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【読書レビュー】内側から見る創価学会と公明党

はじめに

タサヤマさんのこの記事が発端となって始めたこのnote。
前々回は薬師寺克之『公明党 創価学会と50年の軌跡』、前回は中野潤『創価学会・公明党の研究 自公連立政権の内在論理』の読書レビューと、創価学会・公明党を客観的な目線で見るために必要な本を紹介してきた。
両書は2016年に発刊された本だが、浅山太一『内側から見る創価学会と公明党』は、学会員である著者が2017年に発刊した、創価学会公式メディアや研究者の論文を資料として取り上げ、「組織の論理」を解き明かそうとした一冊だ。

本書の目的

創価学会をめぐる議論は、「賞賛と罵倒に引き裂かれた状態になっている」と著者は現状を示す。私が30年生きてきた中で、創価学会に係る議論において、客観的なものはほとんどない。批判側賞賛側ともに、相手を知ろうとせず罵倒し、互いに自らの論理を正当化するばかりのように感じる。
その中で、冒頭で紹介した2冊が発刊されたことによりようやく、落ち着いて議論を行える余地ができたと言える。
そして著者は、本書の目的を以下のように語っている。

だが、私はそれでも本書において、社会と学会の双方が「創価学会と公明党 というテーマ」をともに論じるための足場を構築することを目指す。社会の 側には創価学会にまともな関心をもってもらえるよう求め、学会側にはまともな関心からの意見なら考慮に入れることもときには必要であることを求める。私はこの実践に人生をかける。もう決めている。

浅山太一. 内側から見る 創価学会と公明党 (Kindle の位置No.68-71)

つまり、「『創価学会と公明党』というテーマについて、社会と学会がともに語る足場をつくる」ことが本書の目的だ。そのテーマに著者は人生を賭けているという。

この一文に非常に惹かれた。自分も貢献したい。そのためにこうして細々と何の役に立つかわからないログを残している。今日はこんなtweetもした。


私が本書に惹かれた理由

なぜ私がこの本に惹きこまれたか。一言で言えば、創価学会内での「本音と建前」の乖離が激しすぎるからだ。実は私は創価大学学生寮の副寮長・寮長をしていた。時期としては、創立者・池田大作が公の場で創価大学に来なくなった当初の世代だ。

寮の制度等の詳細については後日改めて説明するが、建前としての目的は「学生同士の触れ合いによる切磋琢磨」だ。学生同士のピアサポートとも言えよう。それを達成する手段として、寮生活やイベント等を通して「建学の精神」を学びディスカッションをすることが取り入れられていた。
池田は男子寮に対し「我が学寮は創価大学の生命(いのち)です。我が寮生は私の生命(いのち)です」との言葉を送っている。それほどまでに池田は、寮生活を通しての学生同士の触発に期待を寄せていた。
それに対し寮生たちは、学問やクラブ活動、学生自治など様々な分野において「期待にお応えしよう」と努力し、現在の創価大学のブランドの形成に寄与してきた。

私立の学校で創立者が学生に言葉を遺すのはどこの大学でもあるし、建学の精神なくして創立された私立学校はないだろう。それをまじめに追及しているのが創価大学であり、そこは誇れるところではある。

ただ、例えば寮のラウンジのテーブルに聖教新聞が当たり前のように置いてあるのはどうなのか(希望者が購入しているものをラウンジに配達し、各自が自分の新聞を読む形式とはいえ)。朝の勤行会が当たり前に行われているのはどうなのか(希望者のみ参加)。誰もが疑問を呈することが当たり前かのように正当化されている。その論理は何なのだろうか。

この答えは簡単だ。それは寮生に占める学会員の割合が圧倒的に多いからだ。創価大学生全体では学会員と非学会員の割合が7:3と言われている。留学生に関しては4:6と聞いた。しかし、男子寮において非学会員は一つの寮につき1人いるかどうかだ。だから、聖教新聞が当たり前のように置いてあっても、勤行会が当たり前に行われてもいいーー。
本当にその論理でいいのだろうか。少子化が進み非学会員以外に振り向いてもらうために必死な創価大学の流れにおいて、その論理を当たり前のように使っていいのだろうか。

このことについて対話をしたが、そこで用いられるのは真偽やソース、前後の文脈が不明な創立者の指導を用いられり、「信心が足りない」とのお叱りをいただいた。一方で現状に対し誹謗中傷に終始しする寮生も少なくなかった。
要するにまともに議論できないのだ。仮に今後非学会員が多数を占めることになった場合、どのように建学の精神を引き継いでいき、寮を運営していくのか。今回挙げた例はわかりやすいものだが、男子寮、あるいは創価大学内においてこうした問題はたくさんある。しかし、対話が内輪の論理で完結することが多すぎた。まるで学会をめぐる議論の社会の縮図だ。どうしたらまともな議論ができるのだろうか。

そうした状態が40年以上続いてきた男子寮のなかで、それでも寮長に立候補した理由。それは、男子寮、ひいては創価大学内における論理を整理して、ともに論じるための足場を構築することを目指すことだった。
かなり前置きが長くなってしまったが、こうした経緯があり本書の目的に非常に惹かれた。

