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"Soka Gakkai’s Human Revolution: The Rise of a Mimetic Nation in Modern Japan"はめちゃめちゃすごい本なので読んでほしいという話

なんというか、ビビった。
読んでるときに何度か声を出して叫んでしまった。
同じ時代でほぼ同じテーマに取り組んでいる研究者の本についてこれを言っていいのか分からないが、これまでに書かれた日本の創価学会についての著作のほとんどを過去にするような著作だ。

言いすぎだと思う。
言い過ぎだと思うけれども、それくらい今回紹介するレヴィ・マクローリンさんの著作『Soka Gakkai’s Human Revolution: The Rise of a Mimetic Nation in Modern Japan』は時代を画する一冊だと思う。
学術的にもきわめて興味深い分析を含んでいるのは言うまでもないけれど(後述)、それとともに、そして私にとってはそれ以上に、この本は今を生きる創価学会員の一部にとって切実な一冊になると確信する。

いや、私の本を読んで最初に共感の感想を送ってくれたのは天理教二世の人だったけれど、自分で選んだのではない属性のもとに生まれたことに悩んだことがある人に、たぶんきっと届くものがあると思う。
読んだとき、そして読んだあと、きっとあなたたちは思うはずだ。
ここに私たちがいる」と。

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今回の記事では、レヴィ・マクローリンさんの著作『Soka Gakkai’s Human Revolution: The Rise of a Mimetic Nation in Modern Japan』を紹介する。
邦訳すると「創価学会の人間革命 近代日本における模倣国家の台頭」になるだろうか。
レヴィ・マクローリンさんはノース・カロライナ州立大学の宗教・哲学学部の研究者。その彼が約20年におよぶ参与観察のすえに書きあげたのが本書である。

創価学会についての研究本の冒頭あるあるとして、「こんなにも私たちを理解しているのに、なぜあなたは創価学会に入らないのか」みたいな会員からの言葉が紹介されることが多い。当事者たちから「理解者だ」と思われるくらい、自分の分析は説得力をもったものである。おそらくはそういうことが言いたくて引用しているのだと思う。
が、ああいうのは真に受けなくていい。
肩書のある偉い先生や作家が、創価学会内で流通している言葉をそこそこ引用して、それを学術っぽい言葉で言いかえて肯定的に語れば、たいてい私たちは喜ぶ。
(これは何も珍しいことではない。国でも地元でも出身校でも推しの野球チームでも何でもいいけれど、自分が誇りに思っているものを褒められたら、ほとんどの人はたいてい喜ぶ。)
でも、それは理解の達成とはあまり関係がない。あと宗教勧誘は常にする。

本書には、そういった現役会員へのリップサービスのようなものは全くない。会の歴代リーダーたちのジェンダー観の古さなどは一切の忖度なく批判されているし、「あとがき」には著者の私生活が大変だった時に唐突に布教してきたメンバーへの怒りが率直に記されている。
ただそのような、時に辛辣ともいえる筆致にもかかわらず、本書で描かれた会員たちの日常の描写には違和感を抱くところがほとんど存在しなかった。

このnoteを読んだことがある人なら知っているかもしれないが、私は創価学会についてのnote記事がバズッたことで(→これ)、本を出版することになり(→これ)、そしてなんやかやあって今は大学院の博士課程に所属して研究をしている。
ただ、もしこの本が6年前にあったなら、私は記事を書くことも、大学院に入りなおす必要もなかったかもしれない。
(それは言いすぎだが)それくらい、このレヴィさんの本は、戦後日本で成長した創価学会という巨大な宗教組織を理解するための、画期となる一冊だと確信する。


