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Episode 569 疲弊を理解するのです。

私の父親が認知症を患い、母親がその介護をするということが暫く続いた…というお話をnote記事にして、全12話のマガジンにまとめたのが去年の11月のこと。

その最終話で書いた、母親の意向を汲んだ「半分を施設で過ごし、半分を自宅で過ごす」介護案は、半年で頓挫することになったのです。

介護の現実と言うのは、回復の見込みがなく衰えていく家族を「少しでも良い状態を長く」穏やかに過ごしてもらう為の努力である…というのが、私が経験したことから話せる本音です。
ただし、その一言は…言うほど甘いものではないのです。
日に日に衰えて分からないことが増えて行く認知症の父…母に「私が面倒をみたい」という気持ちがあっても、体力的な限界には勝てないワケです。
結果として、母の本意ではないものの、父は認知症対応の高齢者用「グループホーム」に入居することになったのです。
そしてこの経験は、私の気持ちに大きな影響を及ぼすことになるのです。

最近の私のツイートから。

私はこのnote記事で何度もお話ししているのでが、世の中は多数派に有利にできているのですよ。
それは「左利き」を題材にしたマガジンシリーズでもお話ししてきたことです。

その多数派に有利な社会で少数派が生きていくために行う工夫について、専用のものを用意するよりも、ともに生活できる配慮と支援が欲しい…と説明したのですが、これがあなたと私のパートナーシップという「一対一の関係」で成立するのかを考えたときに、ちょっと疑問が生じたのです。
つまり…認知症の父と、その介護をする母の関係性に似ているということ。

ただ…ASDの私は「社会の普通」に対応するための、ASDなりのロジックを駆使するワケです。
そうしないと社会で対応できないから。
当然それは定型のみなさんが考える「一般的な思考」とは違うことがある。
それをASDの私は自分自身で気付くことができないのです。
何故なら、その方法しか知らないから。

定型のあなたはASDの私と生活する中で、「私の普通」に対する違和感を感じることになります。
それは定型の「あなた普通」と異なるからです。
異質の普通を目の当たりにして自分の感覚に不安と自信が持てなくなる…が、カサンドラの入口にある様に思います。

このツイートでお話ししているように、ASDの私にとっても「この世界は良いも悪いも普通の世界」で、あなたと違う世界が見えているワケではありません。
ただ、一般的な多数派の方と違った思考をナチュラルにしてしまうことがあるのです。
それは「私にとって普通」のことなので、仮に自分の障害を自覚していても、自分自身で気が付いて修正することが極めて難しいのです。
その一方で、あなたにとっては「私にとっての普通」が普通には見えないことがあるワケですよ。
私が自分のASDを自覚して、あなたも私のASDを認めていたとしても、社会一般の普通からの逸脱を指摘できるのは、家庭内ではあなただけ…なのです。
その二人の着地点は「お互いの合意」で決められれば良い…そうなんですけどね、指摘している通り、世の中は多数派が生活しやすいように出来ているのですよ。
如何に障害を抱えた状態で定型有利の世界に対応するのか…そのために障害の位置と内容を確認して、出来ないことに対しての配慮と支援をお願いしよう…になるワケですよ。
これをパートナーシップという一対一の関係に持ち込んだ時に、「パートナーに負荷が無いか」と問うたら間違いなく「ある」になる…違うかな。

ASDが自らの障害に気が付き、それを含んだ自分自身で社会生活を送るとしたときに配慮と支援が必要になるのは、「多数派に有利にできている」世の中で、足りないや難しいを補う必要があるからです。
この時点で多数派に合わせる努力をしていることを理解しないと…。

パートナーシップが「50:50」の関係性であることは重要です。
でも、それはお互いの意思を以って共に進む方向を決める…という部分の話であって、「障害に対してのケア」という視点は、それとは別に考えないとならないのだろうと思うのです。

父の介護で「疲弊」した母は、それが本意ではなくても、父を施設に預ける選択をせざるを得なかったのです。
障害に対するケアを当たり前のものとして流し、対等性を前面に出せば、障害に対しての気づきと指摘という労力が成仏できずに疲弊して宙に浮くことになる…。

私は配慮や支援をくれる皆さんに、感謝を忘れてはならないのです。
それが生活する上で必要な権利であっても…です。

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