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Episode 651 穏健にならざるを得ないのです。

以前から私は発達障害(者)を取り巻く環境を、米英の二大政党という政治体制にたとえてお話ししてきました。

既得権益に守られ、それを良しとする勢力が保守派…アメリカで言う「共和党」、イギリスで言う「保守党」がこれにあたります。
一方で、時代の変化と合わせて発生する不具合による不利益を解消することを求める勢力が革新(リベラル)派…アメリカでは「民主党」、イギリスでは「労働党」と呼ばれる政党がそれにあたります。

私たちのような発達障害者はその概念自体が新しく、それゆえに社会的認知の低い今の社会環境での「生き辛さ」を訴えていくことになることが多いのでしょう。
ですから、発達障害者の多くは保守勢力ではなく、革新勢力に位置付けられることになる…と、私は思っています。
もちろんこれは大勢を俯瞰した一般論ですので、全ての発達障害者に当てはまるハナシではないのですけど。

そういう私は発達障害者としての生き辛さを、40年も生きてから自覚したワケで、恥ずかしながら自覚するまで「我こそは普通」と思って生きてきたのです。

基本的にこの世の中に不満がない人は「保守派」の一端を担うことになる…と、私は思っています。
だって、不満がないのにワザワザ労力を払って社会を変えていく必要なんてないじゃないですか。
私は無自覚なASDであった40年もの間、自覚なく保守派の一端を担ってきたのだと思います。

ところがですよ、私は添付した「北風と太陽」のハナシで書いた通り、社会的なトラブルをたくさん起こして「ASDである」という診断に至ったのです。
社会との接点にストレスがあったことは明白なのに、それに気がつかない鈍感さも私にはあったワケです。
さて、困りました…今まで拠り所にしていた保守が作りあげた社会に対してストレスがあるって、考えたこともありませんでしたから。

やがて私は自らのASD性を考える中で、発達障害を含む「障害者の権利とは」…などを考える様になるのですが、この思考にはどうしても既得権者に対しての権利の要求という方向性が生まれてくるのですよ。
「発達障害者の多くは保守勢力ではなく、革新勢力に位置付けられることになる…と、私は思っている」と考える理由はこの辺りにあります。
問題は、その思考を如何に表現するのか…という方法です。

保守派/革新派を問わず、政党の中には自らの考え方に信念を持ち、それを頑なに貫く「強硬派」と、対話を求め、落としどころを探ることに活路を見出す「穏健派」がいます。
どちらが良いか悪いか…というハナシではなく、自分の主張を聞いてもらうためのスタンスとスタイルの違いということですね。
所謂「強硬派」には、人を惹き付けるカリスマ性ともいえる求心力が必要で、自分の意見を徹底的にブラッシュアップできるストイックな知性が必要…と私は考えます。

その一方で私は…と言えば、典型的な「穏健派」になるのです。
その理由は、社会に潜伏することで人生をサバイブしてきた私が、その徹底した迎合による社会適応する方法で「保守強硬路線」を突き進んだ結果、私を守ってくれると信じた社会的常識に私の判断を売り渡したからでしょう。

社会的価値観を後ろ盾に「世間一般的な最適解」を示すことで自分自身の意見を封印してきた私が、障害者としての自分の権利を主張する…その封印した「主張する行為」を開放する時に、強硬派の方のように自信を持って自分の意見を主張できるかと問えば、否でしょうね。

私には無自覚ASDであったころに、保守強硬路線で「既存の社会的価値観」という正論を振りかざして反論を封じ込めてきた…と言う過去があります。
さらには、誰かとの諍いの中で覚えていく「自らの意見の調整」が特性上難しかった、その解決策として「自らの意見」を言うことを封印したことも間違いありません。
このふたつが重なって「主張すること自体への気後れ」と結びついてしまっているのでしょう。

私は「私はこう思う」という言葉をあなたに聞いてもらうために、どんな方法を使うのか。
強い言葉を使って主張することを嫌い、語り掛ける様に書くという努力をするのは、私のそんな思いのと経験から編み出された、私なりの伝える方法としてのライフハックなのだと、そんなことを思うのです。

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