Episode 766 恐怖が団結を作るのです。
「私は教育学部の出身で、専攻は社会科、中でも歴史が専門です。」などと言うと、「歴史は何でも知っている」とか思うのかもしれませんが、そんなことはないのですよ。
以前にも話題にしたことがあるのですが、私の専門は歴史…中でも「終戦までの昭和日本」ですからね、埋め込んだ記事にもあるように、日本史でもそこに関係のない時代のことなんて、それこそ「(学術的に)専門」といえるレベルではないのです。
ましてや日本史が専門ですから、世界史なんてカラッキシ…。
そのあまり自信がない「世界史」が、今回のテーマなのですが…。
レイ(@wagonthe3rd)さんが提唱する「日本社会はオーティスティックに親和的」という指摘を「なぜなぜ分析」の手法で解析してみる企画、今回はその3回目です。
改めて、「なぜなぜ分析」とは…。
前回までの2回は、「Allistic(非自閉の民):Autistic(自閉の民)」の関係性が「世界:日本」の関係性と相似形であることを中心にお話ししたのですが、これをザックリと言えば、そこにあるのは「世界と日本の思考原点に大きな差があるだろう」ということです。
では、その「グローバル (≒大陸的) な視点」と「和風 (≒島国的) な視点」の思考原点は何でしょうね…ということになるワケです。
「なぜなぜ分析」の手法で原因究明を進めるのなら、ここを「そういうモノだから」と放置するわけにはいきません。
先ず手始めに、「グローバル (≒大陸的) な視点」の方から行きましょうか。
私がここで示す世界史観は、日本史と対比させる形で強調 (デフォルメ) していますからね、その点はご理解いただけると幸いなのですが…。
過去記事「成り立ちを知るは大事です。」で話題にした通り、殆ど接点がないハズの西欧諸国と島国日本の、「社会的コミュニティ」が進化する方向が同じだったのは、恐らく間違いありません。
それにも拘わらず、「大陸的視点」と「島国的視点」ということなる視点が違う文化を作り上げることになった理由は何か…と問えば、私は「常に異民族/異文化と隣り合わせの環境にあるか」が、その差を作る大きな要因になったのだろうと答えます。
欧州や中東なとには多くの民族が隣り合わせに住み、地政的な構造として覇権を争うことが常態化していたワケです。
もちろん、日本国内でも各勢力による覇権争いは存在していました。
でも…異教徒間の宗教戦争は、欧州/中東にはあっても日本には (基本的に) ないのですよ。
信仰する宗教が民族や地域の文化を作るのは極々自然なことで、それが相容れない教えをベースにしているとすれば、「得体の知れないモノ」と隣り合わせにある恐怖感が発生するのは想像に易いことだと思うのです。
私の思う大陸的視点のベースにあるのは、隣り合う異宗教民族/国家への恐怖心です。
「話せばわかる」というのは、わかり合うベースの共有があるから…とした時、話が通じない異教徒との覇権争いで勝利しても、相手が生存している限り、恐怖から解放されることはないワケね。
つまり「大陸的視点」は、思想的に異文化融合しにくい「異教徒隣接の緊張感」から、同族の、より強い宗教的な団結によって作り出されたのだろう…と。
今回のお話しは、直接「Allistic(非自閉の民):Autistic(自閉の民)」の関係性に踏み込む前…その背景のハナシです。
そして、これは私の歴史学をベースにした個人的な思考整理/理解の手法であって、一般論ではありません。
特に、読み物としてステレオタイプ的にデフォルメした表現も含む点に注意が必要です…と、改めて釘を刺した上で。
次回、コレと対比する形で「島国的視点」を考えるワケですが… (つづく)。
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