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Episode 285 ずぶ濡れにさせてしまうのです。

私にとって「遊ぶ」とは「作業する行為を楽しむ」と言うことでした。
この話は昨日のブログで話題にした通りなのですが、これがなかなか難しいのです。

例えば、ギターが弾けるとしましょう
音楽を楽しむためにバンドを組もうって話になった時に、私が一番の問題と考えるのは、周囲のレベルと私のレベルが釣り合っているのか…という話です。
楽しく演奏できるレベルの揃った仲間…仲間が私よりも下手ならついて来れない仲間にイライラするでしょうし、仲間が上手過ぎれば完璧主義の私の腰が引けてしまう
それは、キレイに演奏しようということがバンドの目的に据えられているからで、「演奏する行為を楽しむ」という価値観に支えられているわけです。

ところが、バンドを組んで楽しむというのは、本当のところは「演奏」が全てではないハズなのです。
それは「組もう!」と決めてから、どんな感じの曲をやるのか、練習場所を押さえなきゃ、みんなで揃ってスタジオに乗り込み、ドキドキのファースト・セッション、お疲れ様の打ち上げで…。
素人の娯楽でやる程度のバンドなんて、そんな感じの「その他」が楽しかったりするのです。
最大の目的は、スタジオ上がりの打ち上げで一杯だったりして。

私は、その「バンドを組む」に付随するイロイロを共有することが「遊ぶ」なのだ…と、なかなか理解できませんでした。

このことが理解できた後も、「遊ぶ」の折り合いを付けるのは厄介です。
例えば、子ども相手に手加減をすれば、私の「作業感」が薄くなってしまって退屈になってしまうとかね。

ASDの私は、ひとつのことに集中して取り組むことを得意とします
以前、話題にしたプラモデルの話なんて典型的ですよね。
ドップリ、じっくり、自分のペースで「制作する」という作業に集中するワケです。

今振り返って、子どもたちが小さかったころに、一緒に遊んだことをほとんど思い出せません。
ドライブに連れて行ったとか、プールに連れて行ったとか…でもドライブって、私は運転していて、子どもたちは景色を見ていたような気がするし、プールに連れて行っても、私はプールサイドで「監視員」になっていたような気がします。

子どもと同じことをやって笑うことができない。
例えば、プールに出かけて、一緒に水を掛け合って大笑いとかできていればね…。

私は常に立ったままで、雨の中で傘をさしているのです。
私よりも背の高い人が雨を避けようと私の傘の中に入ってきたら、その人はきっと私の背に合わせて腰を屈めるでしょう。
でも、小さな子どもが雨宿りに来ても、私は腰を屈めて傘を低くすることが出来ません。

きっとね、私が子どものころ、大人たちは私のために腰を屈めて傘を差しだしてくれたのです。
それを私はレベルが同じと勘違いした…これはコミュニケーションの経験不足そのもの。

バンドを組むとは、背の高さがバラバラな人たちがひとつの傘に入って雨を凌ぐようなもの。
プールで水を掛け合って子どもと遊ぶとは、しゃがんで子どもと一緒にひとつの傘に入るようなもの。
雨を避けながら一緒にいることを楽しむようなもの。

私はこの傘を上手く上下できません。
言葉では分かっているのですが、私の傘に一緒に入った人をずぶ濡れにさせてしまうことが、残念なことに今でも起こってしまうのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/6/26

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