然の哲学的価値ないし思想的価値を示すものだが、その本質は、すべての現実的な内容にまったく無関心になった非現実的な本質であり、そこに働く思考は、自然と現実の人間を捨象した外化された抽象思考である。

マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿より

ヘーゲルの『精神現象学』とその最終結果と、さらには、ものを動かし生み出す否定的原理としての弁証法に見てとれる偉大な点は、ヘーゲルが人間の自己生産を一つの過程としてとらえたこと、対象化の働きを対象から離反する外化の過程として、さらには、この外化の克服としてとらえたことにある。つまり、かれは労働の本質をとらえたのであり、対象的な人間を――現実的であるがゆえに真なる人間を――当人自身の労働の結果として概念的にとらえたのだ。

同上

 人間や社会を実体ではなく過程としてとらえることこそ、のちの構築主義〔あるいは存立構造論〕へとつながる発想に他ならない。外化と内化の運動は、ヘーゲルにおいて「精神」の抽象的な自己運動として把握され、マルクスにおいて「人間」の現実的な自己運動として把握される。

 ただし、『草稿』の時点のマルクスは、〈自然〉から「人間」を離陸させる「労働を通しての享受」にしか注目していない。この論理だけでは「商品」や「貨幣」の秘密を分析できないため、若きマルクスはゲーテやシェイクスピアを引用して違和感を表明するだけにとどまった。『資本論』が完成するためには、〈共同体〉から「個人」を離陸させる「譲渡を通しての領有」が発見されるのを待たねばならない。



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