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Episode 405 「感情」と「符号」の違いです。

先ず、これを…。

Twitterで私が呟いたものです。
ASDの私は、こんな「あいさつ」というコミュニケーションの初歩でも躓くケースがあるよ…ということをお伝えしたかったツイートです。
表情を読み取る能力に欠ける私は、私があなたと相対した時に話しかけるタイミングが分からないとか、どんな言葉を掛けたら良いか分からないとか…という具体的な困りごとに直結すると、前回のブログで指摘しました。

でもね、そんな私が「だからあいさつをしないのか?」と言ったら、するのではないか…と思ったのです。
それはこんなツイートがキッカケでした。

精神科医でASD当事者でもある あずさ(@asph29)さんのブログ「精神科医的ひとりごと(仮)」の「アスペ国の定型族」という「定型とASDの人口比率が逆転した場合」を想定したパラレルワールドの記事を読んでの感想が含まれているのですが、この中で合理的なASD視点と感情的な定型視点では、見えている世界が全く異なることが明らかになっていくワケです。

それで…最初の「挨拶するしない」の話に戻るワケですが、ASD的なあいさつとは「感情を伴わない符号」みたいな意味合いが強いのではないか…と。

例えば、職場での「おはよう」の意味は「私が出社しました」「あなたが出社しました」という確認作業ということ…そこに「感情」を入れる必要を感じないし、入り込む余地はないのではないかということ。
こう考えると、定型タイプとASDタイプの思考の拠りどころが全く異なることが鮮明になるのです。

昨日コンコンと説明して理解したハズの話を、翌日には綺麗サッパリと忘れているASD」の、説明が理解できない理由は、これなのかも知れない!
同じものを見ていても根拠が違うということが理解できないと、本当の意味での理解は出来ないのだろうと感じます。

<加筆>
定型側のあいさつについて以下補足です。
ASD側が「挨拶は符号」で固定だとした場合、定型側は相手との距離感や親密度に応じて「符号+α の感情がスペクトラムに乗る」という感覚だという点を補足します。
関連ツイートを添付します。

旧ブログ アーカイブ 2020/2/9

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