福祉レジーム論を弁証法的に読み解く -- 魔物とダンスを踊るには

 この論考は、読者がエスピン-アンデルセンの「福祉レジーム論」を把握していることを前提に書かれている。



福祉レジーム論の背景 -- 近代化論と新古典派経済学

 1980年代のアメリカをごく単純化すれば、広義の近代化論と新自由主義が世論を席巻した時代だった。アメリカの社会科学においても、発展段階論と新古典派経済学が結びついて、社会主義に対する資本主義の勝利を高らかに宣言するとともに、アメリカを歴史の「最先端」だと信じて疑わない風潮ができていた。

 ここに登場したのが、エスピン-アンデルセンである。彼は「福祉レジーム」(当初は「福祉国家レジーム」と呼ばれた)という概念によって、発展段階論と新古典派経済学の双方を批判した。発展段階論は発展の経路が一つだけだということを前提にしているが、エスピン-アンデルセンは三つの発展の理念型を提示し、福祉資本主義の多様性を示した。また、新古典派経済学の前提は、経済はほかの領域から独立しているということだが、彼は政治的な歴史によって経済構造の作られ方が異なることを明らかにした。

 エスピン-アンデルセンの業績を、単なる比較政治学として理解してはならない。彼の福祉レジーム論の学問的意義は、当時のアメリカ社会科学の風潮を問い直し、アメリカ社会科学をヨーロッパの学問的蓄積と接続させることにあったのである。


福祉レジーム論の構造 -- 量的分析と質的分析の接続

 当時のアメリカ政治学の文脈では、システム論的な研究が主流を占めていた。あらゆる国家の政治を「政治システム」として抽象的に把握することで、それぞれの国家の質的な差異を無視して量的な比較研究をすることができるようになる。また、「政治システム」という考え方は、政治システムと経済システムの分離を前提としている。ゆえに、アメリカ政治学は、発展段階論と新古典派経済学の風潮と共にあったと言える。

 しかしエスピン-アンデルセンは、このような政治学の在り方を問い直した。政治と経済は別個に論じられるものではないし、それらを包括した「レジーム」は国家によって異なって当然である。加えて、確かに量的分析は重要で強力ではあるものの、それは質的分析によって意味づけられない限りは空虚である。

 そうして、彼は量的分析と質的分析を接続し、政治・経済・文化が一体となった「福祉レジーム」を見出そうとする。彼はあらゆる統計データを指標に換算して量的な比較を試みるが、その背景では、膨大な歴史知識・制度知識・学問知識に裏付けられた質的な比較が行われる。彼の主張する「三つの福祉レジーム」は、確かに量的分析によって検証されたが、本質的には、質的分析によって見出されたものに他ならない。


“decommodification” が意味すること

 さて、ここからが本題である。エスピン-アンデルセンの用いた指標に “decommodification score” というものがあるが、これは何を意味するのか。ほとんどの訳書では「脱商品化スコア」と訳されるが、これは適切な訳ではない。 “de - commodification” はあくまで「非 - 商品化」であって、その在り方の両極に、 “pre - commodification” (前 - 商品化)と “post - commodification” (脱 - 商品化)があると考えるべきだろう。

 教科書的な理解では、 decommodification のレベルが低い自由主義レジームに対して、そのレベルが高い保守主義レジームと社会民主主義レジームが対立することになる。しかし本当は、 “commodification” (商品化)の進んだ自由主義レジームを中心として、 “pre - commodification” (前 - 商品化)の段階に留まろうとする保守主義レジームと、 “post - commodification” (脱 - 商品化)へ突き抜けようとする社会民主主義レジームが対立しているのである。保守主義レジームと社会民主主義レジームは、質的な差異を抹消された「非 - 商品化」の指標ではともに高レベルになるが、その方向性は逆を向いている。

 「脱 - 商品化」の社会と「前 - 商品化」の社会は決定的に異なっている。たとえば、前者ではあらゆる人間が働く権利を持っているが、後者では女性や若者に働く権利がない。「前 - 商品化」の社会では、労働組合を組織して市場原理に対抗しようとする結果、働く権利(貨幣を手に入れる権利)を不平等に分配せざるを得ない。保守主義レジームは、貨幣を手に入れるために自らを商品化しなければいけない状況において、それすらも許されない人々を構造的に産出する。

 ここに、福祉レジームの弁証法を見出すことができる。「市場」という魔物に対して、労働組合や産業規制を活用して抵抗するのが保守主義レジームであり、彼らの課題は「市場」を機能させないことである。それとは対照的に、自由主義レジームでは「市場」をあらゆる領域に解放し、市場原理を徹底的に機能させようとする。そして、これらのアウフヘーベンが社会民主主義レジームである。なぜなら、社会民主主義レジームでは「市場」を機能させつつ乗りこなそうとするからである。


魔物とダンスを踊るには

 端的に言って、市場は魔物である。旧来の共同体秩序を解体し、人間を含むあらゆるモノ・コトを「貨幣」を媒介にした秩序へと引きずり込んでいく。その魔物は人間の〈魂=主体性〉を虎視眈々と狙っており、隙あらば人間を資本の〈客体〉に堕とそうと襲い掛かる。

 魔物の力はあまりに強く、共同体秩序を維持しようとしても解体は避けられない。むしろ、市場のダイナミクスに影響を受けて社会が変化するなかで、共同体秩序をかたくなに維持しようとすれば、社会と共同体秩序のあいだに真空を生み出すことになる。その真空には、移民やシングルマザーなど、最も立場の弱い人々が吸い込まれていくだろう。

 だからといって、魔物に対して無抵抗でいるならば、我々は資本の〈客体〉へと堕ちてしまう。エスピン-アンデルセンが批判した新自由主義とは、まさに資本を〈主体〉へと祭りあげる宗教であり、人間の〈魂=主体性〉を魔物に売り渡す契約でしかなかった。その契約によって人間が手に入れるのは、資本の自律運動によって生み出される商品群と、商品にしか価値を見出せなくなる貧困化した感性である。

 魔物に抵抗しようとしても、魔物に魂を売り渡しても、結局のところはバッドエンドが待ち受けている。だとしたら、襲い来る魔物とダンスを踊るしかない。魔物を踊らせつつ、自らも踊ること。市場を活用したうえで、市場のオルタナティブを常に活用できること。〈主体性〉の回復という社会科学の夢を、エスピン-アンデルセンは「社会民主主義レジーム」に託したのである。


■ 参考文献

  • G. エスピン-アンデルセン, 1990=2001. 『福祉資本主義の三つの世界』. ミネルヴァ書房.

  • G. エスピン-アンデルセン, 1999=2000. 『ポスト工業経済の社会的基礎』. 桜井書店.

  • G. エスピン-アンデルセン, 2009=2022. 『平等と効率の福祉革命――新しい女性の役割』. 岩波書店.

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