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オカルトと都市伝説の庭で「科学と神」を考える

 なんと奇妙なタイトルだろう…。オカルトや都市伝説と「科学」は対極にあるし、その科学と「神」も相反する存在なので、果たして同じテーブルに載せることができるのか、書き始めの段階ではまったく予見できない。「神のみぞ知る」は大袈裟だが。

◇ 約5,200文字

アインシュタイン

 "科学と神"というタイトルは、学生の頃に好きだったフジテレビの深夜番組「アインシュタイン」の、最終回でのテーマ名である。このアインシュタインという番組は、Wikipediaによると「1990年10月から1991年9月まで放送された30分枠の科学情報番組」(なんと、30年前!)で、当時は、めちゃくちゃ高価だったCGを駆使した番組構成となっていた。
 そのバーチャルなスタジオ空間も含め、いち学生の知的好奇心をガシガシと刺激して止まない番組だった。「それが、『超大統一理論』です」とテロップが出て感銘しても、肝心の中身はまったく理解できていないという、不思議な満足感に浸っていた時代を思い出している。
 そんな、アインシュタインの最終回で考察された科学と神から始めたい。

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「アインシュタイン」での松尾紀子アナ

 万有引力の発見で有名なニュートンだが、天体が慣性の法則で動き始める初動については説明できず、それを神の最初の一撃と表現したのが17世紀のことである。少し逸れるが、宇宙の起源であるビッグバンの発生について、不確定性原理の揺らぎの概念で説明がつきそうなことを教えてくれたのも、このアインシュタインだった。
 18世紀末では、"天体力学"を読んだナポレオンは、「この書物には神の記述が無いようだが」と、著者のラプラスに問いただした際に「私の書物には、そのような仮説は必要ないのです」と答えて以降、科学は神との決別によって爆発的に研究が進んだとされている。
 そして20世紀になると、アルベルト・アインシュタインが(量子力学における)ミクロの世界での素粒子の確率的存在への批判として、「神はサイコロを振りたまわず」と述べたことは有名である。
 やはり、神という存在を排除することによって、科学は学問の地位を確立してきたように見える。

 番組内で「神の3要素」についての定義を紹介していたことをが、いまでも印象に残っている。それは、以下の3つである。

1.天地創造
2.生命創造
3.人類創造

 宗教に関係なく「この世を創ったのは神である」という共通認識を示しており、この創造を実現できる存在が"神である"とされる。(宗教によっては、この3つが実現可能な創造主とコミュニケーションできる存在も、神に含める場合がある)
 番組で例として挙げられていたのが、ロボット工学+人工知能研究+バイオテクノロジー+神経生理学の融合による「コンピューター生命」であった。30年前と言えば、まだ Windows95 すら存在しない時代であり、AIが実用化される遥か以前だが、当時すでに、周囲の環境から資源を集めて自己増殖する機能を持った<生命創造>を予見していたのには驚きだ。その新たなコンピューター生命を創ったのが人類であれば、人類は彼らにとっての神であると言える。
 また、そのような生命体と人間の意識を融合した不死の存在として、異なった<人類創造>をするかもしれない。その時には、既存の人間は用済みの存在となっているのかも知れないが、創造した人間を神とする定義は当て嵌まるだろう。


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創造主としての神

 ここまで科学的な側面での神を考察してきたが、一般的に"神"といえばイエス・キリストである。3つの創造について列記したが、それではキリストは創造主なのか?と問われれば、半分は「イエス」と答えておきたい。キリストなだけに。
 いや、くだらない駄洒落は別にして、キリストが生まれる前から世界も文明もあったので、キリストが創造主であるという断定は"厳密には"間違いだと言って差し支えないだろう。