本書の特筆すべき点:創価学会の草の根のエスノグラフィーが読める

本書の何より素晴らしい点は、平成時代を生きた草の根レベルの創価学会員のエスノグラフィーが豊富に描かれていることだ。
これは研究書なら当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、じつは日本の創価学会にかぎっては、ぜんぜん当たり前じゃない。
日本語で読めるもののなかで良質といえるのは、『別冊宝島 となりの創価学会』(下らない記事もあるが、じつは名著。文庫版よりもムック版の方がおすすめ)や、玉野和志『東京のローカル・コミュニティ』の第五章など、相当にかぎられている。
他の調査は私の本を含めテキスト分析ばかりで、インタビュー調査があったとしても公式見解とあまり変わらない語りが収録されるというケースがほとんどだ。

その点本書は、公式見解よりも陰影に富んだ語りが、とくに幹部層ではない現場の会員さんと同じ視点で記述されている。
たとえば本書の第5章は、創価学会の教学試験(*1)についての研究だが、これまでの創価研究なら「あなたにとって教学試験とはなんですか?」などとインタビューして、「はい、私にとって教学試験とは~」のような返答が書かれて、等々といったものを想像するだろう。
それは教学試験という制度についての会員の見解を聞いているにすぎない。

でもレヴィさんは違う。実際に任用試験を受けている。あと、そのまえの勉強会になんども参加している。
勉強会に一回出ただけで帰ってこなくなるヤンキーっぽい青年部、試験の合否ではなく「あなたの成長が大事だ」と激励してくる婦人部、絶対に出題される日顕宗/日蓮正宗への批判、「分からなかったら”南無妙法蓮華経”と書けばいい」というアドバイス(超あるある)、試験当日に全国の友人からかかってくる励ましの電話、などなど。
つまりここでは教学試験を受ける創価学会員の世界が描かれている。
別の言い方をすれば、教学試験という制度についての会員の見解ではなく、教学試験という制度を通じて創価学会員になるというプロセスが描かれているといってもいいだろう。
(レヴィさんは創価学会員じゃありません。念のため。)

また、本記事では詳しく論じないが、本書で個人的にもっともダメージを受けたのは、ふだんの『聖教新聞』にはあまり載らない類の、しかし会内で生きているとどこかで聞いたことがある、定型とは異なる「体験」の数々だ。
とくに北九州の婦人部のHashimotoさんと、その息子で、中学のサッカー部のコーチをしているYasuoさんの親子喧嘩のエピソードや、学会員の父親からの虐待の体験を語ったMihoさんの語りはぜひ読んでほしい。
(*名前はすべて仮名)
これらネガティブな体験談は、『聖教新聞』などの公式メディアに載ることはほとんどないが、会員ではない人々にとっては「創価学会員」という一枚岩のイメージを解体する点で有益だと思うし、現役会員、とくに会内で「居心地の悪さ」を感じている人にとっては、おそらくどこか慰められるものがあると思う(*2)。

等々、他にも数え上げればきりがない。
出てくる地名も具体的で、いちいち刺さる。
創価大学の学部生だったころ、尊敬していた(そして後に学生自治会からの追及で大学を辞めさせられた)文化人類学の先生は「文化とは匂いだ」と教えてくれたけれど、本書のエスノグラフィーからは、線香や畳や金剛堂の仏壇や第三文明社の本や公明党のポスターといった、創価学会の家特有の匂いがする。


宗教研究や選挙研究の点でも重要:選挙期間中の座談会のエスノグラフィー

研究上の貢献はいろいろあって、婦人部(いまは女性部)の信仰生活を描いたことや、『人間革命』というテキストの「参加型の聖典 participatory canon」という性格を指摘した点など多々あるけれど、ここをガチで書くと書評論文になってしまうので1点だけ論じる。
選挙期間中の座談会という場所で「公明党支援がどのように語られてきたか」を記述した第6章、おそらく現時点ではここが研究上最も注目される箇所になると思う。
この第6章がもつ重要性を、①選挙研究、②「戦後日本の政教関係」および「宗教とジェンダー」、③日本型参加格差構造、の3点から紹介する。
(すこしニッチな話になるので、このあたりに興味ない方は飛ばして読んでください)

