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Episode 297 不得手に気が付かないのです。

私はゲームが苦手です。
昨日のカタンの一戦で気が付いたことではありません、その前からずっと分かっていたことのハズです。
だって…メンツが足りなくて呼ばれた麻雀大会とかで、勝ったことなどありませんもの。
でも、嫌いじゃないんですよね…麻雀。
何ででしょうかね…。

先日、のび太君がジャイアンの野球チームに呼ばれてプレーするって話題をこのブログで書きました。
あの時の私の視点はジャイアン側で、一緒にプレイしているのび太君が「ドンくさい」ことに手加減できず、イライラしてしまうことがある…という「ジャイアン一人称の私」について書いたのです。
それとは別に…もしかして、私は「のび太一人称の私」という別人格が存在する?
ふと、そんなことを思ったのです。

多分ですよ、私は野球とか麻雀とかカタンとか、「ルールを知っていて、ひと通りプレイが出来る」というレベルの「出来る」と、「ルールや動作を熟知して、高いレベルでプレイする」というレベルの「出来る」の違いが理解できていないのだと思うのです。

例えば…小学校低学年のサッカーチームに人数が足りないからって、お父さんチームからひとり「助っ人」が投入されたとするじゃないですか。
いくらもうオッサンだからって、まだ小学校の低学年レベルの体力には負けませんよ…。
視点も高くて見渡せるし、サッカーの戦略戦術的な部分も分かっているしね、ガチでやってしまえば相手チームをボッコボコにしてしまうでしょうね。
でも、中学生チームに「助っ人」投入されたら…体力的にも技術的にも見劣りして、お荷物にしかならないでしょう…。
私自身の知識・体力や技術は、何の変化はしていなくても相手次第でそのレベルは高く見えたり低く見えたりするわけです。
これは先日の傘の話と同じです

ゲームや麻雀が、私の「出来る」を基準にして「おもしろい」や「たのしい」と繋がっているのだとします。
私の「出来る」の基準は、恐らくプラモデルの完成とイコールです。
時間を掛けようと、何だろうと、ルールを理解してゴールまで物事を運ぶことが出来れば、「出来る」ということになるのだと思います。
スーパーマリオのようなゲームが出来ないのは「クリアという最後」まで到達できないからだと思います…つまり、完成しない、コンプリート出来ないということ
私の「出来る・出来ない」の基準には「相手」が存在しません。

その「出来る」という感覚と、失敗を糧に出来ない "Reset" が組み合わせらたらどうなるか?
もしかしたら、不得手なことに気が付かない?
「出来る・出来ない」と「得意・不得意」がまったく噛み合っていないのかも…。

なんか、新たなことに気が付いてしまった気がします。
自分の「出来る」の物差しの目盛りはひとつしかなくて、だから自分の「出来る」は周囲のレベルに合わせて伸び縮み出来ないのではないか?
つまり、苦手を意識する感覚が弱い。

そう考えるとなんか納得できる。
家族のカタン大会が、そんな発見を与えてくれた気がします。

旧ブログ アーカイブ 2019/7/8

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