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Episode 299 流れに乗れてないのです。

公道でクルマを運転する上で重要なのは「流れに乗る」ということだと思います。
もちろん、運転免許が取れるくらいの基本的な自動車の操縦ができて交通ルールを守るということは大前提ですよ。
「その上で」での話です。
川の流れのように、周りのクルマの走るスピードに合わせて私も車の運転をする、それが安定して走るためのコツだと思うのです。
毎日クルマの運転をする私は、自分の安全を守るためにも流れを乱すような行為はしないように心がけています。

基本的には、この「流れ」がスムーズな時は交通事故が起きたりしません。
事故が起きるということは、流れを乱す「何か」が発生するということだと思います。
出来るだけ、流れを乱すような行為をしない…とほとんどの人が考えているのだろうと思います。
そして、この流れに乗ることが出来る人を指して「クルマの運転ができる」と言うのだろうと思います。

恐らくですよ、この辺りがクルマの運転に関しての「できる基準」です。
私もそこが基準だと思っています。
運転免許を持っていても上手く流れに乗れない若葉マークの人がいたとして、その人を「運転ができる」と評価するのかと言ったら…どうでしょうね。
つまりね、普通の感覚では「助手席に乗っていて安心できるか」がクルマの運転の評価基準になっていて、そこが物差しの目盛りなのだと思うのです。
なぜこれが普通だと思うかと言えば、クルマの運転は「周りの中の自分を具体的に意識しなければならない領域」だからだと思います。

さて…私の学生時代を振り返って、学業成績はかなり良い子どもでした。
前に成績が良いことが自己肯定感に繋がるという話をしましたが、勉強ができてしまうことが自己肯定感を作り上げるのと同じように「できる」の感覚を作ってしまったとしたらどうか…?

学生時代の学業成績と言うのは、最高の評価基準になり得てしまうと思います。
「ちょっとくらいドンくさくてトロくても、勉強が出来るから大丈夫」って感じで、ドンくさくてトロい部分は、学業成績の影に隠れてスルーされる。
それが出来ているとして自他ともに評価が確定してしまうとしたら…。
他者との摺り合わせが難しくても、無理やり帳尻を合わせるブラックボックスを用意できるアタマがあるとしたら…。

家族や友だちとの会話の中で、周囲の人たちと自分の関係性を磨いていく時期のコミュニケーション不足。
飛び抜けて出来るものが、全ての評価を引き上げてしまう感覚

「できるとはなにか?」と問われたら、「周囲の人たちと同等程度以上に作業する」ということが社会的に言う「できる」でしょうね。
「ひとつの作業を完遂すること」が「できる」だという人は、多分異質だと思います。

私の「できる」のルーツは、きっとこんな感じに放置された結果なのでしょう。
私の「できる」の感覚は、きっとクルマの流れに乗れていないだと思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/7/10

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