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日傘の女〜ホラー短編小説〜

 照りつける太陽が、露出した肌をぢりぢりと焦がす。連日の猛暑日。交差点の向こう側のビルを見上げる。各地の最高気温を告げるアナウンサーの顔を見て、反吐が出そうになる。
 そんなん聞きたくない。余計に暑さが増すだけだ。競ってなんになる。くだらない。
 それよりも、それよりも、僕は——。
 傷だらけの鞄の持ち手を握りなおす。今日もサイアクな一日だった、と黒々と光る地面に目を落とす。
 あの場所が嫌いだ、大嫌いだ。そうして、帰りたくない。あの場所にも。
 止まっていた人の群れが、動き出すのを感じた。不意に顔を上げる。目の前の信号は青。背後から小さな舌打ちが聞こえ、しまった、と思いながら、交差点に向けて右足を踏みだした。
 
 帰りたくない。帰りたくない。
 つい足許を見そうになり、急いで顔を上げると、額から滴りおちた汗粒が目に染みた。痛い。目の痛みよりも、心の方がひりひりと痛んだ。頭上から降りそそぐ熱い日差しがより、放置していた傷口を広げ、ケロイド状の皮膚(心)を焦がしていくようだった。

『あんた、またいじめられたの?』
『情けないヤツだね』
『キモいんだよ』
『だから、いじめられるんだよ』
『自分でどうにか出来ないの? ほんとに弱っちい男だ』
『もう帰って来なくていいのに』

 帰りたくない。しかし、帰る場所がない。僕の居場所はない。あそこにも。あそこにも。どこにもないのだ。だから、帰るしか——。
 その時、向こう岸に白い何かが見えた。黒くぞろぞろと行進を続ける群れの向こうに、〝あれ〟がいた。異様な白さを放っている。
 ああ、神さま、神さま……。
 足が震える。前の群衆を掻きわけるように、僕は必死に駆けだす。迷惑だって思われてもいい。早くあれの元に行きたかった。
 大きく広げた傘は白く輝いている。残念ながら顔は影になって見えないが、傘の下から伸びている真っ白なワンピースの裾からは、これまた乳白色の足がすらりと飛びだしている。傘を差す腕も、両足も。命を宿していない、血を通わせていない、人形のように感じられた。
 ああ、来てくれた。来てくれたんですね。
 僕の祈りが届いたのですね。

 群れが目的地を目指し、パラパラと散らばって行く。僕だけは日傘の前で立ちどまる。
 日本各地も、この場所も、信じられないほどの猛暑日だというのに。彼女の周りだけは氷柱に囲まれたように、ひんやりと涼しかった。
「来てくれたのですね。ありがとう」泣き縋るような勢いで飛びだした、感謝の言葉。
 彼女は何も答えない。蒼白い裸足の足をくるりと回すと、すぐにひたひたと歩きだす。熱を吸収したアスファルトは高温のはず。だが、彼女の足の裏は火傷しないらしい。さすがだ。さすが、都市伝説だけはある。

 彼女の後ろ姿を眺める。僕は彼女の後ろを着いていく。顔はやはり見えないが、傘から伸びた黒い毛先が揺れている。意外にも華奢な体付きだった。しかも、日傘を差しているだけ。他にはなんにも所持していない。それを疑問に思いながらも、これから起きる出来事に胸を躍らせている自分がいた。
 彼女には事前にリストを渡していた。だから、ターゲットの場所は分かっている。まずは一人目のターゲットの家に到着。
『待ってて。片付けて来るから』繊細なガラス細工みたいな声色だった。すうっと彼女は玄関の扉をすり抜ける。
 刹那、中から響く物音と叫び声。命乞いをするようなあいつの声が、耳に届いてくる。しばらくすると、日傘を差した女が戻ってくる。鮮やかな赤が、瞼の奥に焼きついた。
『やって来たわ。さあ、次に行きましょう』彼女はそう呟くと、左手に掴んでいた赤黒い塊をこちらに放り投げた。カッと見開いた目には、見覚えがある。当たり前だ。だって、こいつは僕が死ぬほど恨んでいたヤツだから。毎日僕をからかい、バカにし、いじめていたヤツだったから。そいつの生首が、恨めしそうにこちらを睨んでいる。
 ひたひたと歩いていく足音。僕は急いで後を着いていく。真っ白だった傘の上部には、べっちゃりと血液が付着しているのが見える。赤い水玉模様の日傘のようにも見える。
 ホンモノだ。彼女はホンモノだった。あの一瞬で、僕のターゲットを殺した。凶器はたぶん、この日傘だ。すごい。素晴らしい。僕は心の中で拍手を送る。

