見出し画像

DAY20.  この世界の愉しみかた

 まんちゃん。この子に、名前がついた。ついてしまったと言うべきか。

「お腹にいるときに呼ぶための胎児ネーム? そりゃあ、まんちゃんでしょう」

 夫が勝手に言い出したのを、最初は「なんかヤダそれ」と笑っていたのに。妙にインパクトがあって、それ以外思いつく間もなかった。

 2022年3月26日。妊娠判定日は“今年最強の日”だった。風水だか暦的なものだか、実際のところなんだかよくわからないけれど。「一粒万倍日」と「天赦日」と「寅の日」が重なるトリプルラッキーデイらしい。

 何かと縁起を担ぎがちな不妊治療の情報収集をツイッターでしているせいなのか、もともと日本人はそういうものが好きなのか。はたまたコロナ不景気だからか。ここのところやたらとこの類のラッキーデイが目に入ってくる。

 「宝くじを買うなら今日!」と、何回知らされたことだろう。最初こそ、夫をそそのかして本当に買ってみたりしたが、それらを真に受けて毎回買っていたら本当にきりがないくらいよく目にしている。

 その代表格でもあるのが、「一粒万倍日」だ。ひと粒の種籾が万倍の稲穂にもなるという吉運日らしい。

 判定日の血液検査は、しっかり着床したことを示すhcgホルモンが100くらいは出てほしかったところ、わずか21.2という小さな値で。ここからどうか万倍に育ってほしいという密かな願いも、「まんちゃん」には込められている。

 それから10日後、hcgは本当に万倍になっていた。正確には百倍ちょっと。2023という数値で、伸び率としては悪くないという。

「ここに胎嚢も見えていますね」

 淡々とそう言われて、思わず聞き返す。

「あの、前に胎嚢の見えている位置がおかしいとか、いろいろ言われたんですが……今回はどうですか?」

「位置……? 前っていうのは、前の妊娠のときですか?」 

「はい……」

「今回、位置は普通ですね。次は2週間後に来てください」

 ぼそぼそと小声で話す今日の担当医師は少し不可解な顔をしながら、その質問をさらりと受け流して次回の検診スケジュールを告げたのだった。

 前の妊娠……前回の流産は、判定日にhcgが33.0だったところから、同じ10日後に1798に上がっていた。伸び率や数値的にも、今回は逆転したことになる。 

 その日のクリニックの受付番号は、88番で末広がり。もしかしたらこの子は、どんなに小さくても“最強”のパワーを秘めているのかも知れない。そう思わせてくれたのだった。

   *

 2週間後、3回目となる検診は血液検査の案内がなかった。クリニックに到着後すぐに採血する毎回のルーティンを指示されずに、少し拍子抜けした思いで待合席に座る。胎嚢を確認した後は、内診だけで進むらしい。

 前回、何度もhcgホルモンを測り続けていたのは、形が悪いとか位置が悪いとか小さすぎるとか……それが最後まで「胎嚢じゃないのでは?」と疑われていたからだったのだ。

 内診室の台に乗り、目の前に映し出される茫漠とした白黒の景色をこわごわ眺める。たぶん、ほんの数秒なのだけれど。やがて経膣エコーが白い小さな塊を見つけ出し、医師の言葉を待つ時間が、やけに長く感じられた。

「いらっしゃいますねー」

 カーテン越しに、今日の担当らしいさばけた感じの女医の声が届く。確かに、いらっしゃる……。私はまじまじと画面をのぞく。

「見えますかぁー。ここ、小さいんですけど動いてますよねー?」

 その白い塊が拡大された瞬間。まんちゃんの斜め45度の顔が見えた気がした。どっちかというと、男の子みたいな。

 実際、そんなわけはないのだけれど。少しくびれがあって、どことなく人間の形を目指していることがうかがえる凹凸感――そして確かに、トクトクトクトクと、わずかながらもしっかりと脈打っている。

