なぜ「自分で読み返したくなる記事」は書けないのか
「自分で読み返したくなる記事」は存在しない
「自分で読み返したくなる記事を書こう!」
ブログなどのネット上に公開する記事を書く際に、コツやアドバイスとして用いられがちな言葉だ。
私はブログを始めた当初にネット上で文章の書き方を調べて、こういう言い回しに何度か出会った。
だが、私の経験上、どれだけ一生懸命に書いても、そんな文章は生まれてはこなかった。
自分の記事は理由なく読み返したくはならない。むしろ低品質で恥ずかしい。
ずぶの素人が書く文章なんてそんなものだ。開き直ることではないけれど、現実として思っているほど上手に文章は書けない。
書けば書くほど、良いものが生まれる確率は上がるが、低品質なものが生まれてしまうリスクもある。
むしろ更新頻度が高ければ高いほど評価されやすいネット上では、低品質なものを生み出してしまうリスクと向き合っていくことが、活動を続けるために必要なことではないのか。
自己嫌悪に陥ったり、執筆を断念したりすることもある。
公開していたものを修正したり、非公開にして書き直したくなったりもする。
それでも書き続けるのが、ネットで発信する上での最低条件であり、発信しない者には隠された精神的戦いなのだ。
「高品質な記事を書こう!」の言い換え
そんな状況下で、「自分で読み返したくなる記事を書こう!」は個人的に意味のない言葉だと思う。
あまりに現実とかけ離れていて、アドバイスとして不適当だ。
この言葉はつまるところ、「高品質な記事を書こう!」の言い換えである。
だがたとえ言い換えたとしても、そもそも素人へのアドバイスとして、なぜそんなことを言うのか。
始めたての初心者に対して、「高品質なものを書け」と言っても、どうしようもない。書いているうちに上手くなるのだから、全然具体的じゃない。
おそらくは、低品質な記事ばかり量産する意識高い系への警句だと思う。
アドバイスする中で、とんでもない無能に出くわし、その憎悪を募らせたことでもあるに違いない。
でも、もしそれがただの妄想だとしたら、そんな仮想敵を作ってまで何がしたいのか、私にはいまいちわからない。
少なくとも自分自身を無能扱いしてくるのは嫌な気分になる。とんでもない無能のほうがマイノリティだろう。
偉ぶることで有能アピールをして、他人からの評価を不当に得ようとしているようにしか思えない。
たとえ低品質でも書いていい
たいていの人間は頑張って記事を書く。がんばった上でつまらないのだから、他人がとやかく言うことじゃない。
ネット上のコンテンツは埋もれる運命にあるのだから、低品質なものなんて放っておけばいい。
「質が良いものについては評価し広めて、質が悪いものについては看過し許容する」のが、ネット上での良識あるマナーではないだろうか。
この言葉をアップデートするなら
「自分で読み返したくなる記事を書こう!」
この言葉を、別のキャッチ―な言葉へと変換し広める必要性は感じない。
そもそも無理に短く押し込めた極論として発信するから、表現として雑になってしまっている。
だがそれでも、その中身である考え方自体はアップデートしなくてはならないだろう。
まず前提として、「がんばって書いたのなら何を公開してもよい」。
これについては、ここまでの文章で十分述べられたように思う。
そもそも高品質なものを生み出し続けるのは難しい。やる気があればあるほど、アウトプットが増える分、低品質なものも増える。
だったら、品質については、自分で評価するのではなく、周囲の反応にゆだねる他ない。
自分の常識には想像以上の価値がある
そして、私がもうひとつ付け足したいのは、「自分が読み返したいと思わなくても、他人にとってよい記事は存在する」ということだ。
自分にとっての常識と、他人にとっての常識は、別である。
自分にとって当たり前のことでも、他の人にとっては意外性があったり、価値があったりするものなのだ。
だから、何を書いたっていいし、書いてみないと価値があるかどうかはわからない。不確実性にこそ面白さがある。
時には、自分にとって当たり前すぎることを書くことも、頭の整理になって面白いかもしれない。
それがたまたま他の人にとって価値の高い情報だったりすれば、誰かにとっては、書かれる価値のある記事だったことになる。
「自分で読み返したくはならない」ほどに当たり前であっても、誰かにとっては「何度でも読み返したいもの」になったりすることもある。
自分にとっての新奇性が、他人にとっての価値につながるとも限らない。
逆に自分にとっては陳腐に見えても、他の人から見れば新奇性が高く魅力的なものに見えたりする。
これが、「自分で読み返したくなる記事」を評価基準にすることの矛盾点だろう。
自分にはつまらない。でも他人にとっては面白い。こういうものは無数に存在する。それを当てるのが、ネットで考えを書くことである。
そういう魅力的なものが生まれる可能性を、根っこから否定するような思想は、私はあまり好きではない。
「自分で読み返したくなる記事」という偶像を作り上げて、そんな雑すぎる表現をまるで真実のように、ネット上で流布される状況は好ましくないと感じる。
もっと自由に、何でもいいから、いろんな人がアウトプットする社会のほうが、生きていて楽しい。
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