『殺したい相手を殺してくれる日傘の女がいるらしい』とSNSで噂になっていた。ただの都市伝説だと思っていた。僕は怪談や都市伝説が好きな人たちが集まるチャットに参加し、情報を片っ端から集めていた。そうして、呼び出す方法を見つけたのだ。
 来るわけがない。そう思っていたが、僕の願いが強かったのか、根深かったからなのか。彼女はこうして今、僕の目の前に現れたのだ。そうして、僕の願いをたった今叶えてくれたのだった。
『僕をいじめるヤツを全て殺してくれ』という願いを。僕の切実なる祈りを——。

 次のターゲットの家の前まで来ると、彼女はまたぴたりと立ちどまる。結構歩いたから、僕は汗だくだった。それなのに、彼女は息を切らした様子もない。ワンピースの裾から伸びた足は相変わらず蒼白く、さらさらとしている。その様子から、やはりこの世のものではないのだと感じ取れる。
『待ってて。片付けて来るから』こちらを振り向くことなく、彼女はさらりと囁く。長い黒々した髪先だけが揺れうごく。顔は見えない。顔があるのかさえ、分からない。
 焦茶色の扉に消えていく日傘を眺めた後、僕はすぐ、庭の方に回りこんだ。彼女がどうやって殺すのか? それを見てみたかったから。

「だ、誰だ、あんた?!」あいつの声がする。ガラス窓に鼻先をくっつける。彼女はこちらに背を向け、閉じた日傘を右手に握っていた。
「何をしに来たんだ?!」あいつは尻もちをつく。目を目いっぱいまで見開き、恐怖で顔が歪んでいる。彼女の顔がそんなに恐ろしいのか。
 畳まれた傘の先を掲げる彼女。その先がぎらりと光る。弧状の刃が出ている。死神の鎌のようだった。しゅんっ! と風を切るような音がすると、鮮やかな血の絵の具が飛びちる。それは綺麗な波形を描いて、部屋の壁面や床面を汚した。
 首を失った体は両手を彷徨わせたあと、すぐ後ろに倒れて動かなくなる。ごん、と鈍い音がした。飛んでいった頭部が床に落ちた音らしい。彼女の右足のすぐ近くに、真っ黒な髪が貼り付いたサッカーボールほどの塊があり、こちらを見ていた。白目を剥いたあいつの頭部。僕は思わず顔をしかめ、急いで庭から逃げ出した。
『お待たせ。さあ、次に行きましょう』
 うずくまっている僕のすぐ横に、彼女は来ていた。顔を上げると、血の色に染まった日傘が見える。左手に握りしめている頭から、真っ赤な液体が糸を引きながら滴っている。彼女はそれを地面に立てると、躊躇なく細い足でどんっと蹴りあげる。宙を舞った塊は髪を靡かせながら、庭の奥へと消えていった。

 日傘の女の殺人ショーは、とても華麗に行われていた。血塗れの傘を差して歩いていても人々に見えないのか、何も言われない。でも、ターゲットには見えるらしい。仕組みがよく分からないが、彼女は僕のターゲットを次から次へと殺してくれている。大満足だった。
 たった今切断したばかりの頭部を引きずりながら、僕の前に帰って来た彼女を見上げた。
「ありがとう」と感謝の気持ちを告げたが、彼女は何も答えない。その代わりに首を裸足で踏みつけた。ぶしょぶしょ、と肉が潰れる音が、暗くなりつつある夕の空に響いた。次が最後のターゲットだった。
『さあ、次で最後ね。行きましょう』くるりと向きを変えた彼女は、影を落としつつあるアスファルトを歩きだす。僕は小さく頷くと、小走りで後を着いて行った。

