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【風(おと)と官能 】第8回 映画「アマデウス」60分 de 映画考察 〜『モーツァルトの至高性』著者:酒井健先生〜

芸術に野生を取り戻す内なる旅のマガジン【風(おと)と官能】第8回は、2022年11月に青土社より『モーツァルトの至高性 音楽に架かるバタイユの思想』を出版され、バタイユ理解に「モーツァルト」という新しい視点を加えた、フランス文学者の酒井健先生にお話を伺いました。今回は映画「アマデウス」の文化的・哲学的考察を中心に、対談させていただきました。

と、ここでなぜ映画『アマデウス』なのか?
そう思われた方もいるのでは。

実は、本書には『アマデウス』の一場面を例にとって説明されている部分が多数あるのです。なので本書をより理解するための一助として、この対談を読んでいただけましたら幸いです。

さらに、バタイユ好きな方(むしろ今までちょっと苦手に思っていた方も)、モーツァルト好きな方、映画『アマデウス』を観たことがある方や映画ファンの皆様にも読んでいただけたら嬉しいです。

何よりも『アマデウス』という映画がいかに哲学的示唆に富み、映画というジャンルだけでなく他の文化芸術にとっても重要な映画なのか、酒井先生の考察によって実感できる内容となりました。この記事を読了した後、もう一度映画を観たいなと思って頂ければ大成功!これほど嬉しいことはありません。

対談場所となったのは、とあるカフェの一角。午後4時半、夕食と賑やかな語らいを求めてやって来る人々はまだそれほどいない時間帯。私は先んじて先生が現れるのを待っていました。暖かなカフェの黄色い明かりとその窓から見える空の青が、徐々にコントラスト強めになっていきます。午後5時、夜のはじまりに心躍らせながら対談開始となりました。バタイユ、モーツァルト、至高性、魔笛……脈々と受け継がれてきた芸術談義をする私たちの席の横を、ネコ型の配膳ロボットが軽快な4ビートの音楽を刻みながら、滑らかに往来していました。

(以下、酒井先生(敬省略)=酒井、越水=越水)

出発点:モーツァルトからバタイユは語れる?

越水:先生が2022年11月に出版されたご著書『モーツァルトの至高性 音楽に架かるバタイユの思想』を読みまして、先生の考えているモーツァルト像に深く共感しました。すでに序文から・・・「モーツァルトとバタイユに橋を架けたい」という一文からもう痺れてしまって。まずは、バタイユの研究者である酒井先生がこの本を書かれたきっかけを教えていただけますか。

酒井:2つ理由があります。ひとつは、バタイユに音楽論がないこと。前々から音楽論がないことはバタイユの欠点なんじゃないかという人が結構いたのです。でもバタイユをよく知っている人ならわかると思うのですが、バタイユはジャズも好きだし自分でも歌を歌ったり、音楽にも感受性を持っていた。そういう面をもう少し紹介したいということで。もうひとつは、私個人としてモーツァルトがとても好きで、それは今でも続いていることなので、自分の中のモーツァルトと隠されたバタイユの面を繋げて、ひとつ世に問うてみたいと思った。それによってバタイユとモーツァルトの両方に何か新しい面が照らし出されればいいな、そういうことを期待して書きました。

越水:私は本を読むまではバタイユとモーツァルトに共通点があるという発想は全くなくて。今はとても納得できますが。

酒井:バタイユって本国フランスだと、キリスト教思想に真っ向から反論した人という感じなんです。だからバタイユはダメ、無理、という方もフランスにはたくさんいて。でも日本では、キリスト教という先入観抜きでおもしろおかしく思われていて、変わった文章で奇をてらったり、谷崎潤一郎を読むようにバタイユに接近していった。まあそれはそれで全然かまわないし、いいと思うんだけど、ただそれだけじゃ勿体ないと思う。一方でフランスの方も、ただキリスト教文明と対決した人だと思ってしまうのも勿体ない。

越水:なるほど。バタイユの表面だけ見ると奇抜だったり反キリストだったり、そういうところだけに思えるけど、その奥に広がる世界があるということですね。そしてそれがモーツァルトと繋がるところがあると・・・実は学生の頃に「フランス文学演習」という授業があって、そこでバタイユの『マダム・エドワルダ』と『眼球譚』をやったんですが・・・