①選挙研究として
この点について、まずは選挙研究として重要だろう。
調べたことがある人なら知ってると思うが、創価学会の選挙活動についてジャーナリスティックな記事は多々あるものの、研究と呼べるものがかなり少ない(*3)。
もちろん 薬師寺克行『公明党 創価学会と50年の軌跡』や、 中野潤『創価学会・公明党の研究 自公連立政権の内在論理』が2016年に出版されたことで、言論環境が改善したところはかなりある。
ただ上記2冊の指摘は大枠での構造に関わるもので、個々の活動現場がどのように公明党支援を語り、支持を継続するにいたるのかについては未だほとんど明らかになっていない。

選挙期間中の創価学会のエスノグラフィーとしては、前述の『となりの創価学会』(ただ文庫版からは肝心の「これが学会選挙の舞台裏だ!」が削除されている)や、George Ehrhardt氏の論文「Rethinking the Komeito Voter」などの重要な蓄積はある。
ただレヴィさんの本書は、そうした蓄積を更新するに足るだけの「厚い記述」になっている。

また、これは本書というよりは『Komeito: Politics and Religion in Japan』に収録された論文で中心的に論じられたテーマだが、レヴィさんが創価学会の公明党支援を「宗教的実践としての選挙活動 Electioneering as Religious Practice」と考察した点もきわめて重要である。
創価学会と政治のかかわりは、調査のしづらさもあって「教義」や「理念」や「政策」といったイデオロギー的な観点からの考察に留まりがちだった。
しかし松谷満が公明党支持層には価値意識と争点態度に相関がないことを指摘している点をふまえても、そうした分析ではとくにイデオロギー面での関連性をもたない(あるいはむしろ対立するような)政策にも賛同できる公明党の実際の行動を説明することができない。

その点、公式的な教義からではなく、信仰現場において公明党支援という活動が学会員にとってどのような意味をもつ実践なのかを理解することは、上記の分析とはまったく違った含意をもつ。
(というかそもそも選挙期間中の座談会という場所に研究者が入って、そこで実際にどのような会話がされているかを参与観察の手法で記述したってだけで本当にめちゃめちゃすごい。)
ここは研究テーマに近くなりすぎるので割愛するけれど、イデオロギー的に距離があると考えられてきた自民党と公明党の連立政権の持続性を考察するうえで、レヴィ・マクローリンさんの議論を読まないという選択肢は今後考えられないだろう。

②「戦後日本の政教関係」、および「宗教とジェンダー」研究として
また「戦後日本の政教関係」や「宗教とジェンダー」といったテーマを考察するうえでも、きわめて示唆に富む分析がなされている。
たとえば、Saba Mahmoodらの議論を参照しつつ描かれた、座談会の現場でのやり取り。
ここで興味深いのは、はじめの題目三唱の導師やさいごの締めの指導などは男性のMatsubara支部長が名目的におこなうものの、翌月に開催される地域イベントの内容の決定や、地方選に出馬する公明党候補者の紹介や支援方針など、じっさいにどのように活動を行うのかについては、ほぼYoshida地区婦人部長が取り仕切っていた、という指摘である(名前はすべて仮名)。
つまり座談会において実質的な主導権を握っていたのは、役職的には上位にあたる男性の支部長ではなく、女性の地区婦人部長らだったという世界が描かれている(p.159)。

こうした記述をどのように理解すればいいだろう。
まず、ここでは信仰活動上の性別役割分業が成り立っているにもかかわらず(あるいはであるからこそ)、その中で実質的な主導権を担っていたのが婦人部だったという点を確認する必要がある。
そしてそうした主導性は、男性を「立てる」姿勢や、甲斐甲斐しく世話を焼く「婦人部=母」としての役割といった、リベラルな観点からは肯定しえない規範と切り離せない関係性の中で行われた(もうすこし強く言うならば、そうした関係性の中でこそ機能した)ものであることもまた確かだろう(*4)。

