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重要なのは情報ではなく愛である

知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。

コリントの信徒への手紙一 8章 1節b

情報化社会という言葉があるように、最近は情報至上主義の傾向がある。しかし、情報の量は氾濫しているが、インターネット上のそれは玉石混交である。
しかし、何が本当で何が嘘であるかの判別は、又聞きではなく一次資料を確認することや、意見が割れている場合は、すべての立場の情報を吟味することが重要であるが、一次資料であっても、その判別がなかなか難しいこともある。

しかし、情報に囚われすぎないよう、注意する必要があると思う。先に引用した聖書の言葉の通り、情報や知識は、この世で渡り歩くために有用かもしれないが、人を高ぶらせるものだ。そして、本当に大切なものは情報や知識などではなく、愛であるからなのだ。

この世には 100% 完璧というものは、まずない。仮に 100% 完璧な情報があったとしても、それを人間が目や耳を使って取り入れるときに必ず解釈が入る。その過程でバイアスがかかったりもする。聖書というものも、実は一つの情報なのだ。しかし大切なのは、聖書の字面ではない。そこに込められた神様の愛こそが重要なのだ。
イエス・キリストは聖書の中で、当時の聖書学者を厳しく批判している。それは、聖書の知識、情報にいくら詳しくても、愛を受け取っていないことに対する愛の訓戒なのだ。

では、愛は、どのように受け取ったらよいのか。それは、「信じること」である。信じる心がないとこに愛はない。信じるとは、情報の真偽を見定めるという意味ではない。信用する、信頼する、心を預ける、ということだ。

神様の愛は無限大である。そして、私たち人間の愛は、すべて神様から注がれたものだ。神様を知らなかった(実はそれは忘れているということ)としても、人から愛を受けたのであれば、その出所を源をたどっていけば神様に行き着く。その究極が救い主イエス・キリストである。

実は、悪魔は情報を巧みに使って人を惑わす。たとえば、神の子イエス・キリストをさえも、悪魔は聖書の言葉を引用して巧みに誘惑する。マタイによる福音書 4 章、ルカによる福音書 4 章を読んでみてほしい。そのやり方は、情報としては本物を与えておいて、誤誘導させるのだ。本物の情報を大半にして、一部分だけ誤情報にして誤誘導する、という手口ある。
それを見抜く一つの方法は、愛があるかどうかである。
金銭や利得などが絡むかどうかも一つの判断基準となるかもしれない。
(そんなわけで、この note はこれから先も一切有料コンテンツは含めない)

今、読んでいるこの文章も、欠陥だらけの人間が書いたものにすぎないが、いただいた愛を分かち合うために書いている。
最後まで読んでいただき、誠に感謝。
主イエス・キリストの愛と恵みがあなたと共にありますよう†

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