Episode 511 手出しをするのは不安です。
まず初めに、今回の記事はASD当事者の私が個人的に感じることであって、医学的にも心理学的にも定説になってることではありません…と明記しておきます。
先日、何げなくTwitterのタイムラインを眺めてて、ものすごく興味深いツイートを見つけたのです。
「他者がやっていることは自分がやることではない」…。
私も自分の幼少期を振り返ってみるに、「思い当たる節」が大いにあってですね、改めて「これは何故だろう?」と考えてみることにしたのです。
私はこのツイートに対して以下の通り引用RTで言葉を探しながら、理由を手繰ろうと考えます。
何と言うのかな…「あなたの楽しい」に合わせて私の楽しいを on できない、「私の楽しい」を、あなたには邪魔されたくない…でしょうかね。
「私の楽しい」を、あなたには邪魔されたくない…の説明はカンタンです。
ASDの自己完結思考と過集中…という良く知られたふたつの特徴を言うだけの話です。
つまり「私のMAX楽しい」の状態をキープしたい…ということです。
「ASD的なひとり遊び」は、大概の場合、これで説明できます。
その一方で、「あなたの楽しい」に合わせて私の楽しいを on できない、「楽しさ」を調整して最大公約数的な着地点を用意しても、物足りない、納得できない…に、なってしまうのはどうしてなのか…を説明するのは、なかなか厄介です。
あなたがしていることは「既にあなたがメイン」ですから、仮に横から仲間に入れてもらっても、それはなかなか自分のペースには持ち込めないワケです。
それ故に「私のMAX楽しい」にはならない…と、経験的に理解しているハズです。
ここの「MAX」に足りない部分を、あなたと笑顔をシェアすることで補うことが、私には難しいのだ…というところまではツイートで言えたつもり。
でも何かが足りないのですよ。
なぜあなたとの笑顔のシェアに不満が残るのか?
この悩ましい思考パタンを理解する糸口は、以前にお話しした「ASD的MT(マニュアル・トランスミッション)車」という仮説にあるのでは…と思います。
詳しい内容はリンクから過去記事(全5話)を読んでいただくとして…これの内容を敢えて一言で言うならば、「ASD脳をクルマのエンジンに見立てた時、常に高回転域でのエンジン回転数を維持したがる特性があるよ」…って仮説です。
この比喩表現で言い表した時の「ASD的なひとり遊び」は、「私の一番心地よい 70km/h、3,000回転/分…で、快適巡行中!」ってことです。
これに対して「楽しさ」を調整して、あなたとの最大公約数的な着地点を用意した場合、「70km/h、3,000回転/分」を維持できないワケですよ。
最大公約数型の調整である場合、回転数が「自分の理想」に届かないので、「届かない分の回転数」をどこかで稼がなければならなくなるのです。
並行して他のことをしたり、他のことを考えたり…。
そこに一緒にいるあなたが私に対して「何かしらのアクション」を入れると、瞬間的に反応できなくなる…そう言うことです。
既に「ほかのこと」に回転数を振り分けているから、セーフティな高回転ゾーンがない、一気にレッドゾーンにまで回転数が跳ね上がることになる…これは疲れます。
だからといって、自分の理想ではない低回転域でのガマンを強いられるのは、ASDの性質上「不安」を伴うことが多いのです。
逆に、「自分が楽しい」に対して全力であることが、「あなたの楽しい」に繋がらないと感じる…とはどういう事か?
これは、手加減されている状態ですね…。
あなたが「余裕の笑顔」なのに対して、私は「必死」で笑顔でいられない。
あなたは「私が楽しいハズの70km/h、3,000回転/分」に涼しい笑顔で付き合い、さらに私が意図的に飛び込んだ「レッドゾーン」にもついて来るようならば、私はあなたの楽しいに付き合えないと感じてしまうワケです。
「え、何で?…私はあなたの笑顔で十分に楽しいのに!」
そう思うのは、笑顔をシェアすることで楽しいを共有できる定型の方の感覚です。
良いですか、ASDの私の感覚は私の持ち得る普通の感覚です。
定型の方が感じる感覚は持っていないのです。
あなたも私と同じような感覚を持っている…そう思っているワケですよ。
そう考えると、必然的にあなたの「楽しい」に付き合えるだけの力量が、私には無い…ということになります。
ASD的な劣等感は、不器用で出来ることが少ないから…だけではないかなぁ。
「あなたに付き合ってもらっている」…は「あなたの楽しさを奪っている」になるし、「あなたに付き合っている」…は「私の楽しさに届かない」になる。
だから、あなたがやっていることに手を出すのは「リスク」以外の何物でもない…になるワケです。
この思考の根本にはASDの自己完結型思考回路があって、それは大人になってから編み出されたものではなく、子どものころから普通に感じていた感覚なのだろうと、子ども時代を思い出してみて、私は思うのです。
そういえば、物理的・具体的に至近距離の人がしていることに手を出さない…は、つい最近、別角度からも記事にしたばかりでしたね。
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