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月記(2021.09)


9月のはなし。



某流行り病対策の二撃決殺をしてきた。ハチャメチャに熱が出た。健康でヘルシーに生きるというような昨今の潮流とは相容れない、ハチャメチャ生活をしている僕であるが、インフルエンザのような派手な病気にかかることはなかった。だからこそ、今回のハチャメチャな発熱には衝撃をうけた。辛いとかを通り越して、もう何もできない。僕はただの生温い肉塊なのだと、生命であるという尊厳などもはやなく、ただ床の上に在るだけなのだと。そうやってやたらと早く進む時間を過ごしていた。自重を支えるのにもエネルギーは必要、心臓を動かすのにもエネルギーは必要、頭を回すのにもエネルギーは必要。視界の端っこにすっからかんのエネルギーゲージが見えた気がする。ただよく考えてみたら、こんな風にひたすらになにもせず過ごしたのは久しぶりだったかもしれない。システムアップデートのための強制再起動とは、こういう感じなのだろうか。ひょっとするとこれは噂の「整う」というやつの一種に数えられるのかもしれない。サウナのように何度も通いたいものではないし、できることなら二度とごめんだが。

そういえば、こうした高熱等の影響で、高額な買い物をしてしまうという症例がタイムラインで散見された。この手のミーム的笑いの源流となれる人は尊敬してしまう。僕の部屋には新しい楽器が増えている。まあそんなことも含め、改めて、ごめんである。



「平成」はテレビの時代としてはじまり、少しずつインターネットに食い荒らされ、荒野が広がった。やがてこの荒野は「令和」と名付けられることになる。そんな令和の荒野に降り立ったアイドルグループ「RAY」のメンバー二人が、「平成」を振り返る配信をしていた。

この平成談義を聞きながら、どこからついていけなくなるかの「ジェネギャ耐久マラソン」をしていた。僕は「花より男子」のあたりで脱落した。2005年、ここはまさに僕がインターネットにすっかり食われてしまい、自らのジョブを「アキバ系」だと強く認識した頃だ。教室で後ろの席のヤンキーに怯えながら過ごし、放課後には図書委員の友人と共謀して、図書室にライトノベルを入荷したりしていた。図書室の中にいる限り、僕らは無敵だった。キモオタ特有の内弁慶スキルだ。気づけば「アキバ系」なんて言葉は希少種になってしまったような気がする。

2005年の僕に教えてあげたい。君はそのままでいい。教室の前のほうの景色なんて、無理して知ろうとしなくていいんだよ、と。…いや、この助言は未来を大きく歪める可能性がある。やめておこう。今のルートはそこまで嫌いじゃない。



「結局、人を動かすのは、怒りだとか、強い感情なんだよ」という言葉がずっと引っかかっている。こういうとき、もうちょっと冷静に戦い方を考えようよ、みたいなことを言ってしまいがちなのだが、これはいわゆる「トーンポリシング」というやつなのかもしれない。ただ、僕の中に駐在するトーンポリスは、執拗に冒頭の言葉を捜査し続けている。

そういえば、ちょうど2年前の今頃だったか、「情の時代」というテーマを掲げた大規模な芸術展に足を運んだ。あの芸術展も、まさに強大な「情」の力によって揺らぎ続けていた。閉ざされた扉には色とりどりの付箋が貼り付けられ、それぞれに言葉が書かれていて、それぞれが強烈な「トーン」を宿していた。僕も一枚の付箋紙を貼り付けた。いまの感覚をもって、あのときの名古屋にもう一度訪れたなら、僕はどんな「トーン」を付箋紙に記すのだろうか。なにか気づけるものがあるのだろうか。

別に付箋紙でなくても、僕がいまキーボードやスマートフォンで入力しているこのテキストたちにも、「情」は宿っている。テキストはテキストでしかないが、それ故に、託されたものを様々な境界を越えて運んでいくことができる。ひとかけらでも、そこに「情」が残っていることに気づけるようになりたい。



ふと、47都道府県を全部言えないことに気づき、ちょっとへこんだ。

そのへこんだ勢いのまま「制県レベル」を測ってみたところ、レベル98という結果が出た。本州以外が弱すぎる。とはいえ、アキバ系くんにしては、ちゃんとおうちの外に出て、秋葉原以外にも行って、成長したほうだと褒めてあげたい。



いつかの夕暮れ時、発電所から伸びてきている太い送電線を眺めながら、ある人が言った。「なんで他所の奴らのために、こんなもん押し付けられなきゃいけないんだろうな」。このときのことを、時折思い出す。そのときなんと答えたかは、未だに思い出せない。おそらく僕は、あの送電線からやってきた電気に生かされた。



