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ドーナッツの穴を探し求める日々⑤大学院生の頃

ドーナッツの穴の存在はもうすっかり忘れちゃった。
やっぱり夢を追いかけるのに必死だったから。
でも空洞にクリームを入れられるのだったら、穴の開いたドーナッツよりも美味しいかも。ないよりはあった方が良い。存在を知ってしまったらもう元には戻れない。そんなクリームとの出会いなのでしょうか…?

大学生の時の夢

大学生になって入ったサークルの一つは、高校生の頃から興味のあった国際交流ボランティアのサークルでした。
そこでサークルの仲間と一緒にカンボジアに行って、いつしか私の夢は青年海外協力隊の栄養士隊員になることになっていました。
同じ夢を持つ先輩や同級生がいたことや、栄養士ではなかったけど、隊員の活動を現地で直接見られたのが大きかったのだと思います。
青年海外協力隊に行くには、管理栄養士として3~5年の実務経験と、英語ができる条件があり、私は常にそこを目指して勉強するようになっていました。

大学院2年生になったばかりの4月、私は1つの目標にしていたTOEFLを初めて受験しました。英検やTOEICは受けていましたがTOEFLは初めてでした。

結果は惨敗でした。SpeakingもListeningもWritingもReadingも、全く中身を理解できませんでした。
緊張していたのもあるかもしれませんが、もう少し勉強すれば何とかなるかもしれないとはとても思えないレベルでした。

海外で数日は一人でも困らずに過ごせるようになっていたし、大学の同級生には頼られるくらいになっていたと思っていたのに、それと海外で英語を使って別の例えば栄養学を学ぶとか、英語を使って仕事をするって言うのは全く異なる次元なのだと思い知りました。

私には、英語は向いていない。そもそも日本語だってまともに使えていない。
100%読むのに困らなくても、日本語で自分の気持ちを適切に書いたり、自分の想いを人に伝えられるように話したりできていない。
コミュニケーションに難を抱えていた私が、別の言語を習得しようなんて無理だったのだ…完全に心が折れました。

挫折した日の出会い

その日の帰り、何もする気は起きず、珍しく早い時間帯に、放心状態で住んでいた駅まで帰ってきました。ずっと気になっていた飲食店に、引き込まれるように、ふらっと立ち寄りました。
そこで働く男性に私は一目惚れしました。

中学生の時の恋の話は書きましたが、その後も色々な恋がありました。
人生に影響するほどの出来事はなく、長くなるので割愛しましたが、この時も大学3年の時から3年ほど好きだった先輩がいたけど、もう脈なしだと分かっていて、いい加減にもう諦めないといけないと思っていた時でした。
大学生になってアルバイトを始めて、出会いは増えていたけれど、それでも学生の間に出会う人の世界は狭かったのだと思います。
合コンに誘ってもらえたこともあったけど、飲み会のノリは苦手だったので、そこでの出会いが次に繋がることはありませんでした。

こういう時には自分でも自分の行動にびっくりしてしまうのですが、この日に連絡先を教えてもらい、次の日には連絡し、そこのお店でアルバイトすることを決めていました。その日から毎日彼に会い、メールのやり取りをし、1週間後にはもう付き合うことができました。
こんなに早いペースで両想いになれたことは、今までにありませんでした。
もう運命だとしか思えませんでした。完全に浮かれていました。
彼は私が理想としていたデートの夢をいくつも叶えてくれました。
話や趣味はそんなに合っていなかったのかもしれないけど、私の行きたいところに付き合ってくれて、食べるのが好きで料理が上手ければ、もうそれで良かったのだと思います。
中学生以降ずっと勉強とアルバイト、そして叶わない恋ばかりしてきた私には、大した趣味もありませんでした。

そして最も大切だったのは、全く気を遣わずにいられることでした。
それまでの好きな人といる私は、いつもドキドキで緊張感の塊で、自分の最も良い状態だけを見せたい無理している私しかいませんでした。
彼には最初から回転寿司をお腹いっぱい食べる私を見せられました。
父親といるような不思議な感覚を抱いたこともありましたが、思春期以降、父親とはどう関わって良いかよく分からなくなっていたので、子どもの頃に何も考えずに父親に甘えられていた時のような私になっていました。

