仕事中毒と見捨てられ不安「妻の一言で変化した暮らし」
先日のノートで書いた2023年前期の振り返り。
こちらの記事の冒頭で、2022年にワーカホリック(仕事中毒)になったと書いています。
今日は自分がワーカホリックになった理由について記します。
僕自身、ぼうっとしていたい人間で、基本的には自分のことをナマケモノだと思っていました。
学生時代はダラダラ生きていましたし、20代に入ってフリーターの期間が長く、当時は「いかに楽して生きるか?」ばかりを考えていたダメなやつだったんです。
気づけば、数年間休みがないほどの仕事中毒になっており「あれ? いつからこんな状態に!?」と自分で戸惑う事態に。
結婚後、急に勤労スイッチがオンに
現在40代の僕ですが、30代半ばで結婚しました。
新婚期間の半年はのんびり過ごしていた記憶があるものの、そのあと仕事に打ち込むようになります。
それまでやってきた仕事がどんどん派生していき、チャンスが巡ってきたこともありますし、「稼がないと!」と張り切っていたんでしょう。
そのタイミングで「一緒にやりませんか?」とお仕事で声を掛けていただく機会も増え、評価してもらえたのが嬉しかっんです。
コロナ禍に突入した2020年ころから、約3年は一年の365日ほぼ休みがなく、朝から晩まで寝る直前まで、仕事に打ち込んでいました。
今、振り返ると、この頃の僕って明らかに強迫的な働き方をしていたんですね。
頑張っていない自分には価値がない
僕は愛着に傷がある人間なので、様々な不安を抱え怯えながら今も生きています。
妻と結婚できたことは、僕の人生で最大の幸運なのは間違いないのですが、結婚後、「妻に見捨てられたくない」という思いがあったのかもしれません。
今回は割愛しますが、過去の恋愛体験で色々あったため安心感に飢えており「仕事を頑張っていない自分には価値がなく、そんな男は捨てられる」と感じていたのでしょう。
仕事は刺激的で楽しい部分もありましたが、いつも切迫感があり、目を吊り上げながら必死に走り続けていました。
心から仕事を楽しめていた実感はなかったですね。
2022年パンクしそうになり生き方を変える
2022年の年末。過剰な頑張りがたたって心身のバランスを崩しそうになりました。
何をしても楽しくなく、ぼんやりともやがかかった状態で現実を見ていました。
飲み会に出ても、周囲の人は笑顔で楽しそうに笑っていて、空気を感じ「あっ、自分も笑わらないと」と思うのですが、顔が引きつり笑えません。「なんで、みんなはこんなに楽しいんだ?」と酒を飲みながら、考えていました。
「このままいったら、もう働けなくなる」と思い、勇気を出して妻に「しばらく収入が減ることになるけど、それでもいい?」と尋ねました。
妻は「全然大丈夫! 今まであなたが頑張って働いてくれた蓄えもあるし、ゆっくりでいいよ」と温かな笑顔で、僕を安心させてくれました。
この瞬間、ふっと力が抜けて「働き方、生き方を変えよう」と決意し、緩めることを意識するようになりました。
生真面目なので、緩めるのは今でも苦手。上手くいきませんそれでもなんとか暮らしの中に余白やゆとりを作るようにしたんです。
愛着に傷を抱えていると、「○○をしていない自分には価値がない」という思い込みに捉われ、自分軸ではなく他人軸になる生き方になることがあります。
「○○をしていない自分は無価値」という考えの根本には見捨てられ不安や自己蔑視があります。
2023年に入ってもあのまま走り続けていたら確実に、心がパンクしていたでしょう。
妻の一言と勇気づけによって、過剰で強迫的な頑張りを捨てることができましたが、そこにいたるまで3年以上、費やしたと思います。
今までは「仕事の依頼には、120%応える」みたいな姿勢で頑張っていましたが、ようやく今年になって、「依頼を断る」を覚えました。
心理学の本をよく読みますが、つくづく人間は無意識に突き動かされており「自分がなぜその行動をとっているのか?」に無自覚だと自分の行動から痛感することが多いですね。
仕事をするために自分がいるんじゃなくて、自分という存在がまずあって暮らしの中に仕事があるというのを、今一度、肝に銘じたいと思います。
「多忙は怠惰の隠れみの」という言葉がありますが、ゆとりをなくすことで、重要なことをから目を背け、見て見ぬふりをしている人達は、僕も含めてきっと多いです。
愛着不全の人ほど、拭い難い寂しさが根底にあるため、色々な依存症になりやすいそうです。
ワーカホリックは、仕事への依存。
多忙な日々を送れば、自分と向き合う時間を減らせるので、愛着不全の人ほど、無意識にそういった逃避行動を選びがち。
大事な問題から、目を背ける時間を増やそうとする心理が働きます。
愛着不全の人は、防衛のために回避行動を度々とるのですが、僕の場合、その一環が仕事中毒という形で表れていたのでしょう。