酒井:だいたいその路線だなあ。

越水:その時も、やはりバタイユの官能性だけがクローズアップされていたようなところはありました。ただもう唖然とさせるのが目的のような。でも『眼球譚』の最後のシーン、あの太陽降り注ぐセビリアの教会での悪行には、もはや行くところまで行った清々しさというか神聖さすら感じてしまって。でもそれを授業で思い切って言ったら、先生が「え…そう?」ってドン引きしちゃって。クラスにひとりだけ「でも何だかわかるような気がします」と言ってくれた子はいましたけど。なので、バタイユってそういう作家なんだと思い込んで今まで過ごしてきました。でも、先生の本を読んだ時に「ただ過激なだけじゃなくて、私の好きなモーツァルトとも繋がる」とわかって驚いて。というのも『魔笛』を始めとするモーツァルトの、特に後期の作品には、無邪気で楽しげな音楽の奥底に不可思議な力を感じて、その圧倒的な生命力に打ちのめされるように思わず涙が出てしまうので。バタイユの小説もそれと同じで、根底の思想はキリスト教世界のさらに下にある「蠢(うごめ)く何か」であり、それをもっと大事にした方がいいんじゃないの?と言われているような気持ちになりました。

酒井:そう、それです。

越水:良かった。読み違えていたらどうしようかと思いました。

酒井:バタイユを読んでいけばいくほど、古今東西にかかわらず人間の本質的なものを突いていると感じられる。そのバタイユの本質的部分とモーツァルトという音楽家とが非常によく接触していると思っていて。彼らは同じものを見ている――そういうところがある。これは第一に私自身がそう感じていることでもあって、つまりモーツァルトが好きだという自分とバタイユが好きだという自分、それって別々のものではなくて結局は同じところを目指しているなと。その気持ちをまず紹介したかったのです。

越水:その同じものが「至高性」というわけなのですね。

酒井:この言葉はバタイユが表わしている言葉だけれど、もちろんバタイユの専門家達はちゃんと知っているんですよ。でももっと広く、バタイユのよいところを一般的にも理解してもらいたいなと思って。

越水:バタイユが本当に言いたかったことを。

酒井:そうです。これはとても重要なことです。そしていまだに語られ続ける必要があると思っています。

越水:モーツァルトもこれまで膨大な研究書が出ていますよね。モーツァルトはすでに語られ尽くされた、なんて思われるほどたくさん本が出ている。それでも、まだ見渡せない部分があると思っているんです。それこそモーツァルトの本質を示す言葉は、どうしてもひと言で表現できないものがあって、でも、だいたいみんな同じことを思っているんですがコレというものにたどり着けていない、そんな面白さがあるんです。例えば『モーツァルト叢書』シリーズの中に『モーツァルトの諸相』という本があるのですが、そこでモーツァルトの死後、様々な音楽家や研究者がモーツァルトの本質に対して言葉を連ねている。不思議とそこには共通点があって、なぜか「深淵」とか「空洞」とか「真空」とか「空の青」とか、ある種の「からっぽ感」みたいなものを感じているんですね。ですが、いろいろ言うわりには「これがその核心だ」という適切な言葉がない。そうか「至高性」という言葉があったか!と思いました。ちなみに私のモーツァルトの高みのイメージは、人が呼吸できないほどの高山です。エベレストのような植物も生えないほどの空気が薄い場所を思い出します。

酒井:『ツァラツストラはかく語りき』にある、半島の高い尾根をひとり行くところみたいですね。ブルクハルトってご存知ですか。バーゼル大学でニーチェの同僚だった人です。彼はニーチェの高さをやはり高山で表現しているんですよ。ニーチェのことを「あなたは高山を行く人、高い尾根を行く人だ。僕は麓からあなたを見上げている」と。そんなイメージ?

越水:はい。「ジュピター交響曲」を聴くにしても、宇宙!木星!キレイ!というより、もっと身近な地球上の、険しさや厳しさのある高山地帯みたいな場所を想起してしまいます。近くて遠い場所というか。

酒井:私はその高い山の頂の視点とはまたちょっと違った視点にも関心があるんですね。本にも書いたのですが、映画『アマデウス』から話してみます。

越水:はい(待ってました)!

