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Episode 224 LikeとLoveが曖昧です。

私の恋愛事情でひとつキーポイントになるのは、外見からの恋愛スタート…所謂「メンクイ」であることは先に指摘したのですが、この「メンクイ」の感覚も多分定型者と違うのだろうと思っています。

定型の人は、乳児から幼児、幼稚園・保育園児、小学生、中学生…と、年齢が上がるにつれてその社会性を広げ、コミュニケーションの幅を拡げていくのだろうと思います。
その一方、私のようなASD者は感覚のどこかに「過敏/鈍麻」を抱え、その上手く働かない感覚を回避したりカバーしたりする努力をすることで、独自の社会性を作り上げるのだと指摘しました。

私の場合は聴覚と触覚に「過敏/鈍麻」を抱え、それ故にそこを回避しカバーする思考パタンと行動が代替回路として考案されたワケです。
その方向性は対人関係を極力回避するものであって、結果的に人間の社会的成長に必要な対人関係の練習をサボタージュするモノであったのです。

ただ、対人関係を回避するのは人が嫌いだからではなく、あくまでも自分の感覚的な弱点を回避するためのものであって、その結果として人から遠ざかることになった点は、極めて重要なのです。
そう、独りでいるからといって独りが好きなのではないってこと

年齢が上がるに従い、定型者との対人コミュニケーションスキルの差が広がり、さらに人から遠ざかるということが行われてきたのだろう思います。

ところで、人間が生きていく上で「好み」というものは必ずあることでして、好きなミュージシャンがいたり、好きなタレントさんや俳優・女優さんがいたりするわけですよ。
例えば音楽の話なら、透き通った良く通る声が好みだったり、ハスキーボイスの方が好きだったり…。
「その声が好き」…という具体的なモノであれば良いのですが、「あの人が好み」とかいうとちょっと事情が変わります。

普通、気になる容姿の人を見かけると「カッコいい!」とか「キレイ!」とか思うのでしょうね。
動詞で言えば "Like" になるのでしょう。
そうやって出会い、お互いにコミュニケーションをとり、お互いを知る過程で "Like" が "Love" に変化していく…。
まぁ、恋愛映画や小説はそんな気持ちの化学変化が甘酸っぱく語られるわけですが、私は自分自身の気持ちに対人 "Like" が殆どないのではと感じているのです。
だって、ひとめ惚れだと宣言して、それが "Like" であるハズがないじゃないですか。

自ら誰かを好きになった場合、それが "Love" であることは明白です。
でも、あなたが私を好きになって「好きです」って告白された場合、私の中でのあなたへの気持ちは…?
「付き合う」という具体的な行為と "Love" という動詞は繋がっていて、そこに私の気持ちが乗った時に自分自身を "Love" に押し込んだ?

それは本当に "Love" だったのか?
自分自身の気持ちが相手に向いていたのか…非常に疑問です。
これがいわゆる「恋に恋する」ってヤツなんでしょうが、社会的対人コミュニケーションスキルの未熟さ故に、私自身の感覚の中で "Like" と "Love" が曖昧になっていたのだろと感じることがあるのです。

"Like" なメンクイが、ない。
それは、"Like" と "Love" が曖昧になっていることで作り出される私の感覚なのだろうと思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/4/26

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