創価学会の副会長には女性が一人もいないこと(*下記追記)や、遠山清彦元衆院議員の憲法観や2018年の沖縄知事選への後ろ暗い関与は会内でそこまで話題にはならなかったにもかかわらず、銀座の高級クラブでの飲み歩きのニュースには強烈な拒否反応があったことなど、組織構造や規範の面での創価学会の「生活保守」ぶりはこれまでなんども指摘されてきた。
ただ、活動現場のエスノグラフィーからは、そうしたリベラルとはいえない空間のなかで、実質的に政治への影響力を発揮しえた女性信仰者の姿がみえてくる。
これは「女性の社会進出」の別の形での達成と捉えればいいのだろうか、それとも戦後日本の性差別的な価値観の宗教的な再生産と考えればいいのだろうか。

またこの点にもかかわるが、上記に加えて重要なのは、創価学会の公明党支援は「公共空間への進出」と記述される傾向にあるけれど、ここでは家庭で開かれる座談会という「私的」空間に、選挙活動という「公的」空間が侵入しているようにみえるという点だ。
宗教と政治の接点を「関与」や「進出」といった言葉で記述することは、「宗教=私的/世俗=公的」といった本質主義的な構図を反復しうる点で望ましくないのは、近年の研究動向に触れている人ならだれでも思いあたることだろう。
ただ本書の記述が傑出しているのは、そうした一般論を超えて、戦後日本の政教関係において別の(聖俗?)空間が創出された可能性(あるいは不可能性)を視野に入れている点にある。

もちろんこうした論点は慎重に扱う必要がある。
過度に好意的に語ってしまえば、組織内にいまだ色濃く残る伝統的な性規範までベタに肯定することになってしまうだろう(*5)。

(*2021年12月27日追記:会員の方から、「少なくとも1人はいる」とご教示いただいた。)

③余談:「日本型参加格差構造」について
またこれはレヴィさんの本の紹介からはすこし逸脱する話になるが、ここまで指摘してきた2点と合わせて、最近刊行された、蒲島郁夫・境家史郎『政治参加論』の第7章で紹介されていた話を一緒に読むと、戦後日本の政治参加についてとても有益な視点を提供してくれると思う。

同書によると、国際比較上、学歴と投票参加は正の相関関係にあるという。つまりざっくり言うと、学歴が高い人ほど選挙で投票することが多い。これは高学歴者ほど政治に意向を反映させやすい構造になっているということであり、「政治参加における社会経済的平等」の観点からは望ましくないと考えられている。
しかし60年代から80年代終わりにかけての日本には、この傾向が当てはまらないことが指摘されている。つまり諸外国に比べて低学歴層が投票参加する傾向にあったという。
これを同書では「日本型参加格差構造」と呼んでいる。
本記事にとって重要なのは、同書ではその日本型参加格差構造の要因について、農村部の活発な動員と共に、「都市部低学歴層の動員」として創価学会の活動があったことが指摘されている点にある(蒲島&境家2020:167‐169)。

「教団の意図はともかく、高度成長期における創価学会の活動は、都市部低学歴層の政治参加を直接的、間接的に促す結果をもたらした」(同169)

このあたりを本記事の文脈にひきつけつつ乱暴に要約すると、60年代から80年代の日本において比較的平等な政治参加が達成された要因のひとつは、「貧乏人と病人のあつまり」と呼ばれた宗教集団の激烈な選挙活動があったから、ということになるだろう。

④まとめ
ざっくり性急に①~③の論点をまとめる。
60‐80年代の日本における比較的平等な政治参加構造は、「女性の社会進出」などの近代的な理念を直接的には目的としない、どちらかというと性別役割分業規範を共有した宗教集団による、あくまでも宗教的な信念にもとづいてなされた信仰実践によってその一部がもたらされた、というビジョンになる。