場面考察① シカネーダーがモーツァルトに伝えたかったこと

酒井:『アマデウス』で私が一番好きなシーンなのですが、モーツァルトの友人シカネーダーの一座が、自分の持っているバーレスクな劇場で「ドン・ジョヴァンニ」とか「フィガロの結婚」のパロディをえげつない演出でやっている場面がありますよね。モーツァルトは自分の家族を連れてそこへ観に行くんだけど、そこで観客に、なけなしの金を払ってやってきた民衆たちに、自分の曲が歌われ愛されていることを知る・・・

越水:あそこはすごく微笑ましいし、憧れる場面です。現代でもあんなふうに一体感を持って歌えるようなオペラの場があったらいいなと思います。奥さんは戦々恐々としてますけど笑。

酒井:あれはつまり、だんだん「溶けて」いっているということなんですよ。

越水:溶けてる・・・

酒井:これは『眼球譚』の最後、あのセビリアのどうしようもない、この上なくえげつない場面と繋がっているんです。どういうことかというと「下の方に行けば行くほど、本質的なものに出会う」ということなんです。それをシカネーダーがモーツァルトに教えた、そういう場面なんです。

越水:なるほど。

酒井:シカネーダーという奴は、もの凄く頭がいい人なんですよ。彼はモーツァルトが気づく以前に、世間的に「下」といわれている民衆たちがどこで泣くか、どこで感動するかを痛いほど知っていた。彼は本もたくさん読んでいたし文化も知っていて、旅もしていたので知見は広かった。文筆家でもあった。シカネーダーはモーツァルトを同じ穴のムジナだと思っていた。お互いに身分も高いわけじゃない。でも彼はモーツァルトなら民衆の泣き所を共有できるはず、わかるはずと思っていた。シカネーダーはモーツァルトに「君はもっといいところを出せるよ!」と言いたかった。

越水:映画の中にもそういうセリフがありますね。「きみが活躍する場所は宮廷じゃない、ここだ!」

酒井:ここがシカネーダーの感性の素晴らしいところです。奥さんはもう嫌でたまらないんだけど、奥さんとモーツァルトの二人がそれまで追い求めてきた「お金と地位」では測れない世界に感動がある、このことをシカネーダーはモーツァルトに示唆した。モーツァルトは「本当の自分の場所はここかもしれない」ということが、身体でだんだんわかってくる。あの場面がすごく好きなんです。

越水:あの場面でのコンスタンツェは「あなたの作品をこんな三文芝居にして」って憤慨していますけど、モーツァルトはもう、お客さんにつられて笑っちゃってますよね。

酒井:そうなんです。観客の若い女性が目を丸くしながら周囲の民衆と感動の渦に入っていくところがすごくいい。そしてともに自分のお子さんも面白がって観てくれて。

越水:あそこに子供がいるというのも、いいんですよね。

酒井:自分のことをバカにされると腹立つ人と、自分がバカにされることで何か新しいものが見えてくることを認める人と。ここは大きな分岐点ですよね。

越水:そうかもしれませんね。

酒井:『アマデウス』でのモーツァルトという人は、他人からバカにされていくたびに新しい面が見えてくる、そういう人間に描かれている。それこそが大切なんだとシカネーダーが教えてくれるんです。シカネーダーは実際、人からケチョンケチョンに言われたりフリーメーソンをクビになってみたり、確かにとんでもない奴なんですけど、世間に笑われるたびに何かに目覚めていった、そういう人なんですよ。

越水:シカネーダーは本当に魔術師ですよね。

酒井:本当の興行師ってああいう人なんですよ。何より人を愛している。そしてその人の本質を表に出すことができる。それが本当の興行師。モーツァルトがそういう人に巡り会えたというのは本当にツイていたと思う。あの頃モーツァルトは売れなくて、貴族に飽きられていた。で、「コイツ干されてるな」ということでシカネーダーはモーツァルトに目をつけた。

越水:改めて考えると、パロディの場面には深い意味があったんですね。子供の頃は「この場面、何でこんなに長いんだ?」と思ってました。

酒井:あと当時のウイーンにはシカネーダーのアウフ・デア・ヴィーデン(フライブルク)劇場の対抗馬となる劇場がもうひとつありましたよね。

越水:ブルク劇場・・・ではなくてケルントナートーア劇場ですか?

