見出し画像

Episode 666 一緒にしてはいけません。

最近のTVドラマやアニメは完全オリジナルの作品が少なくなって、小説やマンガが原作の作品が多くなったと感じます。
「ついに待望のドラマ(アニメ)化!」なんてね。
ところがその「原作あり」の作品ってのは、その原作の世界観を如何に表現するのか…って辺りが難しいのでしょう。
「ドンピシャ!」とか「イマイチ」とか、その感想も人それぞれなのでしょうから、制作側も大変なのだと思います。

原作ありの作品の映像化で、私が特に感じるのは、そのスピード感が原作と異なること…でしょうか。
例えばマンガのアニメ化は、週間連載の1ヶ月分が30分のアニメ版の一話で消費される感覚かな。
アクションシーンの多いマンガでこの傾向が顕著なのは、原作マンガではアクションシーンを細かく描く程にスローモーションになるからなのだと思います。
たった1分のシーンを描くのに週間連載一話分を割くとか、あり得るワケでして。
映像化するにあたり、マンガや小説では自在に伸びる「時間軸」を現実の時間という「尺」に合わせる操作が必要になるのは当然で、そうしないと今度は逆に映像化によるリアリティが出なくなるのだろう…と思います。

ところで…2月にあずさ(@41azusayumi)さんとスペース対談をしたことは先日note記事にしました。

この時、文字情報(音声としての言語情報を含む)の理解の仕方で、「てにをは」の解釈がスムーズにできるのか…という点が話題になったのです。

言語優位型の認知特性であっても、視覚優位型の認知特性であっても、解像度の差こそあれ「脳内理解は映像である」ということについては、あずささんも私も共通の理解になったのは、恐らく間違いありません。

要するに、私は文字(音声言語)情報を自分の納得いく映像に置き換えるのに、多くの情報量を必要とするのです。
あずささんは、この逆のことをご自身のnote記事で言われているのです。

動画をほぼまったく観ることができないのも、目の前の動画の中の登場人物の動きにあわせてマグネットを動かすことができず、そもそもそんな数のマグネットは置けない上に置いたとしても間に合わない、というあたりで説明がつきそうです。

ホワイトボード上のサボテンマグネット。」より

ところで先日、私はパートナーと博物館へ行きましてね、そこである発見をしたのです。

何と言いましょうかね…映像を浴びる感覚とでも言いましょうか。
見ているもの、見えているものをそのまま受け取るのが映像型認知…と思っていた部分があるのですが、受け取った映像の一部を切り捨てている気がしたのですよ。
シャワーのように映像を浴びているのですが、シャワーヘッドから放たれた映像全てが私の体に当たるわけではない…みたいな感じでしょうかね。
目に映る映像から不要なものは捨てられるのです。
ただ、それは全く不要なものではなく、背景として大きな意味を持つイメージです。

博物館の展示を回りながら、パートナーと私は同じものを見ながら別のものを見ていました。
それは、前回の記事でお話しした通りです。
でも、背景に回った映像も記憶の中に含まれていてパートナーの言葉をキッカケにして脳内映像を巻き戻し、焦点位置を変更することでイメージを取り直すことはできる…みたいな感じでしょうか。

私はよく、パートナーに同じドラマを何回も見ることを指摘されるのですが、それは私が「結末のわかる同じものだから落ち着いて見ていられるASD的な安心感」に因るものだと理解していました。
それもあります、でもそれだけではないように思います。
同じ映像を見ていて、見る度に違う発見があるのは、切り取る位置が違うから…ではないかと。

どうやら認知特性は、言語系/映像系/聴覚系などという入力系統で分けられる以外に「彫塑(modelling)型」と「彫刻(carving)型」があるらしい…という気がするのです。

引用した方を例に上げさせていただくならば、あずささんは言語系の「彫塑(modelling)型」だし、Lu(@lunlunsan)さんは映像系の「彫塑(modelling)型」なのに対して、私は映像系の「彫刻(carving)型」なのだろう…ということ。

限られた情報から必要な要素を構成していく「足し算型」の理解が「彫塑(modelling)型」だとすれば、既成で映像化された自分には必要ない背景は余計な情報として邪魔になるのは理解できます。
一方で膨大な情報から不要な要素を削ぎ落としていく「引き算型」の理解が「彫刻(carving)型」であれば、削ぎ落とす背景がないのは不安材料になるでしょう。
冒頭の「映像化」の違和感は、このあたりの構成と情報抽出への認知の好みの可能性がありそう…と感じます。

だから、読書が得意ではない…とは、文字(文章)との相性もあるのでしょうが、作り上げられたイメージからの引き算である「彫刻(carving)型」である可能性が高くないかと思うのですよ。

背景も含めて完全なイメージを作成してから不要部分を削ぎ落とすとなると、「てにをは」も重要だし膨大な情報量も必要とされるワケで、しかも元データの文章がイメージしやすく情景描写されているとは限らないワケでして。

ASDと認知特性の関係性を考えた時、何が得意なのかによってASD資質の方向性に個性としての影響が出るのは、十分条件として理解できます。
ただ、認知特性がASD資質の方向性を決定する必要条件とはならない…ですよね。

ASD当事者が持つ得手不得手に法則性はない…ASDだから「アレ」が得意で「コレ」が苦手とかいう「向いている仕事」みたいなモノはないのだろうと思います。
一方でASD/定型(典型)を問わず、同じ得手不得手を持つ人の特徴は存在し、ASD当事者は能力的な凸凹の大きさからその特徴が際立つ可能性はあるのだろうとも思います。

「ASD」と「できる/できない」を安易に繋げることが危険なのは、特に今回のことで理解が深まったと感じたのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?