見出し画像

DAY16.  カルチャー・ラプソディ


 結婚する意味、たまに考えないでもない。10代20代の頃、結婚する理由はただ一つ、「子どもを産むため」だった。もともと結婚そのものに、あまり憧れがなかったから。じゃあ、もしも子どもができなかったら……?  

   *

 ストレス。うん、確実にこれはストレス。

 このコロナ禍、余計なストレスは一切取り除いてやろうと日増しに感度が高くなっている私のスカウターが、また新たなストレスを感知している。

「……くっ」

 湯船に軽く入ったあと、肌寒い2月のバスルームでひとり椅子に腰かけ、手早くシャンプーを終えて。私は目の前のコンディショナーと格闘していた。

 最後、2~3センチは残っている状態で、もう出てこない。ガンガンガンガン! 勢いよくプッシュするも、全然だめ。今度はおもむろにディスペンサーを持ち上げて、力いっぱい振ってみる。ぶん、ぶん、ぶん!

 少し息が上がっていた。私はいったい、まっ裸で何をやっているのだろう。ふーっと息をつき、元の場所に置いてもう一度ノズルを押す。

 ぱふっ……。申しわけ程度に出てきた乳白色のリキッドは、肩より長い私の髪には到底足りない量で、がっくりとうな垂れた。

 結婚してからいろいろ試したが、このシャンプーとコンディショナーは私も夫も気に入って数年前からリピートしている。おかげで髪のパサつきはなくなったけれど、毎回使い切ろうとするたびにこの段階が必ず訪れた。

 たぶん、コンディショナーの粘度が高くてポンプの吸い込み口の下に空間ができてしまうのだ。つくりが良さげなディスペンサーをわざわざ買って詰め替えても、結果は同じ。軟膏クリームを取り分けるような長いヘラを買って、すくい出そうとした時期もあった。

 それも結局面倒になって、最後は水を混ぜたりする。ゆすいでしまうには絶妙に惜しい量で、もう少しだけ使いたい。それを使い切るにも毎回まあまあの日数がかかった。一日の終わりに、なんとも些末なストレス。しかしストレス。

 ともかく、貧乏くさい悩みなことこの上ない。あの手この手を試すうちに、もはや出ない分をそのまま流してしまうより、かえって高くついている気がする。


   *

 結婚前、私はバスタオルを毎回洗わない派だった。きれいな体を拭くのだから、干せばもう1、2回くらいは使えるだろうというスタンス。子どもの頃、実家では5人家族で一枚を使いまわしていた気がする。

 ひとり暮らしでは、バリバリになっても一生使い倒していた。それが結婚したら妙に凝りだして、最終的には超長綿のスーピマコットンで織る極上のバスタオルに行きつき。高いなぁと思いながらも、ほそぼそと買い足している。

 普通の柔軟剤では吸水性が悪くなるからと、洗濯時はベビーの肌着にも使える無添加無香料の「ベビーファーファ」一択。さすがに毎回はしないけれど、ときどき乾燥機を使ってふんわり感を復活させたりした。

 この間、私の誕生日にとうとう結婚9年目に突入したわが家には、バスタオルひとつとってもこんな独自のこだわりが生まれている。いつの間にか。

 最初は、バスタオルをひとり1枚、毎回洗う家庭で育った夫に合わせたのだと思う。ひとりじゃ絶対にそこまでこだわらないところに、もうひとりいることで気を配るようになり。そうして結果的には、自分も心地好い思いをしている。

 たぶん、それが結婚の良さなんじゃないか。そんな話を友人にしたことがある。

「確かにね。自分のためにはそんなにがんばれないもんね」

 素直に受け取ってくれる彼女に、私は饒舌になった。

「そうなの。ごはんだって、自分ひとりだったらどんどんエサ化して、今日も納豆ごはんでいいかぁってなる。夫の会食が続くと、あまりにいい加減なごはんが続いて、それで自分の機嫌を損ねるっていうね。意識高くないから、私には無理なのよ、ひとりで自分のために“ていねいな暮らし”とか」

「ていねいな暮らし、私だって、できないできない! そっかぁ。なるほどねぇ」

 誕生日も一日違いの同い年、かれこれ四半世紀くらいのつき合いになる彼女は「もう、ひとりが楽しくなっちゃってさ」と、仕事もプライベートも独身を満喫していて。その境地もまた、めちゃくちゃいいなと思ったりする。

「いやいやいや。なんか、自分だけが俺に合わせたみたく言ってるけど。家具にしろ何にしろ生活のものすべて、最終的に決めているのは君でしょう」

 夫にそう言われて初めて、「ふむ。確かに」と思った。結局最後は、私が決めている……? ただ、そこには自分ひとりなら絶対にしないセレクトが多分にあるのだ。

 そもそも、夫に任せてその判断を待っていたら、今でもうちには引っ越したままの段ボールが平気で積み上がっていただろう。「明日できることは明日やればいい」夫と、「目の前のタスクはさっさと片付けてしまいたい」私の攻防が、そこにはある。