もちろんレヴィさんの調査は主に2000年から2017年にかけてのものであって、60‐80年代の投票参加に関する分析に直接つなげることは一旦慎重になった方がいいだろう。また蒲島&境家がいうように、たとえ社会的平等の観点から評価しえる成果があったにせよ、それを創価学会側の意図に帰するのも妥当ではないと思う。
ただそうした意図を超えて、創価学会という宗教集団の選挙活動という実践は、戦後日本において、規範的な次元ではなく実際的な次元において評価(あるいは批判)されうるものがあるという議論は十分に検討する余地があると考える。

以上、選挙研究、戦後日本の政教関係・宗教とジェンダー、政治参加構造といった観点から本書の重要性や可能性を検討してきた。
端的にいえばこうなる。
戦後日本の政治や宗教に興味を持つ人にとって、本書は必読である。


本書の課題:「模倣国家 Mimetic Nation」概念の有効性について

ガチな書評はしないと言いつつ、かなりニッチな話をしてしまった。もうしわけない。少しでも読みたいとおもってくれた人がいたなら、紹介者としてとてもうれしい(*6)。
ここまでずっと激賞してきたので、最後にすこしだけ本書の課題に触れておく。

大きな論点となるのは、本書の副題にもあげられた「模倣国家 Mimetic Nation」概念の有効性についてだろう。簡単にいえば、創価学会という宗教集団の構造的特徴は国民国家とのアナロジーのもとに説明できるという議論だ。
この点に関して、オウム真理教などの場合は近代国家と同じ言葉で組織を作ったりもしていたので説明できる部分も一部あるように思うけれど、創価学会の組織や活動をその類比のもとで説明するにはやや限界があるように感じる。

もちろん「学会記念日」というテーマを、B・アンダーソンらの議論のなかに位置づけた点は有意義な指摘だと思う。ただ、それは創価学会員という生活における「時間」というテーマの重要性を提起したという意味においてだ。
5・3、7・17、11・18、3・16など、定期的に(というかほとんど一年中)やってくる学会記念日と、そうした時を告げる毎朝の『聖教新聞』とともに創価学会員は日々の生活を送る。
そこには近代性や世俗性の影響はもちろん否定できないものの、まず第一には宗教的な時間に生きていると捉えることが可能だ。アンダーソンの用語に引きつけていうならば、それは「国民共同体」における直線的な「均質で空虚な時間」というよりは、「聖なる想像の共同体」における円環的な「メシヤ的時間」に近い世界だと言えるのではないだろうか。


まとめ

などなど、最後にすこしだけ課題と思われる点について触れたが、そうした諸点含め、本書がかつてだれも描いたことのない世界を記述した画期的な一冊であることは疑いがない。
戦後日本、すくなくとも戦後日本政治というテーマを考察するうえで欠かせないインパクトをもつ、にもかかわらず一定の水準を満たす学術研究のすくない創価学会という組織を理解するうえで、レヴィ・マクローリンさんの本書はもはや避けて通ることのできない、超一級の著作であると確信する。

以上、駆け足ではあるが、『Soka Gakkai’s Human Revolution: The Rise of a Mimetic Nation in Modern Japan』を紹介してきた。
すこしだけ寂しいのは、本書で描かれた世界が、遠くない未来に「過去の創価学会」についての記述になってしまうかもしれない、という点だろうか。
それくらいのスピードで、いい意味でも悪い意味でも「池田大作という人物がいた時代の創価学会」は失われつつあるように思う(*7)。
そうした意味でも、本書は早急に日本語訳される必要があると考える。


【注】

*1 創価学会で重要とされる、日蓮仏教の知識を図る試験のこと。任用、初級(青年部の場合は3級)、2級、1級と、知識の達成度がわかるクラス分けがされている。

*2 創価学会員であるにもかかわらず虐待があると書くことも、創価学会員であるせいで虐待があると書くことも、おそらくどちらもフェアではない。人間の集団なので、当たり前にいろいろある。ただ、日本の創価学会の家族だからこそ起こりえる、創価学会の家庭特有の不和や虐待と呼べるものはある。
漫画家のふみふみこさんは、「この漫画だけはかかずに死ねない」との言葉とともに、とある宗教を信仰する家庭にうまれた少女のマンガ『愛と呪い』を描いた。「宗教と家族」というテーマに興味があって、自身の体験がフラッシュバックする恐れのない人に、一読をオススメしたい。