酒井:そっちと張り合うには、どうしてもモーツァルトが必要だった。シカネーダーは常に最前線で戦っていましたから。

越水:当時のエンタメの最前線で。

酒井:シカネーダーは一座にメシを食わさないといけないんです。でも同時に芸術的に高いものも目指そうと思っていた。それを支えるウィーンの民衆の熱さとレベルの高さを実はわかっていたからです。『アマデウス』のバーレスクな舞台って、とにかく下劣ですよね。お尻からウインナー出てきたりして。でも民衆たちは歌わせると超一流で、彼らは自然にハモれるんです。逆に宮廷の人間たちというのは、確かに文化は知っているかもしれないけれど内容はわからない。身分は高いんだけど感性のレベルは低い。でも民衆は、身分は低いんだけど感性は立派だ。ここでモーツァルトを使えば、その両方を満たすことができる。低さに降りてゆきながら高さを満たす、それがモーツァルトならできることを見抜いていた。シカネーダーがいてくれて晩年のモーツァルトは幸福だった。

越水:本当にそう思います。いやファンとしては(そうであって欲しい)。

酒井:私自身は、モーツァルトの生涯って、早死にしたけどすごく幸福だったんだろうって思っています。死の床で、いま上演中の自分のオペラを「今、あの曲をやっている頃だ」って思いながら死んでいける・・・最高じゃないですか。

越水:自分の作品を「まだやってるなあ」って思いながら。

酒井:そう。私は幸福な死で、彼は本当にいいところが出てから死んでいったなと思います。そして『魔笛』はね、今聴いても、泣けてくるような名曲が続々と出てくるんですよね。それはもう、惜しみなく出てくる。

越水:あの『魔笛』を観ると出てくる涙って、どこから来るものなんでしょう。いろいろなものがないまぜになって結局泣く・・・というか、泣くか笑うしかなくなるという不思議な感情は。

酒井:それがバタイユの言う「至高性」なんですよ。「至高性」って、こっち側から行くとその先はもう死の世界なんですよ。だけどそこにギリギリに接近していくと生命が輝き出す、というものなんです。エロチシズムというのも、バタイユに言わせると「死におけるまで生を讃える」ことです。そして『魔笛』って、つまりそれなんです。

場面考察② リズム・スピード・エクスタシー

酒井:そして『アマデウス』のいいところも早さだと思います。スナップショット的な早さ。次々と場面が変わってそれが観る人に余韻を残しながら「あの場面もう一回観たいな」ってなる。

越水:だから私は300回も観たのか!

酒井:長居させない。それって美しいパッセージを次々と流していくモーツァルトの本質を映画でやってみせた、ともいえる。例えばビゼーのオペラ『カルメン』などは、次の曲に行くまでかなり長いですよね。場面ごとに感性の断絶があるわけです。でもモーツァルトには境界がない。早く次の曲に行きたくてしょうがない。

越水:それがモーツァルトらしさ、持って生まれた彼のテンポなんでしょうね。もう映画自体が、モーツァルトの鼓動の転写のように思われるのですが。

酒井:そしてあの映画の作り方は、まさに「フランス」なんですよ。フランス映画の初期、ベンヤミンのスナップショットの発想。(ミロス・フォアマン)監督は、現代思想をかなり読んでいると思うな。ですからスナップショット的な当時のシュールレアリズムの良いところを取り入れていったのだと思う。そして、何と言うか・・・観客に考えさせようとしなかった。いい意味で自分の文化の「お里」を知らせないようにする。そしてこちらの感性を刺激しながらパッと次に行く。彼は、チェコ人でしたっけ?