 胎児ではなく、胎芽。まだ児ではなく芽と呼ばれてしまう初期の初期だけれど、その心拍数はすぐに100を超え、9周目にピークを迎えるまで増え続けるという。

 私の安静時の心拍数はだいたい65から75ほどだ。それとどこかで呼応しているのか、まったく関係ないのか、ともかくその命は、確かに自身の時を刻み始めていた。

「まだ小さいので、もう少しサポートが必要ですねー。はい、いいですよー。あとは診察室でお話ししましょうー」

 心拍が確認できた。その事実だけが頭をかけめぐった。「胎嚢と心拍が確認できることが大事らしい」と、誰かが言っていたのを思い出す。

〈いた〉

 内診室を出てすぐに、私は夫にLINEした。

〈いらっしゃった〉

 すぐに夫から返信がくる。

〈いたって笑 いるでしょーよ〉

〈小さいけど心拍確認できた!〉

〈おー〉

〈先生が、ここにいらっしゃいますねー言うから笑〉

〈順調なの?〉

〈まだ小さめみたい。もう少しサポートが必要ですねーだって〉

〈サポートって?〉

〈これから診察室で聞くー〉

 私は膝の上のバッグを少しだけ開けて、もらったエコー写真を改めて眺めた。右下に、4.1㎜の数字が見える。

〈4㎜くらいみたい〉

〈4㎜は小さいのか―〉

 夫に言われて、バッグを陰に最近入れた妊娠記録アプリをそっと立ち上げた。

〈トツキトオカだと、1cmくらいっぽい。大丈夫なんだろか〉

〈んー。どうだろ〉

 そのときはまだ、全然深刻じゃなかった。私の中では。夫はもしかすると、すでに不穏な空気を感じていたのかも知れない。

   *

 正直、今日は心拍が確認できさえすれば御の字なのだと思っていた。現実はやっぱり、そんなに甘いものじゃないらしい。

 駐車場の車で待機していた夫の元へ戻ると、「これ聞いてから行こう」と、私はiPhoneのボイスメモを立ち上げた。LINEで事前に報告を聞いていた夫は、「うん」とだけ言って、かけかけたエンジンを切る。

『こんにちはー。あの、拝見してー。赤ちゃん、心拍自体は見えるんですけどねー。ちょっと、サイズが結構ちっちゃめなんですよねー。だから、ちょっと厳しいかもしれないですねー』

『あ、そうなんですか……』

『まあ、心拍自体は、見えてはいるんですけど。うんー。この時期ってあんまり赤ちゃんの大きさに個体差がないんですよね。だから7周1日だと10㎜ちょっとあるっていうのが、まあ理想的なんだけれども。今日は4㎜しかないのでー』

『ああ……』

『だから、もしかしたらー。スタートのときのhcgがちょっと低めだったのでー。そこからちょっと追いついてきているということを考えると、まあ、少しゆっくりめにきてる分、なんていうのかな、発育のスピードは問題なく、次回成長していれば、うまくいく可能性も、無いとは言えないですけどねー』

『えっと……今の段階では、結構厳しいということです……か?』

『うーん。サイズ的にはちょっと厳しいことが多いかなっていう、ところではありますねー。ただ、まだちょっとなんとも言えないのでー。来週もう1回見せていただいて。成長を追っていくしかないのでー。うーん』

『あの、hcgとかは……もう関係ないんですか?』

『うん。hcgはもう関係ない。hcgはどんなに高くても低くても、心拍がある限りは様子見ていく形にはなるので。うん、うん』

『そう、なんですね……』

『なので、ちょっと成長確認させてもらって、もしある程度伸びてれば、もう一回くらい見て卒業にしようと思うし。まあ……そこで心拍が止まってることもあり得るので。ちょっとそういうのが大丈夫かなっていうのを、詰めて見させてくださいー』

『何か気をつけることとかは、ないですよね……』 

『そうなんですよ。これ、何をやったから良くなるとか悪くなるとかって、実際なくてー。もう、なるようにしかならないというか。何したからダメだったとか、そんなことはないから。何かこう、生活で慎重にしなきゃいけないとか、そういうことはないです』

『卵の力、ですか』

『そう、だいたいの場合は胚のほうに原因があることが多いので。もうこれは、そう。運命は、本当はもう決まっちゃってるんだけど。我々はその結果を知る術がないから、様子を見させていただくという形にはなりますねー』