研究や資料分析に基づく両陣営への批判

話を戻す。
本書では、研究や資料分析をもとに、礼賛する人、批判する人双方に鋭い指摘を行っている。

例えば第4章では、牧口・戸田・池田の三代会長の講演等から以下の結論を導き出している。

私たちはかつて間違ったことがあるし、それを改めたことがある。これから も間違えることはありうるし、それを改めることもまた可能だろう。おそらく創価学会員ではない読み手にとって、この含意は取るに足らない、ただ当たり前のことを述べただけのものにみえるだろう。私もそう思う。私のこの 本は、この取るに足らない一言を書くために書かれた。

(Kindle の位置No.2122-2125)

著者は本書において、学会員の間で公明党支援における「本当の池田先生の思想」をめぐり争いがあったことに触れている。その議題に対して著者は三代会長の発言について、社会的に危険なものがあったことや方向性を修正したことがあることを指摘し、三代会長の発言は完全に正しいとは言えないことを導いた。それを通して、公明党は間違っているとも正しいとも言えないと結論付けている。

学会内においては、これからも間違えてきたし、これからも間違えることはあることを認めなければならないと警鐘を鳴らす一方、社会においては、学会への理解を求めている。社会の側が学会を理解しようとしない原因は「宗教社会学会の集団的不作為」にあるとしている。その意味で著者は「宗教研究の社会的責任」を問い直している。

創価学会は非常に大きな組織だ。しかし、まともに研究されることはなかった。学会がそうした研究に消極的だったことを差し引いても、そうした姿勢が今の学会研究の少なさを招き、議論の足場さえない状況を招いていると指摘している。こうした状態は社会にとってもよくない。
社会は創価学会・公明党を「全体主義的」や「ファシズム」というレッテルを貼り批判が完了したとみなす行動を、この数十年間繰り返してきた。創価学会・公明党に限らず、自分たちが理解できない階層に住む人々のことを理解しようとしなかった。その姿勢に、そろそろうんざりしてきている人も多いのではないだろうか。

選挙を支援しない人は学会員ではない!?

本書では、「ポスト池田」時代を見据えた創価学会の公明党支援の正当化の論理を第5章で解き明かしている。そして2017年以降、公明党の支援活動をしない人は学会員ではない!と言われてもおかしくない土壌が出来上がりつつあると指摘している。公明党支援が正式に「信心の戦い」となったのだ。

創価学会員からしたら「なにをいまさら」と思われるだろうが、これは大きな問題だ。具体的に筆者はこの様に触れている。

公明党支援に賛同できない学会員が今後よりいっそう活動に参加しづらいことになるだろうということだ。

(Kindle の位置No.2885-2886)

これはかなりやわらかい言葉で書いているが、要は信心するなら公明党支援が必須。そうでない人は謗法だ。獅子身中の虫だと言われかねない。言論問題以前の創価学会に戻ってしまうのだ。これまでは、建前上公明党の支援をしなくても別に問題なかった。しかし、公明党支援が「信心の戦い」になることが当たり前になれば、公明党に反対した時点で学会から除名される(かなり悲観的な考え方だが)。

薬師寺克之、中野潤著の読書レビューでも触れたが、創価学会は福祉以外の政策についてはあまり興味がない。それよりも選挙優先だ。そうなると当然、公明党を支持できない人や消極的支持の人が多数生まれる。現在の地元幹部を見ていると、私の悲観論は杞憂に終わりそうだが、池田逝去後数十年経った後はどうか。

これに関しては、今年行われた衆院選の結果を見る限りひとまず安心したいところである。つまり、コロナ禍で思うように支援活動ができず組織的な締め付けも少なかったにもかかわらず、久し振りに比例700万票を達成したからだ。組織的な締め付けがない方が票が伸びるならば、一旦は支持政党の相違によって活動がしにくくなることはないだろう。そう思いたい。

学会幹部と建設的な対話をしていくために

現在の私は人に非常に恵まれている。区男をはじめ、本部長も部長も降りてくる打ち出しに納得できない場合、反論したり独自行動をとったりする。区男は本部長時代に公明党支援が当たり前であることの不条理さを池田先生宛の手紙に認め、その結果かどうかはわからないが、当時の青年部長が直々に会いに来たこともある。だから私が様々疑問をぶつけても真摯に答えてくれるし行動してくれる。

しかしそこに甘えていてはいけないとも思っている。
私は創価大学の学生自治において中心的な立場にいたし、学会活動も熱心にやっていると評価されているが、役職は所詮副地区リーダーだ。学会の方向性を動かせるほどの力はない。だからこそ、自分の疑問点を整理し、学会の論理を把握したうえで対話に臨めるようにしたい。
相手に歩み寄ったうえで痛いとこをつかないと、悲痛な叫びはただのよくある声として処理されてしまう。

同期の寮長で創価学会本部職員になった人は、華々しい経歴を積んでいる。そうした人と比べると、一般的に見ればあまりにも境遇は悲惨だろう。負けた姿だと言われるだろう。ただ、この信心はそうしたためにあるのではない。「自分らしく生きる」ためにこの信心はある。それを証明することが自分の役割だと思うし、その立場から建設的な議論をしていくことが自分の使命だと勝手に思い込んでいる。


実はこの本は発刊直後に読書家の弟から勧められ読んだが響かなかった。しかし、公明党について学ぶ中で様々な疑問が生じ、議員や幹部と対話することで全く違う文章として読めた。その意味で、本書のような本がもっともっと増えてほしいと願うばかりである。

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