越水:チェコからアメリカに亡命された方です。

酒井:だからなんだな。彼はいろんなところを知っている人だと思うけど、自分自身の文化がどうのこうのという自我の部分を映画に反映させるのではなく、そこにモーツァルトと自分の接点、つまり脱自(エクスタシス)、自分を抜け出て行くような感性をみんなに知ってもらいたいと思っていたのではないかな。だから長居させない。監督は、映画の初期の頃の夢、何故ひとは映画を求めたのかということをよく研究して作っているのだと思う。だから私はオリジナル版(1984年公開時の2時間40分のもの)の方が好きなんです。

越水:私もそうです。いや、絶対にそうです笑。3時間バージョン(2000年に公開されたディレクターズカット版)は、やはり公開当時カットされるべくしてされたんだと思います。女とお金の話をカットして、純粋に「音楽」の話だけにしたというか、他のところへモーツァルトを憎む理由を脱線させなかった。

酒井:より一層早さも増した。

越水:そうなんです。もしかすると『アマデウス』という映画の真の主演は、モーツァルトやサリエリですらなくて「音楽」かもしれないと思うほどです。だからディレクターズカット版はボーナスショット的なマニア向けのもので、初めての人に薦めるのは2時間40分の方です。

酒井:早さと、監督の自己主張を見せまいとする逆の自己主張、それが「味」なんですよね。そしてそれはシカネーダーもできていたしモーツァルトもできる人だった。自分を出さないことによって自分の奥の、自分とは言い切れない広い世界を出す、それが芸術の奥義だと思うんです。『アマデウス』はそれをうまく実践した映画だったといえる。ミロス・フォアマン監督の他の作品には、どんなものがあるのですか。

越水:『カッコーの巣の上で』が代表作です。あと製作のソウル・ゼインツさんは『存在の耐えられない軽さ』を作っています。

酒井:なるほど哲学系なんだなあ。

越水:でも映画の『アマデウス』というのはやはりアメリカ映画でして。ヨーロッパで当地の作曲家の映画を作ると、どうしても本家というので、面白さではなく重厚な感じを出したりするんですけど、まあ『アマデウス』はそうじゃない。アメリカに亡命しているフォアマン監督に舞台の『アマデウス』の映画化の話が来た時、最初は断ったそうなんです。「今まで作曲家の出る映画でおもしろかったものなんてあるか?」って。わかる人にしか楽しめない映画、それが作曲家の出る映画なんだろうということです。先ほどの自我の消滅じゃないですけど、じゃあわからない人にも面白がってもらえる作品にするにはどうすればいいかということで、モーツァルトやクラシックの知識がなく映画館にやってくる観客、舞台は見ないが映画館には行くという客層のアメリカ人が、2時間40分でモーツァルトを好きになることという到達点を目指したんです。舞台版の原作者であるピーター・シェーファーさんをイギリスから呼んで、毎週末集まっては映画台本を改編したんです。それこそ大喧嘩しながら作り上げたそうですよ。「なんでここを変えるんだ」「いやアメリカ人にそういうの受けないから」ってお互いディスりあっていたといいます。結果、舞台とは別物になるんですが。

酒井:そうだったんですね。でもそれで良かったんじゃないでしょうか。あと音楽監督にネヴィル・マリナーを読んだのは誰?

越水:誰でしょう・・・それはちょっとわからないですけど、マリナー監督が出した条件の中に「モーツァルトの作った曲の音符を一音たりとも変えないこと」ということがあったというのは聞きました。モーツァルトの音楽を第一に優先してくれと。まあ結局は、いくつか変えられちゃってますよね。一番わかりやすいのは、エンドロールのピアノ協奏曲第20番の第2楽章。中間の激しい部分がごっそりカットされてますよね。

酒井:そうだった。

越水:でも基本的には変えられていない。映画がまず音楽をリスペクトしている。この映画のために作曲された音楽を一切使ってないというのは、『アマデウス』で私が特に気に入っている部分です。

酒井:ネヴィル・マリナーを採用したのは、大成功の一因になったように思いますね。

越水:映画作品の持つリズムや観客の感性にあっているような気がします。

酒井:ネヴィル・マリナーのモーツァルトは、モーツァルトの美しい面をよく表現していると思います。ネヴィル・マリナーって、私が高校生の頃だから1970年代に出てきたんですよ。ネヴィル・マリナーにアカデミー室内管弦楽団。彼のための管弦楽団を率いて、新しいモーツァルトをやった。とても新鮮でいいなあと思いました。それがちゃんと見る人の目にとまって、あの映画音楽につながっていったんですね。


