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【エッセイ】尖ったまま勝つ美しい人生論



0.まえがき

この文章は、行き場のない本音の埋蔵地として、ある種の自傷行為として、剥き出しの純白を守る鉄の檻として、ここに残す。
ニルヴァーナのアルバムを静かに拝聴し直すような消極的臨死体験だ。

LAで生まれ東京で育った今までと、NYに旅立つこれから、その他あらゆる境界線の山折り谷折りを再確認しながら、「二元論的な問いの集約化」という形でそれらを保存・昇華できたらと思う。

今回は僕の中の茫洋とした人生観を場当たり的に解きほぐしていく過程をただ垂れ流すので、青臭さやある種のナルシズムに耐性のない人はこれ以降見ないでほしい。

僕は僕の中の気障な"BLEACH"をほんの一握りの人たちに向けてだけ卍解しておきたいのだ。
初見殺しの斬魄刀でもご丁寧に説明の機会を与えるのが"BLEACH"であり、そこにはメリットデメリット以上の美学がある。
そしてそれは僕の"Nevermind"の原型にもあたるのだ。(※ニルヴァーナのアルバム『BLEACH』『Nevermind』を参照)

さて、僕の今までの人生とは、
吹き溜まった鬱屈と理想を慎重に少しずつだけ折り進めて、一つの折り目も違えることなく美しい紙ヒコーキに仕上げていく様な、そんな感じだった。
その紙ヒコーキに乗っていま、海を越えようとしている。

僕の慎重さは、もはや直感でつけた折り目でさえ黄金の長方形を成してしまうほど、大脳基底核に鋼の規範を刻んでいる。
そしてこれが、臆病な準備電位を生んでいるとも十分に自覚している。

だがそれでも、ここまで来られたのだ。
僕は僕の折り紙を間違えなかった。
周りが色付きの折り紙を何枚も折り直している間、一枚の純白を生まれ故郷に届く紙ヒコーキにして退けたのだ。

恐らく僕は、
性懲りも無くこの紙ヒコーキをまた広げ直して、今度はクシャクシャな折り鶴でもつくり始めるのだろう。
こうなったらもう、"何と何を折衷して次の形を目指しているのか"説明書が付け切れない。

そしてそれこそが僕の、"僕だけの"人生の醍醐味であると確信している。
止揚の保存から二律双生の混沌時代へと突入する。

そんなこれからに期待しながら、
2回目の人生でもまた"海を越える紙ヒコーキまで"は折り直せるよう、27年間の折り目を一つ一つ順に解体していく。


1.生産と消費

ここから、"尖ったまま勝つ"ための二元論的問いを保存していく。

一つ目の問いは「普段何に喜びを感じているか」である。

ただそう聞くと、
美味しいものを食べる時や綺麗な景色をみる時、映画をみる時や音楽を聴く時など、様々な状況が思い浮かぶだろう。

しかし、尖ったまま勝つために必要な喜びの考え方とは、
「生産の喜び」か「消費の喜び」かの二元論である。
先述した喜びの代表例たちは、全て「消費の喜び」であり、端的に言うとそれらには"生産性がない"

そう考え直した上で、それでも消費の喜びが日常を満たしている人は尖ったまま勝てない。

そもそも「勝つ」とは、
より多くの点を決めることであり、より多くの需要に供給することであり、それを実現できる場所に居続けることである。
そこには常にイノベーションがあり、FW的なフィニッシュのクリエイティビティとエゴイスティックな期待感がある。生産性の塊だ。

よくFWは、安全にパスを出していれば簡単に点を取れていた場面でも、思いっきりシュートを打ちに行ってしまうことがある。
しかし、それに有無を言わせないくらいの"畏怖"を纏った状態こそが"尖ったまま勝つ"姿勢なのだ。

最近、世界的DF内田篤人が「サッカーはFWを頂点に下手クソは後ろに下げられる、DFはみんな落ちこぼれ 」と半ば自虐的に言っていたのだが、ある意味本質だと思う。

綺麗事を抜きにして、やはりスポーツの醍醐味は"点を取ること"である。
チームがあって勝利があることは重々理解しているものの、正直僕は「点に絡むポジション」としか心が通わない。