彼のお店と私の住んでいた場所は歩いて15分ほどだったので、それから修了するまでの約1年間、夕飯は彼のお店に食べに行き、他のお客さんとも仲良くなって話したり、アルバイトをしたりしていました。
仕事の後は、彼が私の家に泊まりに来ることも多く、半同棲のような状態で過ごしていました。

青年海外協力隊に行くことは、恩師や両親などから、もともとあまり賛成されていませんでした。そこに英語は無理だと悟ったタイミングでの彼との出会いがあり、その後に伯父が急逝した出来事なども重なって、一旦熱が冷めていました。

長かった学生生活の終わりが見えた

大学院に通っていたことでできた人間関係に助けられ、コネ的な感じで就職先が決まりました。
就職先に急性期病院を選んだのは、大学院で学んだ中で、研究は嫌いではありませんでしたが、やっぱり直接人と関わりながら、目の前の人に何ができるかを、患者さんから学びながら、少しでも患者さんに対してできることがあったら良いなと思う気持ちからでした。
恩師は医療・介護保険の制度を変えるくらいの力を持つ人だったので、恩師の力で栄養療法が病院で取り入れられ、日本中の患者さんの栄養状態の改善に貢献されたと言っても過言ではありませんでした。
その力の大きさは本当に尊敬していました。
恩師についていれば、もしかしたら私もそうなれた可能性もあったかもしれません。
それでも、目の前に対象の方がいないところで研究をするというのは、私にはどうしてもやりがいを見出せませんでした。
恩師からは心配されていました。
すでにゼミの先輩が退職をしたことでできた募集の枠に入る形になったからでした。
身体を壊さないうちに、やめた方が良いと入る前から忠告されていました。

栄養士の場合、中途半端に大学院に進学すると就職先が見つからなくなると噂されていたこともあったので、就職できたこと、長かった学生生活を終えて社会人の一員として働けること、ずっと勉強してきた知識を活かしていけることは本当に嬉しい気持ちでした。

やっと自分で働ける

管理栄養士として就職したことで、長かった学生生活が終わり、ようやく大人になれたように感じました。
仕事に慣れて、一人前に仕事をこなせるようになるまでには、ここからまだ何年かかかったのですが、とにかく一気に大人になれたような気がしていました。

社会人1年目は残業が禁止されており、早番や遅番はありましたが、ほとんど定時で帰宅させてもらえていました。
帰ってからも病気の勉強や集団教室の練習はしていましたが、寮に入って通勤は徒歩10分程の場所に住んでいたので、時間は有り余っていました。
高校生から大学院生の間の10年ほどは、空いている時間さえあれば、アルバイトをするか試験に向けた勉強をしていた私だったので、急に自由な時間がたくさんあり、戸惑いました。

あまりに近かったのもあって、帰ってからも仕事とそれ以外の時間の気持ちの切り替えが上手くできませんでした。
何かをしていないと「あの仕事は、あのやり方で大丈夫だったのだろうか。」「あの患者さんは何であのように言ったのだろうか。それに対する自分の返事は合っていたのだろうか。」そんな考えが浮かんでは消えてを繰り返して、一人で反省会ばかりする毎日でした。

病態、栄養の勉強は本や論文をある限り読みましたが、実際の業務での難しさは病態や栄養の知識では解決できませんでした。
気を紛らせるために、スマホで後輩に教わったゲームに没頭していた時期もありました。

この頃はとにかくこの病院で先輩方のように働けるようになること、
それが大人として、ずっと目指してきた管理栄養士として一人前になることなんだと信じて疑いませんでした。

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鮮明に覚えているようで、意外と記憶が途切れ途切れになっており、書いては戻って付け足したりしながら書いたので、読みにくい部分もあったと思います。
なんだか中途半端なところまでですが、一旦区切ります。
いつもありがとうございます。
読んだと教えてくださるリプが本当に嬉しいです。
皆さんのnoteもゆっくり読みに伺いますね。



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