場面考察③ モーツァルトとサリエリのベッドシーン

越水:『アマデウス』では、演技に合わせた映画音楽は作れないので(もう音楽が最初に出来上がっているので)、音楽に合わせて演技をしたそうですね。ラストのベッドで「レクイエム」を作曲するシーンも、モーツァルト役のトム・ハルスは耳にイヤホンつけて音楽を聴きながら演技したそうですよ。

酒井:あのシーンは迫真ですよね。

越水:サリエリの心変わりと葛藤、迷いとがだんだんと出てくる・・・

酒井:サリエリの「モーツァルト好きだ!」っていうのが前面に出てくる。「コイツすごい」っていうのが。そしてモーツァルトもサリエリにいい感情を持って死んでいく。

越水:ゴメンナサイって、

酒井:それもあの映画のいいところですよね。

越水:サリエリは、最初はてっとり早くモーツァルトを殺そうと思って作曲を手伝うんですけど、だんだんそっちの目的じゃなくなって、逆に「もう少し生きてくれないかな」って顔になっていく。音楽に仕えた者だけがわかる悦びを、憎しみ合いながらも最後にやっと共有できた、ということが伝わる場面。本当に凄いです。

酒井:先ほどのブルクハルトとニーチェの話ですよね。サリエリは山の裾野にいるんだけど、高みにいるモーツァルトと「交わる」ことができたという場面ですよね。どうしてここでこの音を選ぶのか、どうしてここで男性コーラスを出すのか、サリエリには全く奇想天外に映るわけです。高みから降って来るような発想は、モーツァルトしか理解できない。その「麓の人」と「高みの人」との会話が美しく描かれている。あれを最後のシーンに持ってきたのはいい監督ですね。

越水:舞台の『アマデウス』にはないところです。

酒井:舞台はもう復讐劇なのでしょう?私は舞台は観てないんですけど。

越水:私もなんです。戯曲は何回か読みましたけど。舞台の方は・・・モーツァルトがサリエリにどうやって倒されたのか、ちょっと具体的な方法は私も憶えていなくて。まあ舞台でのテーマはそこじゃないのでしょう。あとはキャラクターも醜悪なほどにデフォルメされているので、モーツァルトにもサリエリにもいい印象は持たないようになっています。けれど映画では、どっちも魅力的に描かれているんです。映画では、最後モーツァルトはサリエリを高いところへ連れて行ってくれる。サリエリはそこに必死に食らいつく。そこに奇妙な友情のようなものすら感じるんです。

酒井:映画は舞台と違って、そういうドロドロした面を前提にしつつも、そこからどうやって抜けて美しいものとして魅せるかというところに賭けているのがいい。サリエリ役の俳優(F・マーリー・エイブラハム)も名演ですね。彼方を理解できる人間としての演技、あの山の高さは痛いほどわかっているのに自分じゃどうにもできない、どうしてもそこに到達しない自分へのもどかしさ、その部分がとても上手かったと思うんです。復讐に燃えて、そのドロドロした感じがいいということでアカデミー賞(主演男優賞)も獲りましたけど、おそらくは、憎しみから抜け出て行くところが上手かったんじゃないかと。

越水:夜が明けて、モーツァルトが疲れて「少し休もうか」と言っているのに「私は全然疲れてないよ」と言って、むしろ「この時間がずっと続いてくれないかな」くらいに思ってしまう。足りないって顔しているところがいいんです。「いま、人生でこんなに面白い時間がやってきているのに!」とまで思っている。そこでちょっとずつ憎しみが融けていく。

酒井:映画の前半の方で、奥さんがオリジナルの楽譜をモーツァルトに黙って持ってきてサリエリに見せるという場面があります。あのサリエリが楽譜をペラペラめくっていくうちに酔いしれていくっていう場面も、ドロドロした人間の感情を超えて高みが感じられる場面ですね。

越水:そうですね。だから最後のベッドで作曲する場面でのサリエリの目の輝きといったら笑!モーツァルトが見ている「聖域」についに自分が入ることを許してもらえた時の悦び。