 *

 自宅マンションの扉の前で、ふうっと息を整える。ここが最後のターゲットの場所だ。鍵を開けて、冷たいドアノブをひねる。キイ、と音が響く。「ただいま」と呟くが、案の定、答えが返ってくることはない。いつものことだ。
 背後に彼女の幽かな存在を確かめながら、湿った廊下に足を踏みだす。騒がしいリビングに向けて歩きだす。
 さあ、お前たち覚悟しろ。僕を毎日いじめた罰だ。あいつらも憎い。でも、こいつらの方が、何故か憎しみが増した。いじめを暴露しても、誰も僕の味方にはなってくれなかった。だから、日傘の女に殺害を頼んだのだ。
 アルビノの蛇を盗み、願いを込めながら首を切断し、体を縦に真っ二つに裂いた。それを丸め、丁寧に赤い糸でぐるぐる巻きにする。それを近所の公園に埋めれば完成。これが日傘の女を呼び出す方法だった。

 バカ笑いが漏れる扉を開け、もう一度「ただいま」と呟いた。女たちは一瞬笑い声を止め、こちらを見ると、露骨に嫌な顔をした。
「何で帰って来たんだよ」
「帰って来なくていいのに」
 うるさい。そんな口も、もう聞けなくなるんだからな。背後からの気配が、横にずれるのを感じる。それを見た女たちはおかしな顔をする。
「誰、その女?」
「どうして、日傘差してんの?」
「まさか、あんたの女?」
「ははは、お母さん。そんなわけないじゃん」
「そうよねぇ、あんたにそんな度胸あるわけないわよねぇ。会社でいじめられてんのに」
 僕は作った拳を、ふるふると震わせていた。
「何よ、その顔。文句があるなら言えよ」
「だから、お母さん。こいつなんかにそんな事できないって。まともな父親じゃないんだし。わはははっ」
 確かに、僕は会社でもいじめられ、お前たちにもいじめられているし、弱い人間かもしれない。でも、でも、毎日お前たちの為に一生懸命働いていたんだ。それが父親の役目だと思っていたから。しかし、もう限界なんだ。こんな生活、耐えられない。
「お願いだ! こ、こいつらを、こ、殺してくれっ!」二人から顔を背け、泣きながら彼女に懇願する。分かったわ、と透き通る声色が響いた。すぐ目の前に、傘を下ろした彼女がいた。黒髪が揺れ、しゃき、と刃物が飛びだした音がすると、

 視界が一瞬で真っ赤に汚れた。どんっ、どんっ。二つの塊が床に落ちた音で、ようやく二人が死んだのだと気づく。それだけ彼女の殺戮は華麗で美しく、素早いものだった。
 辺りには血の匂いが漂っていた。今夜は煮込みハンバーグだったのか、肉の煮込んだソースの匂いと血の匂いが絡みつき、異様な生臭さが鼻をつく。胃が持ちあがり、吐き気が喉元までせり上がってくる。僕は口元を抑えながら、重なり合う妻と娘の首なし遺体を眺めた。
 ようし、これで邪魔者はみんな抹殺した。僕はやっと、人生をやり直せるんだ。僕が殺したのではない。彼女が、この血塗れの日傘を差した彼女が、こいつらを殺してくれたのだ。依頼を引き受けてくれた。本当に感謝しかない。
『さあ、これでお終いね。わたしはもう帰るから』血液でぬめった床の上を、裸足で踏みつけながら歩きだす彼女。僕は「ありがとう」と何度も頭を下げる。彼女はリビングを出て、玄関へと向かう。ガチャ、と聞こえたあと、『あら』という声が微かにした。

 何だろう。まさか、警察? 僕は急いで廊下へと飛びだした。真っ赤な日傘の向こうに、真っ白な人影が立っている。
『あら、お疲れ様。もう終わり?』白い日傘の女が、彼女に問いかける。どういう事だ? どうして、彼女がもう一人……。
『そう、今日はもうお終い。あなたは?』
『わたしは今から——』
 もう一人の女の向こうから、一人の人物がひょこっと顔を出す。見覚えがある。近所の小太りの男だった。そいつが僕を指差しながら、大声で叫びだす。
「こ、こいつが犯人だ! 俺のアルちゃんを盗んだ犯人だ! 俺の大切なアルちゃんを! 今すぐに殺してくれっ!」

 ひたっ、と足を踏みだす音がした。逃げる間もなく、弧状の刃先が眼前で輝いていた。すぐさま、肉を遮断する感覚が襲いかかると、生温かい血の雨が降りそそいでくるのが見えた。

(了)


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