 どんなに厳しい確率でも、希望のある告げ方をされるのと、へたに期待を持たせないような言い方をされるのと、いったいどっちが患者としてありがたいのだろう。

 最初の妊娠判定日の担当医師は、前者だった。今日はどちらかといえば後者。いずれにしろ、結局落ち込むのは変わらないのかも知れないけれど。

   *

 朝食兼昼食は、帰りの車の中での朝マックになった。いつものソーセージエッグマフィンとハッシュポテト。今日はホットコーヒーをやめて、野菜ジュースを選んだ。

 つわりは、まだ言うほどきていない。そこはかとなく胸焼けが続いているのと、それによる背中のこり、食べてもすぐにお腹がすいてくるというか、おにぎりをずっと食んでいたいような気分……どちらかというと、いわゆる食べづわりの節があった。

 お腹がいっぱいでも、お腹がすいたときのような気持ち悪さが常に胃にまとっていて、喉元にも上がってくる感じ。ただ、嘔吐するようなことはまったくなく、何でも食べられてしまう。疲れやすいし、車酔いのようにもなるし、ときどき頭痛もするけれど、倒れるほどではなかった。日中の眠気もなかなかだが、在宅仕事もそれなりにできている。

 中途半端なつわり。そして、今日の診断を聞いて、私はますます夫に「少し体調が悪い」とは言えない気持ちになる。前回、稽留流産の診断をされてからも、完全に流れるまではずっとつわりっぽかったのに、そのときもなんだか言いづらかった。子どもをがんばって育てている代償というわけでもなかったから。

 ただ、今回は「男に二言はない」とばかりに、移植時からの掃除機がけと干すまでの洗濯、ゴミ出しと犬の散歩を今も続けてくれている。これは、だいぶありがたい。

「こんなに家事をまったくしない人と、子育てなんて本当にできるんだろうか」

 これまで何度も心の中で思ってきたことを、今回で撤回したいと思う。結婚9年目にして、今さらすぎるけれど。

 家に戻ると、犬と毎度の大げさなおかえりの儀式をして、夫は早々にオンライン会議で自室へと上がった。私もとりあえずパソコンの前に座る。ハンモックで丸くなっていた猫が、「なんだ、帰ってきたのか」とでもいう風情でちらりとこちらを見やり、すぐにまた目を閉じた。

 まだ、わからない。でも、厳しいらしい。医師の口調にはほとんど希望が感じられなかった。その直前まで、心拍を見た感動で少し舞い上がっていた私にすら。

 次の検診まで、いったいどうしていたらいいのか、気持ちが迷子になってしまう。なんというか、あまりのことで。ここで悲しんでしまうのも、もうあきらめてしまっているようで。

 私はひと通りメールチェックをして、次回のクリニックのネット予約も済ませた。さて、今日はあまり頭を使わないテープ起こしでもしておくかーーと、ようやく作業に入ろうと思ったところで、夫が顔を出す。オンライン会議は早々にかたがついたらしい。

「ねぇ」

「あら、もう終わったの」

「あれ、もう一回見せてよ」

「んー?」

「写真」

「写真ー?」

 私は半分わかっていたのに、なぜかわからないようなふりをした。

「あれだよ、まんちゃんの写真、見せて」

「エコー写真ね……」

 私はすぐにカバンから今日もらったそれを取り出し、夫に渡した。

 が、そこでぶわっと目が滲む。なんだろう、この感覚。夫がまんちゃんをまんちゃんとして扱ってくれたことに、唐突に込み上げてきてしまい。少し零れ落ちる。

「うーん……」

 パソコン画面を見る私の背後で、夫は首をかしげながらエコー写真をしげしげと眺めた。私が内診室の画面で見た拡大版はなく、全体像の中にぽつっと見える、小さな小さなまんちゃんの姿。確かにあれでは、よくわからないだろう。

 「ほら、ここがちょっと二頭身っぽくくびれてるじゃん!」「なんとなく凹凸ある気もしない?」などと、いろいろ言って盛り上がりたかったのだけれど。込み上げてくるものが一気にあふれ出てしまいそうで、ほとんど何も言えなかった。