*3 英語圏の研究なら、Ehrhardt氏やレヴィさんらが編集した「Kōmeitō: Politics and Religion in Japan」、Kleinさんとレヴィさんの「Kōmeitō: The Party and Its Place in Japanese Politics」、Adam P. Liff氏とKo Maeda氏の「Electoral incentives, policy compromise, and coalition durability: Japan’s LDP-Komeito Government in a mixed electoral system」などがとても参考になる。

*4 もちろんここで記述された主導性は、「どのように支援を行うか」にかかわるものであって、「どのような政策を要求するか」や「そもそも支援するか否か」にかかわるものではない。その意味で「用意された主導性」に過ぎないのではないか、という留保はあってよい。
合わせて検討すべきは、問題的な政策案が了承された場合、「学会婦人部からの反発」が報道されることはあっても、男子部や壮年部からの反発が報道されることはきわめて少ないという現状であろう。これは選挙活動に婦人部の影響力が大きいことの証左であろうか。それとも、大きな決定は男性幹部を中心に既になされており、女性幹部側はそうした決定に対して同意するか反発するかしか選択肢が残されていないことを意味するのだろうか。

*5 私の後輩の創大卒業生にも、このあたりの性規範の「居心地悪さ」に苦しんだ人がいる。居心地が悪いなら組織を辞めればいいという単純な話ではない。学会公式Instagramで美雲さんの体験が語られたことは重要な一歩だが、まだ足りない。すくなくとも現役会員として、早急に改善してほしいと願っている。

*6 そのほか、日本語で読める書評として、中野毅先生の「レヴィ・マクローリン著『創価学会の人間革命:近代日本における擬態国家の出現』(ハワイ大学出版会、2019年)を読む」がある。

*7 たとえば創価学会は、「新宗教」と呼ばれることを嫌い、自らを「伝統的な宗教組織」だと位置づけているという(第4章)。これはテキスト上はその通りで、私もそう教えられてきた。ただ、最近は少し異なる様子になっている。
近年、作家の佐藤優さんが創価学会や公明党を賞賛する本を大量に刊行していることを、書店などに行く人は知っているかもしれない。そうした書籍の中で、彼は創価学会を、自らの信仰であるキリスト教との類比のもとに肯定的に評価している。
たとえば「WEB第三文明」に掲載されている佐藤優さんの近著『世界宗教の条件とは何か』の書評では、西暦313年のミラノ勅令によってローマ帝国の公認宗教となり、世界宗教となったというキリスト教の経緯にふれつつ、佐藤優さんの次の言葉を引用している。

それに対して、創価学会の世界宗教化は、二十一世紀のいま、本格的に始まったばかりです。私はその世界宗教化の過程を、同時代人として逐一見て体験することができるわけです。キリスト教神学者である私にとって、これほどかけがえのない体験はありません。

つまり佐藤優さんは現在の創価学会を、世界宗教となった現在のキリスト教とではなく、世界宗教となる前の初期のキリスト教の段階に位置づけていることになる。
奇妙なのは、こうしたキリスト者によって(自分たちはあなた方よりも2000年は先んじているという自覚のもとに)なされた査定を、創価学会側が好意的に受け取っていることだ。たとえば同書のAmazonレビューをみれば、佐藤優さんの評価が会内でどのように読まれているかは一目瞭然だろう。
(創価学会の声を直接知ることは研究上なかなか難しいが、Amazonレビューはその顕著な例外となっている)。

つまりかつてはキリスト教よりも古い起源をもつ仏教を信仰していることを誇っていた創価学会だが、宗祖日蓮の生誕から800年余、学会創設から90年余をむかえた現在にあって、「生まれたばかりの頃のキリスト教みたいだね」とキリスト者に言われて喜ぶ組織になったことになる。

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