酒井:だから「至高性」なんですよ。

越水:そこに行き着くんですね。


場面考察④  視点・五感・官能性

越水:そういえば、先生が2000年に出された『ゴシックとは何か  ー大聖堂の精神史ー』に続いて2020年に出された『ロマネスクとは何か  ―石とぶどうの精神史ー』の中に、『アマデウス』にも応用できる視座があると感じた場所がありました。それは「視点の変化」のところです。ロマネスクの絵画には、複数の視点が同時に描かれている特徴がある、と書いてありました。つまり絵画の中の登場人物からの視点と鑑賞する私たちの視点とが同時に描かれているという。というのも『アマデウス』って、いわゆる作られた映画音楽と効果音がないんです。場を盛り上げるためだけに観客のために流される音楽、効果音的に流される音楽がない。音楽が鳴っているシーンには、必ず鳴るだけの必然性があるという、そんな作り方をされている。それは演奏会の場面だったりオペラのシーンだったり、モーツァルトやサリエリの脳内で流れる音楽だったりするのですが、そこがロマネスクっぽいなと。私たちはモーツァルトの脳内に入ったり、劇中の客席の耳になったりする。いろいろな視点からの音楽が、映画の中でうまく切り替わりながら使われている。

酒井:間口の広さというか、誰の目線からなのかを限定しないってこと。

越水:はい。映画ってとかくスクリーンと観客の二元世界というか、自分は安全な場所にいてポップコーン食べる余裕がある。でも『アマデウス』に関しては音楽の使い方が巧みで、どうやっても中に入らされる。今、誰の視点で流れている音楽なのかがどんどん切り替わるのでだからこそ入りこめる。

酒井:巧いよね。あと、サリエリって超甘党じゃないですか。映画の最初、サリエリの従者がクリームにつけて食べるパンを食べてみせてドアを開けてもらおうとする場面。あそこから始めるのも本当に巧い。

越水:というのは?

酒井:味覚という「感覚」から入っている。ああ美味しそうだな――すごく入りやすい!

越水:味覚の効果は300回観ていても思いつかなかったです。

酒井:あれが突破口になるんですよ。そして時々それが出てきて最後のシーンにも出てきますよね。「フレッシュ・シュガーロール」で締める、あれは天才的。

越水:サリエリが単に史実でも甘党だったという以上の目論見があるんですね!

酒井:映画の魅力を「味覚」から伝えている。

越水:その発想はなかったです!

酒井:映画に必要な聴覚が味覚から入って来る。

越水:そんなことが起こるとは。

酒井:あれはロラン・バルトなのだなと思った。ロラン・バルトに『明るい部屋』という写真論があるんですけど「この写真はこれを撮りたかったんですよ、でもそうじゃないところにこの写真の魅力があるんですよ」と、そういうことなんです。ですから、“音楽映画なのに”、サリエリが甘党でしょうがないというところが観る人にはいいように感じられる。それが本質のように見えてくる。まるで食べたくなるような・・・

越水:フレッシュ・シュガーロール笑。

酒井:もう絶対に美味そうですよね。

越水:コンスタンツェが食べていた「ヴィーナスの乳首」も食べたくてしかたなかったですよ。

酒井:あれ本当にあるんですか?

越水:子供の頃は、もう何とか想像しましたよ笑。白い砂糖を噛むとシャクシャクして、その中に栗が丸ごとゴロンと入っていて・・・(※NHK「グレーテルのかまど」で再現されたことがある)

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酒井:そういう特別な感覚を刺激する。

越水:確かに『アマデウス』にはよくお菓子が出てきますよね。コロレド大司教の宮殿で盗み食いするプチシュークリームみたいなお菓子とか。ディレクターズカット版に入っていたサリエリとモーツァルトが「ティラミス」を食べるところとか。あの場面はいらないけど。

酒井:あれはイタリアシンパだからって意味ですよね。モーツァルトはドイツ人だから。

越水:そうですね。

酒井:どうりでカットされるだけの意味はある。まあそういう様々な視点から観る人の記憶に訴えかけるというのがいいところです。音楽映画としての観どころを音楽1つに限定しないところ、限定できないというのが素晴らしい芸術、いい作品の奥深さであると思います。