特に次の時代は、点に絡む(生産の)喜びを知っていないとボールに触わることすらできなくなるはずなので、
まずは目の前の「好き」を消費から生産に転換させることから始めるべきだ。

例えば、映画や音楽をただ"消費"するのではなく、フィルマークスやプレイリストで"批評を生産"してみる。
そうすることで初めて、「評論家気取りの自分」を客観視でき、説得力を付けるために自分の中のクリエイティビティと向き合うことができる。

そこで育てた自我の強さや選択の偏りこそが"尖ること"であり、その先に"勝ち"への渇望が必ず生まれる。
よく「やりたい事がない」という人がいるが、本気でこだわった結果、何者にもなれない怖さから逃げているだけだ。

これは僕の自論だが、大抵のことは習慣化すれば必ず点に絡めるようになる。
僕が何かコンテンツを消費する時は、必ず「自分ならそれをどうしたか/今後どう活かせるか」を考える。
むしろそのために消費すると言っても過言ではない。

だからもし、音楽が好きだけど歌手になれない自分が今そこにいるのだとしたら、せめて自分の人生の讃美歌だけは生み出してみる、もしくはその一端を担う努力をしてみせよ。


2.主観と客観

二つ目の問いは「何かを決める時、どのような判断基準をとっているか」である。

ここでの尖ったまま勝つために必要な判断基準の考え方とは、
「主観が大きい」か「客観が大きい」かの二元論である。

僕は"尖ったまま勝つ"ためには主観が少なくとも過半数を取っていなければならないと考えている。

しかし、主観で生きるというのは、社会的動物の人間にとってリスクを伴うのも事実である。
だからこそ、「主観で過半数を取るためにどの客観を選び取るのか」という考え方が必要なのだ。

僕の感覚では、まず確固たる"主観のA"がそこに存在し、周りに"客観のB,C,D…"が集合している。

まずはその中で最も主観と客観が重なるベン図を選び取り、最初に過半数が取れる"AB"のような環境をつくる。
「何かを決める」時、この前提があるか無いかで、"尖ったまま勝てるか"がある程度決まる。

その上で、"本当に選びたい客観"で過半数を取るために、主観を育てる必要がある。
それが"尖ったまま勝つレベル"に直結する。

そこでようやく、"客観を選ぶ判断基準"の話に移行できるのだが、僕が考える客観を選ぶ判断基準は「ニッチorマス」である。

例えば、EXILEやジャニーズに憧れてそれら的なカッコ良さを目指す男性(主観A)が、EXILEやジャニーズが好きな女性陣(客観B)と付き合いたい場合、主観Aも客観Bもマスなので、A∩Bの範囲はかなり広く取れる可能性が高い。つまり主観で過半数が取りやすい。
地方の恋愛縮図である。

しかし、EXILEやジャニーズに憧れてそれら的なカッコ良さを目指す男性(主観A)が、Suchmosが好きな女性陣(客観C)と付き合いたい場合、A∩Cが一気に取りづらくなり、実現可能性が低くなるのは理解できるだろうか?

これがニッチとマスの考え方、つまり主観Aや客観B,C,D…の円の大きさと分布位置の違いである。

この俯瞰を以て、主観がどの位置にあり、どのくらい広げることで、選びたい客観の過半数が取れるかを考えるのが"尖ったまま勝つ"の考え方なのである。
尖ったまま勝つ人は基本的に"選ぶ"もしくは"選ばせる"側であり、"選ばれる"側ではない。

