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Episode 284 「一緒に遊ぼう!」が大事です。

男の子の遊び方と女の子の遊び方は違うという話を聞いたことがあります。
それは、男の子は「今日、学校終わったら野球しようぜ!」と仲間を誘うのに対して、女の子は「○○ちゃん、今日一緒に遊ぼう!」と誘うのだ…というの話です。
男の子の誘い方は具体的で、「野球をするという目的をもって、みんなで集まる」というやり方。
その一方で、女の子の誘い方は「なかよしのあの子と出会ってから何をするのか考える」というやり方。

もちろん、男の子だから女の子だから…で完全に分かれるわけではないでしょうが、私の子ども時代を振り返って「確かにそうだった」と感じるのです。

人は成長する過程で、いろいろな人と出会い、いろいろな考え方を吸収して成長していくのだと思います。
ただ私の場合は、その経験自体が少なくて、しかも "Reset癖" があるために人の考え方をあまり吸収できなかったのだろうと思うのです。
結果的に、その典型的な男の子の考え方が大人になってもそのままの形で残ってしまったのではないか…そんなことを感じることがあるのです。

例えば、遊びに行くという表現で考えた時…。
私の場合「行って、見て(体験して)、帰ってくる」その行為自体が遊びであって、それがひとりであっても誰かと一緒であってもあまり関係がなかったのではないかということです。
つまり、自分の興味のあることを見たり体験したりすることが「遊びに行く」と言うこと…これって男の子的な「野球をしようぜ!」で集まってプレイすること自体が遊びって感覚に近いかな。

野球が下手なのび太君が、それでもジャイアンのチームに入れてもらえるのは集まって試合をするのに人数が必要だからであって、チャンスで三振してジャイアンに睨まれ怖い思いをしても、野球をするという行為自体は共有しているワケですよ。

営利企業の仕事も同じ。
売上を上げて会社が潤わないと、給料が怪しくなるワケですよ。
野球のチームと同じように、プレイして勝つという共通のベクトルをもって活動しなければ会社の存続が怪しくなるのです。
こう考えた時、男の子的な具体的な目的を持った誘い方は、仕事をするという環境に馴染みやすいのだと思うのです。

ところが…家庭生活はそうではありません。
パートナーと私と子どもたちとが、企業活動のように同じ方向を向いて一定の何かを求めて活動しているのか…と問われれば、それは違うと誰もが答えるでしょう。
私もそう答えます。
でも、本当にそう思っていたのか…と聞かれれば、改めて振り返って首をかしげてしまいます。

遊びに行くという話をこのブログでしたことがあります。
私の遊ぶ目的と、パートナーの目的はズレていたけれど、それがハマったという記事です。
私は、パートナーと出会い、共有するという意味を教えられます
それはある意味で「一緒をシェアする女の子的な誘い方」を教わるということでもありました。
ただ私の場合、それとは違う目指すべきものが現れた時、共有するシェアの感覚が消えてしまうのです。

パートナーとダイレクトに気持ちをシェアすることは出来ました。
簡単に言えば、SEXという、お互いがお互いを求めあう行為です。
でも、旅行とか遊びに行くとか「出掛ける」というダイレクトではない行為が入った時に、旅行している時間をシェアできたのかと聞かれれば…どうでしょう?
トランプで家族団らん…って、それはトランプをしている時間を家族でシェア出来ていたのか?
もしかしたら、家族で「トランプでプレイする」という同じ方向にベクトルが向いていると勘違いしていなかったか?
いつの間にか、ジャイアンの野球チームと同じななっていなかったか?

夕飯で家族団らん。
パートナーは「一緒に美味しく食べること、その時間をシェアする」と考えているのでしょうが、私は「一緒に美味しく食べること、その時間がシェアされている」と考えてしまう。
パートナーの力点は時間のシェア、私は食べることに力点が置かれていて、時間をシェアする感覚が抜け落ちる。
だから食事の「美味しい」はシェアできても、「楽しい」がシェアできなくて食事がつまらなく味気なくなってしまう。

「○○ちゃん、遊ぼう。」
曖昧な…が苦手な私は、明確に基準を変えることが必要です。
家庭ではこの感覚の物差しを用意する必要があると私は思います。
2本目の物差しのベースは、女の子チックな誘い方というお話をベースに考えると良いかな…と思っているのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/6/25

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