TIFのことを調べていたら、バーチャルTIF出演者の中に知った名前を見つけた。Vtuber「小森めと」。かつて頻繁にアイドル現場に参戦していたことを公言しており、自ら3Dモデルでライブイベントに出演した際には、振りコピ仕込みのダンスだけでなく、VR空間ならではのカメラワークを活かし、夢のあるステージを見せてくれた。普段は「引きこもりニート担当」というとんでもない肩書と共に、エッジの効いたトークを繰り広げている彼女だが、3Dライブを見たときは素直に感激してしまった。TIFは彼女にとって、まさに夢の舞台だったであろう。残念ながら、台風の影響で10月1日の出演は中止となってしまったが、代わりに個人チャンネルで登録者16万人記念配信を行ったとのこと(ついでに配信中に17万人を突破)。よろしくどうぞ。

ちなみに、めっさんはデビューして約1年半ほど、3Dモデルでの本格的なライブも今年1月に初めて行った(はず)なのだが、今回のTIF初出演者応援企画において、まさかの中間順位2位にランクインしている。これはファンが気合を入れているということなのだろうか。中間順位1位の「有閑喫茶あにまーれ」も、小森めとと同じ運営会社「774inc.」所属の先輩グループであり、そこの箱推しみたいな力も働いているかもしれない。


そういえば、Vtuberのファンコミュニティの空気というのも独特なものがある(といってもサンプル数は少ないのだが)。僕はライブアイドルのファンコミュニティという、これまた独特な集団に出入りしているわけだが、かつて体感していたアニメや声優等のファンコミュニティとも異なる趣きがそこにはある。去年TIFがオンライン開催を余儀なくされ、その中でバーチャルTIFというものが生まれ、ライブアイドルとバーチャルアイドルに接点が生まれた。バーチャルアイドルという括りの中には、Vtuberだけでなく、アニメ・ゲーム・声優コンテンツと関連したユニットなど、様々なバリエーションがある。そして今年、ついに有観客会場(配信有)でTIFが再開し、同時にバーチャルTIFも行われ、これらが混じり合うことになる。去年のTIFオンラインが、ある意味ライブアイドルにとってアウェーだったとするなら、今年のTIFはホーム&アウェイ開催とでもいえるだろうか。ファンもそれぞれの会場を行き来するようなイメージになる。現地にいる人も、タイテの隙間にスマホでバーチャルTIFステージを楽しむことができる。これによって、不思議に溶け合う部分、摩擦が生まれてしまう部分など、いろんな現象が見えてくるような気がしている。

これは、コンテンツそのものだけでなく、それを取り巻くファンコミュニティのことを気にしてしまう悪癖から生じる話なのだが、未だに上手くやれない。意識して自制することもあるのだが、この悪癖を消し去ってしまうと、また別の問題が浮上してくるようにも思う。上手くやりたい。



青山月見ル君想フにて行われた、クロスノエシス単独公演「幻日」。月見ルは何かとクロスノエシスにとって大事なステージだ。この日も披露された「VOICE」という曲に「巡り合った 月の下 何度も交わした あの約束」という歌詞がある。連打されるバスドラムの衝撃と共にこの歌詞を聞いていたら、視界の左上に見える入り口に、初めてクロスノエシスを見に来た僕の幻影が見えた。この曲のとき、ステージ上のあるメンバーが泣きそうな顔をしているように見えた。どうやら「ヤバかった」らしい。ちなみに僕もヤバかった。

シングル発売、そしてワンマンライブ開催も発表された。

個人的には、この一連の展開に「夜明け」のイメージを感じている。直近の曲にも「夜が明けて」という歌詞が登場しているのだが、それが示す先には何があるのだろう。



月夜のベーカリー🌖第三十八夜。カメラの話題が出てきた。

https://stand.fm/episodes/614885e29fc96000065dfa3a

ハーフサイズカメラを所有している月日さんだが、この頃iPhoneで撮る写真もお好きらしい。写真の構図的な好みとしても、俯瞰で記録的に撮ることから、クローズアップして自分の着眼点を強調する撮り方を楽しむようになったらしい。この話を聞きながら、道具(カメラ)の個性と、使用者の個性の相互作用について考えを巡らせるなどした。

僕は道具については、なにかと種類を複数揃えたくなってしまうタイプだ。カメラも気づけば色んな種類のものを所有している。デジタルカメラについては全体的に値が張るので、ある程度で収まっているが、基本的に中古品ばかりのフィルムカメラは、ヴィンテージ的な人気商品でなければ、わりとお安く手に入れられてしまう。イニシャルコストが安いという罠に、僕は見事に引っかかり続けているのである。野生動物だったらとうの昔にジビエ一直線だ。