 ダーウィンの進化論のような人類の進化は誤りだと認識している理由は後述するが、もし仮に、「古代文明」を考える で詳述した(第10惑星ニビルに生息している)知的生命体のアヌンナキが我々の創造主であり、キリストがアヌンナキと近しい存在であれば、キリストを創造主と言えるだろう。
 それがアヌンナキではなく、火星に生息していたとされるアクァッホでも構わないし、地球との繋がりが深いプレアデス星人でも問題ないが、我々の創造主と密接な関係であれば、それを神と定義して良いのである。
 ギリシア神話で様々な愛憎劇を繰り広げる多くの神々は、一見すると我々の創造主には見えないのだが、彼らも創造主に仕えている存在だとするならば、やはり神なのだと言えよう。ただし、アッラーは唯一神なので、こうした考えはイスラム教徒には受け入れられないと思われる。

 キリスト教は全世界で20億4千万人の信者を有しているが、日本人では105万人ほどであり、明治維新以降は人口比で1%を超えたことが無いのだという。同16億人のイスラム教に至っては1万人程度であり、日本は先進国でも他に類を見ない無信教の国である。
 そのような、一神教が浸透しなかった最大の国である日本では神道が中心であり、国民は無意識的に(?)八百万の神と寄り添いつつ、仏教も取り入れて生活している不思議な国である。つまり、創造主が誰かなんて気にしない国民性が根づいているのかも知れない。


進化論の黄昏を超えて

 いままでに何度となくダーウィンの進化論を拒否してきたが、この1~2年で「人類はダーウィンの進化論に則って進化してるのではない」と言う人が増えるようになった理由を記しておきたい。

 進化論の「自然選択」と「適者生存」による進化は数万年かけて徐々に進行するので、実証実験による検証ができなかった。しかし、近年では大腸菌を用いた研究や様ざまな生態系の考察から、進化の過程で「棲み分け」されていることが確認された。
 さらに最近、米国によるDNAの断片解析によって、現在の地球の生命数の90%が約20万年前に出現したことが判明し、生物が何億年もかけてゆっくり進化してきたという学説は否定されてしまった。
 大半の生物が、顔にあたる部分に2つの目と口や鼻をもった生体のまま「平行進化」する説明が出来なかった理由が見つかったように思える。(現在でも、ダーウィンの進化論を学校教育で学ばせているのだろうか?)

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 そうなると、進化論でのミッシングリンク(進化の不連続性)を持ち出すまでもなく、およそ20万年前に創造主が生物の発生を企てたと考える余地が出てくるのではないだろうか。

 人類は、地球で生存することに適していない生物だとされている。暑さや寒さなどの環境変化に弱く、地表に降り注ぐ紫外線に対して皮膚は過敏であり、頭部の大きさから出産にはリスクを伴うし、自然発生するウィルスなどの病原体への耐性も非常に低い。
 人間の体内時計が約25時間なので、現実とのギャップがストレスを抱える原因の1つになっていることは聴いたことがあるだろう。また、自分も含めて腰痛に悩まされている人は多いと思われるが、それは地球の重力に骨格がマッチしていないことが理由の1つとも言われている。

 ちなみに、地球の自転周期が23時間56分であるのに対して、火星では24時間37分と40分ほど長い。そして、火星の重力は約37%なので腰への負担は少ない筈である。だからと言って短絡的に火星に起源があるなどとは論じないが、火星をテラフォーミングしようする原動力には、我々のDNAが関係している可能性があるのかも知れない。


人間原理宇宙論

 神の3要素で天地創造について触れなかったのには理由がある。自分がオカルトやスピリチュアルへと拡大解釈してしまっていて、最初のパラグラフには相応しくなかったのである。その根幹部分に触れておくべきだろう。

 ここで、ジョンホイーラーの「遅延選択実験」(delayed choice experiment)という思考実験を紹介したい。以下で言うハーフミラーとは、製造工程で透過率を調整して半分の光が反射するような鏡のことである。

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光源から出た光がハーフミラー1で2つに分けられ、それぞれ鏡1と鏡2で反射し、ハーフミラー2で1つにまとめられる装置を考えてみる。
ここで、(左図のように)射出されたのが1粒の光子だったとしても、量子論では光子が確率的に経路上AとBのどこにでも存在する理屈なので、ハーフミラー2で状態がまとめられると、(射出された光子が1粒だとしても)理論上では観測者Aも観測者Bも光を観測することになる。


