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Episode 512 「歪み」の尻尾を掴むのです。

ASDの私は、自己完結してしまうことで答えを自分で用意してしまうことが多いのです。
あなたとの意見の調整が難しいから、調整する必要のない既定の社会的価値観で自分の苦手を回避しようとすることを覚えた…というのは、私の過去を振り返り、今を見回して感じる「ASD的な思考パタン」の根本を成す部分です。

でも、それではどうしても説明できないことがあるのですよ。
ほら、アレです…恋バナです

えー…暫く記事の話題には上ってませんでしたが、私はパートナーが「大好き!」で、それは私の一方的な一目惚れで始まった…という話は、かれこれ2年半ほど続けているこの記事連載で「またかよ!」って思われるほど話題にしているのですよ。
当然のことながら、あなたのことを好きになってしまったのは私の意思でして…。
「ぁん?私の意思?」あれほど触らずに隠していたって言い放っている私の意思で好きになる
そうですよ、あなたを好きになったのは「私の意思」です、「社会的な常識」ではありません。

この話は添付した過去記事「人の評価が気になります。」でも書いているのですが、自分の心に正直な言動が出る時のASDは、基本的に積極奇異傾向が前面に出ている時だ…と、私は思っています。
ただ、あなたの意見と私の意見を擦り合わせて調整できないのは積極奇異傾向が前面に出ている時であっても、受動傾向傾向が前面に出ている時であっても変わらないのです。
何が言いたいのかと…というと、曲がらない自分の意見と、自分の意見の身代わりにした社会的価値観の区別がね、自分自身で付いていないのだ…ということです。

受動傾向のASDは、自分自身の意見や行動に自信がないから、既に安定した評価を得ている「社会的常識」に頼るのだ…ということは冒頭でも指摘した通りです。

でもこれ…自分で「これが常識」と理解して「社会的常識/価値観」を受け入れているのではなくて、「みんなこう考えているに違いない」がベースだったとしたら、「価値観を受け入れる」という行動のイメージが変わるよね…。

前回の記事で、私は「(ASDの自己完結型思考回路が)大人になってから編み出されたものではなく、子どものころから普通に感じていた感覚なのだ」ということを指摘しました
なんでも見て聞いて吸収する幼児~小学生ぐらいの子どもは、できないことに対して非常に「残酷」な一面があると思います。
ASDの子どもに限らず、定型発達の子であっても「もれなく」見て聞いて色々なことを覚えていくワケです。
「おまえ、こんなのもできないのかよ!」
ASDの私は、そんな「できない」という烙印を押されないように、必死で「形」を覚えます。
そこが既に自己完結なのですよ…「みんなこう考えているに違いない、同じように『形』を覚えているんだ!」ってね。

今まで、「自分の意思通りにできない、意見の折り合いが付けられない」ことが自分の意思を隠し、社会の常識を取り入れて身を守る原因だと思ってきました…が、どうやら「これ」の他にも理由がありそうです。

「みんなこう考えているに違いない」という極めて単純な自己完結思考がベースにある…先天的な障害であれば、幼く知識量が少ない頭脳で必死に考えざるを得ないハズで、複雑な理由がベースにある理由が説明できません。
だとすると、社会的常識も自己完結で「みんなこう考えているに違いない」という既定の事実になるワケですよ。
そして、それが私の常識的な意見になるのではないか…ということです。

「みんなこう考えているに違いない」は、私の「常識的な意見」だとして、私の恋はどうなのでしょうかね?
受け入れた「社会的常識」は、無意識の内に「みんなこう考えているに違いない」という理由で「何の不思議もなく」自分の意見にすり替わる、それは自分自身の意見だと自分自身が信じて疑わないワケです。
一方で「あなたが好き!」という明らかな自分自身の意見は、これもまた自分自身の意見として扱われるワケです。

外から見た「私の常識」は、その成り立ちからして「一貫した自分の意思」が表現されていない可能性があります。
社会的な価値観でオブラートのように包まれた私の意思が、所々でオブラートから突き出ている…その不整合こそが違和感の原因かもしれない…。

俗にいう「認知の歪み」とは、この不整合を指す…とすれば、どこかしらに納得感があります。
「認知の歪み」とはこういうことなのかもしれない…そのイメージに尻尾を掴んだ気がするのです。

ところで…私はこの「認知の歪み」という表現はあまり好きではないのですが、他に良い表現はないでしょうかねぇ…。

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