「金の煙草入れ」-- 原始共同体の時間と世界
アイヌの伝承から覗き見る異世界
「現存する過去」という時間意識
我々のような近代人、すなわちレヴィ=ストロースの言うような「熱い社会」に生きる人びとは、現在を中心にして「抽象化された無限の過去」と「抽象化された無限の未来」からなる直線的な時間意識を持っている。そして、その直線的な時間の中で、エリアーデの言う「聖なる時間」すなわちハレの日がたまに現れる。聖なる時間は、俗なる時間と交代するように現れ、そしてまた俗なる時間に交代する。現存するのはどちらかの時間のみであり、聖なる時間が俗なる時間を支えているわけではない。時間そのものに意味はなく、意味があるのはその中で生じる出来事である。俗なる時間が意味の基盤を持たないことによって近代のニヒリズムが発生したわけだが、それについては割愛。
原始共同体の時間意識は、我々のそれとは決定的に異なる。聖なる時間すなわち神話は、確かに遠い過去の出来事ではあるが、現在の俗なる時間の裏に常に潜在していて、それを支えているのである。過去とは過ぎ去っていくものではなく、常に現存し、俗なる時間に生きる人びとに意味の根拠を与える。聖なる時間は、いわば「無時間的」であり、あらゆる俗なる時間からの参照点として機能する。流れていく俗なる時間と、その裏で恒久的に潜在する聖なる時間。この二つの時間は、たびたび混ざり合い、現実に神話が登場するとともに、現実が神話化する。神話が不動の参照点となって俗なる時間を支えつづけること、これこそが原始共同体が「進歩/変化」を嫌う理由であり、「冷たい社会」となる理由である。
藤田が指摘するように、「金の煙草入れ」では、はるか昔の出来事が、まるでつい最近の出来事かのように語られる。神話は、このようにして俗なる時間に現れ、意味の基盤となっているのである。ここには世界中の原始共同体に共通する、「現存する過去」という時間意識が見られる。アイヌにとって社会とは、変化する俗なる時間と不変の聖なる時間の総合であって、何か意味のある出来事が発生する舞台ではなく、それ自体が意味に満ちているのである。
参考文献
藤田護, 2020. 金成マツ筆録ノートのアイヌ語口承文学テクストの原文対訳及び解釈 : 金田一京助宛ノート散文説話「金の煙草入れ (konkani tampakop) 」
真木悠介, 2003. 時間の比較社会学. 岩波書店
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