 まだ、泣いたらだめだ。まだ、結果は出ていないのだから。

   *

 最近、夫はますます忙しい。先月、勤めていた会社を辞めて、今はフリーで仕事をもらっている。そのうちまたどこかに勤め出すつもりでいるらしいが、いろいろ未定。私はただ、「そうなのか」「それは面白そうだね」「いいんじゃない?」「それはどうだろう」とか、隣で感想を言っている。

 これまで紆余曲折あった分、これからの夫の行く末もあまり心配はしていないのだけれど、あまりに何も言わなかったら、夫は夫で最近急にめきめきと考え始めていて面白い。貯金ゼロから急にたまり始めて、投資についても、なんだかいろいろと。

 ここのところ妊活に集中して仕事もおろそかにしがちな私だけに、真剣にライフプランを考え始めているらしいその背中は、けっこう頼もしい。40過ぎて、何を言っているんだという感じだけれど。

 朝からクリニックへ行った今日も、夫はもう夕方前には家を出てしまった。このまま帰ってくるのは0時を過ぎそうだ。

「よし!」

 私が椅子から立ち上がると、ひょこっと犬がこちらに顔を向けて耳を立てている。

「行こっか」

 察した犬は、足どり軽く玄関までトットットッとついてきた。今日は夜から雨が降るらしい。散歩するなら今しかない。軽く羽織って帽子をかぶり、マスクをしていつもの川沿いへ出た。

 私はたいてい、こうして歩きながら仕事のネタを考える。たぶん、動かないと脳も動かないタイプなんだろう。今日も歩いていたら、止まっていた思考がまた動き始めた。

 ひとまず、マスクの下で口角を上げてみる。人体とは不思議なもので、口角を無理やりにでも上げて笑うと、幸せホルモンのセロトニンが出るらしい。

 「まんちゃんの写真、見せて」と言った夫を思い出す。私たち夫婦は今日まで、冗談でもお腹に「まんちゃん」と話しかけるようなことはできていないし、まだできなそうだ。でも、あのひと言には、それくらいの気持ちが宿っていた気がする。

 そうだよね。私は、内診室で見た心拍を鮮明に思い出す。まんちゃんは、確かにその命の存在を私に見せてくれた。

 医師が言うように、しばらくしてあの鼓動が消えてしまうことになるのかもしれない。でも今日は確実に動いていて、きっと今もまだ動いている。

 そうなのだとしたら。私の中で分泌されたセロトニンも、何がしかの形でまんちゃんに届くのかもしれない――そんなことを思った。

 そして私は改めて、世界を眺めたのだった。

 まだ少し赤みを内在させた萌黄色の葉桜並木、これからさらに背が高くなっていきそうな菜の花の連なりと、それに平行するように群生している薄紫の小花。よく見れば、懐かしいぺんぺん草も生えているし、とりどりの色形をした野草が、今年も春が来たのをその全身でよろこんでいる。

 耳をすませば、ホーゥ……ホケキョと、本当にそう聞こえる鶯の声もするし、そのほかの平和な小鳥たちのさえずりも、さらさらと心地好い川の流れも感じられた。

 こうして今、私がていねいに感じてみることは、もしかしたら。血液の成分なのか脳内ホルモンなのか、何かしらの形で、まんちゃんにも届いたりするのだろうか。

 それはもしかしたら、最後の日々かもしれないけれど。最初で最後、世界を感じられる時間だったりするのだろうか――。

 そんなことを思いついた瞬間。不用意に、また涙がこぼれ出てきた。でも今は、隣に夫もいない。川辺でひとり、目深に帽子をかぶってマスクをし、散歩する私を見とがめる人もいない。犬が少しだけ不思議そうに、歩みをゆるめてくれたくらいだ。

 私はまた、マスクの下で口角を上げる。川辺でひとり泣き笑いしている変な奴。私は心の中で語りかけた。

 まんちゃん、世界って、けっこう楽しいよ。ちょっと、生まれてみたくなるんじゃない……?

 決めた。基礎体温は明日からもう測らない。次回検診まで、むりやりにだって楽しく過ごそう。一日一日、この世界を2人分、懇切ていねいに感じながらね。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?