よく、異なるカメラで撮影した同種のフィルムによる写真を並べて見比べる、ということをやる。色味だとか解像感だとか、光学的な要素からくる仕上がりの違いも面白いのだが、それに加えて物理的な要素からくる「撮れるものの違い」というのがかなり楽しいのだ。

例えば、一眼レフ機はそもそもデカい。ぶら提げているだけでも存在感があるし、目線に持ち上げて構えてみれば、周囲からのチラチラ視線攻撃からは逃れられない。しかしそれに耐えれば、高性能なレンズを活かして、寄り引き自在に様々な画を撮ることができる。ただし、猫なんかには構えているうちに逃げられたりする。一方でコンパクトカメラは、レンズカバーをスライドさせ、せいぜい数段階のゾーンフォーカスレバーを合わせ、シャッターを押せばよい。猫に息つく暇を与えない。お前はもう、撮れている。反面、多くのコンパクトカメラはあまり寄ることができないため、小さいモチーフを見つけたときにはもどかしい思いをする。

使い始めはこうした特性を理解できず、ミスショットを連発する。それが少しずつアジャストされていき、次第にどのカメラを持っているかによって、周りを見る「眼」の質も変化していく。無機質なはずの道具が、身体の延長のような存在に変わっていく。この感覚が僕はたまらなく好きだ。服を着替えて気分が変わるように、道具を持ち替えることで身体感覚が変わる。写真の数だけ、僕の「眼」があるのだ。なぜ身体はひとつしかないのだろう、と嘆くことも多いのだが、もしかするとこの道具との付き合い方は、嘆きに対してのささやかな反乱なのかもしれない。



新宿BLAZEで聴いた「わたし夜に泳ぐの」。「儚さに もう焦がれないで」という歌詞が、初めて聴いたときとは別物に聴こえていることに気づいた。

今年も既に9か月が過ぎた。それだけ僕の細胞は弾けて生まれ変わっているのだから、曲の聴こえ方が変わるのも、何ら特別ではないことなのだろう。




矢川葵さんと初めて話したとき、「あんまりキラキラしたアイドルじゃないけど、末永くよろしくね~」と言われたことがとても印象に残っている。そうは言いながらも、彼女の笑顔は眩しかった。久しぶりに画面に現れた笑顔も、相変わらず眩しかった。いま僕の部屋には、9月号が飾られている。翌月も、楽しみだ。

井上唯さんの誕生日。彼女の誕生日だというのに、なぜか手紙を返してもらえるという逆プレゼント企画のことを思い出す。また、彼女は助演だったが、バスツアーのときに「コアラ食べる?」とコアラのマーチを差し出されたこともよく思い出す。なんでもなさすぎるやりとり、そのなんでもなさが、忘れられない。誕生日が終わって、彼女は静かに姿を消した。そんなところも彼女らしいな、と思った。

「和田輪です。」という名乗りを読んだとき、目頭が熱くなった。この名が在るということ。そこに過剰な想いを載せすぎるのもどうかとは思うが、この名が微かにでもなにかに繋がっていて、この先もなにかに繋がっていくことを、嬉しく思う。いまも僕は、彼女に教えてもらった眼鏡を通じて、世界を見ている。

コショージメグミ改、古正寺恵巳。そういえばあの曲にも「改」という文字が足されていた。あの日、真っ白になった服を着替え、やっぱり髪の色も変わった彼女の姿は、わかってはいたけど、どうしようもなくかっこよかった。同時に、あの素敵な笑顔もまた見たくなった。僕は、彼女に憧れている。


もうひとつ。

9月のはじまりというのは、自ら人生を終わらせる人が増える時期だと言われている。毎年その頃に、逃げておいで、と声を上げる人がいる。命を救うことを看板として掲げている人でなくても、いや、むしろそうした看板を掲げる必要などないということ、そこに意味があるのかもしれない。


祝福だとか、呪いだとか。そういうものは、部屋のすみっこ、道路の脇、スマートフォンの向こう、いろんなところにあるのだと思う。おそらくは、ひとつの「そういうもの」として。僕は、「そういうもの」たちのことを話したいのかもしれない。たまたま祝福に見えたものも、呪いに見えたものも。まだどっちかよくわからないものも。そんなことを漠然と感じながら、清いとも汚いとも言えない町で、ふらふらと9月を暮らした。




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