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ハーフミラー2を外して1粒の光子を射出した場合では、選択的に観測者AとBのどちらか(左図の場合は観測者B)が光を観測する。
次に、光子がハーフミラー1を通過して、経路AかBの何れかに存在していることが確定したのちに、ハーフミラー2を挿入したらどうだろう?
こうした状況の変化を作り出したとしても、実は観測者Aと観測者Bは両者ともに光を見るのである。

 これは何を意味しているのかと言うと、いつハーフミラー2を置くかという意思によって、いったん確立している経路を(あたかもハーフミラー2が最初から設置されているかのように)過去へ遡って変えてしまうことを示している。つまり、意思による観測は過去を変えるということになる。

 重力定数、光速度の定数、強い相互作用の大きさなどは人間に都合が良すぎる数値であり、それらが僅かでも異なっていたら人類は宇宙を観測することさえできなかった。これは、有り得ないレベルの偶然だ。
 それに対し、思考実験のような逆の発想によって、観測することで過去に遡って定数を都合の良いように確定させるパラドックスが成立する。それが人間原理宇宙論であり、その行為の結果を<天地創造>と称している。天地創造というよりは、宇宙創造と表現したほうが正確なようにも思えるが。


神は一緒に存在している?

 いまの人類が観測するという意思によって、宇宙を過去に遡ってそのように創造したと考えるほうが自然なのだが、それでは"人類が神である"という結論になってしまい、どうにも不遜な気がしてならない。
 「次元上昇」を考える でも少し触れたように、我々に見えている空間は、天地創造によって都合の良い定数で構成されているだけであり、他の生命体で見えている宇宙とは、まったく異なる姿なのではないだろうか。つまり、いま我々が観測している宇宙は人類にとって観測可能な範囲の一側面であって、時間や波動のベクトルを加えた高次元では「まったく違った宇宙」として存在しているのではないか、と感じている。
 そして、いまよりも一段階上の次元を認識することによって、我々は創造主の一片を識ることができるようになるかも知れない。

 紹介してきた「アインシュタイン」の最終回は、最後のナレーションで次のように放送を終えている。「この100年間で科学は神に向かって飛躍的に進化し、100年前に神がいると予想された場所を遙かに超越しました。それでも、神はずっと彼方にいるように思えるのは、我々には追いつけない存在だからでしょうか。それとも、本当は昔から、ずっと一緒にいたのでしょうか…」
 神が一緒に存在しているという概念は、素晴らしい着眼点に感じる。おそらく、それは無信教である我々にしか持ち得ない類のものかも知れない。

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 アンゴラに生まれたシメオン・トコは、キリストの再来と言われた人物だった。どれほど残虐な殺害方法で命を狙われても絶命することなく、66年間の生涯で数多くアフリカ人を救い、多くの奇跡を残して、自分の死期を悟った1983年12月末にこの世を去った。
 そして、(彼が没した時期に前後して)「日本の東北地方に生を受けた男性が、宗教間対立で荒廃した世界の救世主となる」という、ポール・ソロモン氏の予言がある。その予言も30年近く前に発せられているが、最近になって耳目にする機会が増えてきているのは、いよいよ、その時が近づいているからなのだろうか?

 単なる都市伝説だろうとは思いつつも、そのような30代半ばの青年が、本当にメシアとして東北地方に生まれ育っていたら…と空想すると、思わず気持ちが高揚してしまう。「上京したその青年は、中央線の同じ車両に乗っている彼なのかも知れない!?」なんて。
 その本人は、自分の使命やパワーを自覚しているのだろうか?創造主の存在を知っているのだろうか?どこかで人知れず、その時が来るのを待っている状態だろうか?4次元以上の空間を認識しているのだろうか?知りたいことは幾らでもある。
 もし、そんな青年が身を潜めるとするならば、日本は好都合だろう。なぜならば、周りが神様だらけであり、ずっと一緒に寄り添っている「八百万の神の国」なのだから。
【了】

シリーズの目次と序文は コチラ です!


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