「至高性」とは——権威づけか、剥き出しの感動か

越水:では最後に『アマデウス』から少し離れるのですが、音楽に「至高性」を私自身は求める方なんですが、どの人も音楽に「至高性」を求めるものなのでしょうか。

酒井:どの音楽にも「至高の輝き」はあるんだと思います。大衆音楽でも演歌でも、どのジャンルでもあると思うんです。その時々に応じて、例えばトラックの運転手さんが車の中で歌を歌って「いいなあ」と感じたらそれが至高性。それでいいんです。だからそれぞれの場で輝き出すもの、それが至高性だと。

越水:何も難しい話ではなくて、

酒井:そうです。でもそういう輝きを貴族文化だけで特権的に保持していったのが中世からルネサンスであり大きな過ちだった。でも大衆文化のパロディ舞台の中でもそれは生きていて、モーツァルトは「ここにも至高性はある」ということを体験できたのだと思うんです。

越水:『魔笛』を上演したあの民間劇場にも、ということですね。

酒井:そうです。そしてバタイユもそれが言いたかった。「至高性」というのは一部の特権文化じゃないんだよ、ということが。

越水:全くそうですね。というのもご著書の中でも書かれていましたが、そもそも「至高性」という言葉の第一の意味は、特権的なもの、自分たちの権威づけのためにキンキラキンにすること、派手さとか華やかさとかそういったものを使って権威を示すこと、なのでしたよね。

酒井:そう。だから『アマデウス』という映画は、それも否定しているんですよ。「至高性」への道にはいろんな道筋があるんですけど、今回はモーツァルトという道筋で、もし音楽に関心がある方であれば、そこからバタイユの世界って何なのか知っていただければと、そう思って本を書きました。ラスコーの壁画もそうですけど、バタイユは絵画論はたくさん書いていますので、絵がお好きな方はそこからバタイユのいう「至高性」を理解する道筋はすでに用意されている。けれど音楽に関しては用意されていなかったので、それでモーツァルトを足がかりにして橋を架けようという意味で書いたんです。でもバタイユが見て美しいと思ったものや感動したものは、決してバタイユ個人だけのものではなくて、モーツァルトも感じていたしサリエリも感じていたし、ウィーンの民衆だって感じていたということを言いたかったのです。

文化の源泉ーー生きろ、僕も君も美しい。

酒井:あと、私が好きな場面をもうひとつ挙げると(ディレクターズカット版のみに収録されている)犬の好きな貴族のところにピアノ教えに行きますよね。あの女の子のところにピアノを教えて(ここからオリジナル版になりますが)その貴族の館から出てモーツァルトが、ヤケ酒飲んで市場のなかを通りかかる。すると(大道芸の)クマさんが画面に出てくる。熊を立たせて歩かせて。ああいうふうに熊だの鳥だの、街はいろいろなもので溢れている。あそこから文化が出てくるんだよということ。『魔笛』の文化はそこから生まれてきたんだよということ。

越水:モーツァルトは普通の生活のいろいろな場面から、インスピレーションを受けられる人なんでしょうね。

酒井:宮廷の中じゃなくて、民衆的な部分から音楽は立ち上がってくるものだということを教えてくれるんですね。

越水:それがモーツァルトの生きる姿勢だと思います。今日はいいお話をありがとうございました。

(2024年1月12日 東京・市ヶ谷にて)


【おわりに】
12歳の頃、はじめて『アマデウス』を観てモーツァルトにガチハマリし、以来モーツァルトの魅力を何とか理解・言語化することに日々を費やしてきました。映画の視聴回数は延べ300回。今回、酒井先生にその旨をお話しして『アマデウス』とご著書についてお話し頂けないかとお願いしたところ、思いがけず快諾して頂きましてこの対談が実現しました。

(白状しますと)酒井先生のご著書は、この【風(おと)と官能】というシリーズを立ち上げた当初から「いつか取り上げたい」と密かに願っていましたが・・・まさかそのナナメ上を行くような展開になってしまい、我ながら戸惑っております笑。しかしいざ原稿が出来てみると、ものすごく濃い内容を話していたことに改めて気づきました。これを一人でも多くの方に読んで頂きたいと、何だか今は妙に自信持って言える、そんな自分がいます。
酒井先生、本当にありがとうございました。





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