そして最も重要なのは、"過半数を取る"というのはギブアンドテイクを強制するということではなく、客観に対して圧倒的ギブができる状況をつくるということなのだ。

この話が次の「仕事と恋愛」にも繋がっていく。


3.仕事と恋愛

最後の問いは、そのまま「仕事と恋愛どちらの優先順位が高いか」である。

抽象度をグッと下げた最後にして最大の難問だが、尖ったまま勝つために必要な優先順位の考え方とは、
「仕事」か「替えの効かない恋愛(ガチ恋)」かの二元論である。

正直、最後だけ僕の偏りが強いのは否めないが、
この問いの肝は、ガチ恋してもいい人がいるかである。

そもそも"尖ったまま勝つ"とは"妥協しない"ということなので、優先順位をできるだけ絞って集中すべきという根底がある。
だから基本的に僕は、時間対効果が高い方に優先順位を据えた方がいいと考えている。

それを当てはめると優先順位は「仕事」である。
「仕事」はサイエンスで"絶対"があるので、時間と成果がある程度比例する。
一方「恋愛」はアートなので、"絶対"がなくギャンブル的要素が強い。

しかし、"ガチ恋"という感覚が恋愛にある場合限り、その規範が崩れてしまう。
それはつまりアート/ギャンブルに100%のサイエンスを目指させるということなのだ。
そして、その可処分精神を時間に換算すると、その絶大さから逃れられない。(五条悟が封印された獄門疆の条件プログラムと同じである。)
このロマンをやり切る覚悟がないなら仕事を優先した方がいいに決まっているというのが僕の見解である。

驚くべきことに、僕はこの考え方を青年期からずっと持っていた。
無理矢理にでも恋愛をしに行く生き物とされる青年期にそれがなかったので、客観的事実としてどのコミュニティでもLGBTの気を遣われるほどミステリアスな存在となってしまっている。笑

ただ、その原因を正直に自己分析すると、
少年期から普通にモテたせいで、垢抜けてからデビューするはずの青年期過程で盛ることができず、恋愛の定義が"ハプニング待ちのアート"から、"フィーリングとタイミングのサイエンス"に変わってしまったというそれだけである。(人生にはどうやら3つのingフィーリング・タイミング・ハプニングがあるらしい笑)

前提に取捨選択がある時点でガチ恋ではないという意見は何度もいただいたが、「人類初の糖分摂取か」と思ってしまう。こちらは人生最後のスイーツを真剣に考えているだけである。

またこの事実が、この文章をニルヴァーナ的消極的臨死体験と称したことにも一部繋がるのだが、
僕は意外にもガチ恋してもいい人には普通に出会っており、それらがNY行きとともに全て終わることともちゃんと向き合っている。

"尖ったまま勝つ"なら、恋愛対象の客観に主観で過半数をとらなければならないという理屈なのだが、
そもそもこの過半数を埋める過程で僕の主観は当たり前のようにNYに行かなければならないのだ。
僕の中でガチ恋をサイエンスするための絶対条件はフィーリングとタイミングを両方取ることなので、日本でのそれは最初から矛盾が起きていたことになる。

この背反二律を乗り越えて、背反双生に移行するというのがまさに"クシャクシャの折り鶴"なのである。

これでもし僕が今まで、ガチ恋的支配に侵されて間違った折り目を付けていたとしたら、今ごろ紙ヒコーキは太平洋の藻屑となっていただろう…。

最後に、
この二元論的問いの締め括りがなぜ、それぞれの"集約化"といえるのか、
それは「替えの効かない恋愛」がNYに「仕事」の紙ヒコーキを飛ばすとも言えるからだ。

結局アートには抗えない。
それでもそのアートは必ずサイエンスを生み続ける。

僕はこの結末を美しいと思う。


4.あとがき

この文章は夜にふと思い立って本当にただ殴り書いた。
この場当たり的な解きほぐしが漠然とした不安に立ち向かうために必要な作業だったのだ。

「行き場のない本音の埋蔵地として、ある種の自傷行為として、剥き出しの純白を守る鉄の檻として、ここに残す。」という書き出しの通り、
僕が美しいと信じている生き方を再確認する意味も込めて、解体書的に上手く落とし込む事ができたと思う。

今ざっと読み返してみると『La La Land』を観れば済む内容だったなとも思うが。笑

この"BLEACH"を以て、自分と誰かの新しい人生が好転することを願う。

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