 こんなことを言うとまたケンカになるから、夫には言わないけれど。

   *

「そうだ。トイレで手を洗う文化は、俺にはなかったし!」

 唐突に夫が言った。この間、『私が夫に合わせて今の生活があるような気がする』と呟いたのを根に持たれているらしい。おかげで少しは“ていねいな暮らし”をしようとがんばれる、いい意味で言ったのだが、真意を伝えるって難しい。

「ああ、確かに。トイレね!」

 結婚当初、2つの文化が一緒になることで起きたカルチャーショック。そのひとつに、トイレのタンク上についている手洗いを使うかどうか問題があった。私がそこで手を洗うと知って、夫にギョッとされたのだ。

「トイレの水で手ぇ洗ったら、汚くない?」

「え。もしかして、トイレの水がタンク上からそのまま出てくると思ってる……?」

 トイレ内にタオルをかけておく意味とは。私はその考えに相当ツッコミを入れ、それから夫もトイレで手を洗うようになった。ただ、やはりイメージは悪いのか、基本はわざわざ洗面所までゆすぎに行く。特にハンドソープを使うわけでもないのに。まあ別に、それは好き好きで。

「あと、調味料とか買うときに入ってる成分とか、食材の産地とか見るようになったし」

「化粧水とか乳液とかも、言われてちゃんとつけるようになったし」

「ゴミの分別とかもしてるし」

「あと、ああ、あれだ。宅配便の兄ちゃんに玄関前に置いといてもらうとき、インターフォンで『ありがとう』って言うとか」

 なんだか恨めしくいろいろ出てきたけれど、それが人間らしく生活するということじゃないのか……と、本人には言わない。夫は夫なりに、相当私に譲歩しているらしかった。

「ああ、そういえばさ」

 私は話題を変える。

「ちょっとシャンプーとかのディスペンサー、買っていいかな」

「ん? 買えばいいじゃん」

 夫に何かを買っていいか聞くと、即答でいつも「買えば」と返ってくる。毎回聞くわけでもなく、ときどきちょっと迷いがあるときに聞くのだが、答えは同じだ。

 そもそもそんなに大きな買い物はあまりしないから、買ってしまえばいいのだけれど。このコロナ禍、気になったものをすぐにネットで探してポチッと買ってしまう癖がついて、少々買い物依存症ぎみの気配があった。

「あのね、コンディショナーが最後、出なくなるのが気になっててさ。それを解消するアイテムを見つけたの」

「え。それ、大賛成。めちゃくちゃストレスだったわ、俺も!」

「でしょ!? あれ、地味にストレスだよね」

「まだ結構残ってるのに出ないんだよ。めちゃくちゃ思い切り振ってみたりしてさ、なんとかここの空間に……!って、いつも格闘してる」

「たまに、あなたのあとにお風呂入ると急に出てくるようになったりするんだよね」

「それ、俺が全力で振ってるからだよ!」

「そんな気がしてた」

「俺はさ、こう、底が真ん中に向かって落ちていくように、内側が逆三角形になったディスペンサーがあれば良いと思うんだよね」

 夫は「こう!」「こういう感じにさ!」と、身ぶり手振りでその形を表現して見せる。

「ああ、なるほどね。でも、もう見つけたから。あのストレスが起こらないやつ!」

 夫の全力プレゼンに思わず笑いながら、私は自信満々にそう宣言した。

「ええ〜?」

 訝しむ夫に、今度は私がプレゼンをする。詰め替えパックがそのまま入れられるディスペンサー。山崎実業のやつ。あれならポンプで出なくなっても、最終的にはパックを取り出して簡単に絞り出せるという算段。

 わが家では、もう何個目だろうの山崎実業だった。余計な装飾がないシンプルなデザインと、かゆいところに手が届く巧妙な仕様に毎回やられて、ついポチってしまう。

 夫から「なるほどね」の言葉を勝ち取って、さっそくアマゾンでポチる。もう明日には届きそうだ。

 至極、どうでもいい話。こんな話で盛り上がれるのは、世界中で夫だけだろう。

 私はたまたま彼と出会い、この人と一緒に生きたいと思った。この8年、ひとりだったらきっと選ぶことのなかったものを一つひとつ選びとって、ここでこうして暮らしている。

 そして結構、なんだかんだ、私はこの生活を気に入っているのだ。

   *

「今日の14時だよ、メールが来るの」

 私は心の中の不安を吐き出した。今日は、昨日の採卵後の受精結果がメールでくることになっている。流産後、空胞、成長せずに1日で培養中止と続いた、三度目の正直。夫は言った。

「おお、そうか。楽しみだね」

「いやいや、ど緊張だよ! もうイヤだ……」

「だーいじょうぶだよ。楽しまないと!」

 いつものように笑う夫と、鼻息を荒くしたり青ざめたりしている私。はたから見たら、だいぶ凸凹なコンビだろう。でも、たぶんそれがいいのだ。私たちの場合。

 もしもこの先、子どもができなかったとしても。私は彼の隣にいたいと、やっぱり思う。

 ときどきケンカしたり、機嫌を悪くしたりしながら、何かとふたりでバカ笑いをして、理由をつけてはおいしいものを食べてーー。

 ほどなく、「正常受精」「培養中」を知らせるメールが届いた。ようやく採れた、たったひとつの卵が、夫の精子と結ばれた第一関門突破の報せ。一球入魂、勝負はこれからだ。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?